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差別と区別

gelgelの回答

  • gelgel
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回答No.5

確かに、区別というものは差別の温床です。しかし、区別なしには人間の生活は成り立たないでしょう。実際、われわれがこうして言葉を使っている時でさえ、言語と非言語の区別を行っています。また単語同士の区別なしには文章を作ることはかないません。言葉を抜きに考えても、目の前のライオンと猫の区別がつかないようであったら、たちまちわれわれの祖先はかみ殺されていたでしょう。 従って区別とは本能に根づく人間の認知能力であり、それ自体は否定も肯定もできない「ただあるだけのもの」です。 問題は区別が一人歩きし出すことです。一度ライオンを「恐いもの」とレッテルはりしてしまうと、ライオン全てを、恐いものと人間は判断して行動します。そしてそのうち、その個々のライオンを観察することなしに、ライオン=恐怖と即断し、すべてのライオンを殺害したり、監禁することを当然視することになります。 ここでライオンをユダヤ人や黒人、朝鮮人と置き換えれば、その結末の恐ろしさを考えることができるでしょう。 このレッテル張り(ステレオタイピングといいます)が差別の直接の原因です。つまり、おそらく、出題者さんの引いた言説は「差別はステレオタイピングから産まれる」というものだと思います。

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