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公理と定義の違いについて

公理と定義の違いについては過去の質問でもあったようななかったような気がしますが... 「公理」: 命題として意味を与えるもの、又は 証明できない命題を真と仮定してできた命題 「定義」: 対象に意味を与えるもの というような理解でいいのでしょうか? どうもそれでは不十分だと思うので、もっとスッキリする理解の仕方がほしいと思います

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  • ベストアンサー
  • marth
  • ベストアンサー率36% (24/65)
回答No.1

その通りで結構です。 定義は、例えば「有理数とは整数aと0でない整数bによって、a/bと表せる数」のように、既に意味づけられている語句によって新たな語句に意味づけを与えることです。 一方、公理とは、例えば「任意の1本の直線と、直線上にない任意の1点に対して、直線と平行でかつ点を通る直線は1本しか引けない」という、一見証明可能な命題のように見えながら、実はそれ以前に与えられていることをどのように用いても証明できないこの命題を、真たる命題として以降の議論を行う議論があります。 これは、平行線公理と呼ばれ、ユークリッド幾何学ではこれを真であるとの前提の元で議論を行っているわけです。 (もちろん、偽としても議論は出来て(例えば、「平行な直線は1本も引けない」など。)、このような幾何学を非ユークリッド幾何学と呼んでいるわけです。

yumisamisiidesu
質問者

お礼

ありがとうございます. 例を分りやすく説明していただきありがとうございます. 今はこの形で理解しておきたいと思います

yumisamisiidesu
質問者

補足

あとから気が付きましたが、理論体系の中であってもなくてもその理論の内容と同値なのが定義、ないとその理論と同値でなくなる(より一般的な理論になるのが)公理って言う理解の仕方だといいように思えました.

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