• ベストアンサー

逃避への意志

死からの逃避,そのために 神を作り,宗教をつくり,倫理を作り,模範を作り,あるべき姿を作り, 期待される像をいくつもつっくてきました。 死を考え出した時に思考停止に陥らず,かつノイローゼにならない処方箋のようなものはないでしょうか。 実は,友達が生物系の学生で鬱病になってしまったのです。 教官との相性が悪かったらしいのですが,私は命を研究のために取り扱っているとどうしても無神論者にならざるをえない状況におかれるような気がします。 私も研究をやっているとどうしょうもない現実の無意味さに襲われることがありますが,なんとかニヒルに無意識に差別したり優越感に浸ったりしてやりすごしています。私は釈迦にはなれないし,悟りも開けそうにありません。 テロ事件があったときも感情が死んでいました。 ペットが死んだ時はあんなに悲しんで涙したのに。 世界が良くなれと祈る時はいつも平安なときで,安全地帯にいる限り祈る気持ちは嘘偽りかと思えてしまいます。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • tale
  • ベストアンサー率43% (7/16)
回答No.4

greatcatさんは、もしやなにかの答えを期待しているのでは ないかもしれません。宗教や科学や政治の問題が、さまざまに 「いま生きている」あなたを危機におとしいれ、不安をしいて いるのでしょう。その声にならない叫びのようなものです。 しかし、ふと何故あなたがここに投稿されたのか思い起こして ください。あなたは心ならずもSOSを発信され、そして私は どこの誰かもわからないのに、あなたの言葉を深く受け取りました。 私はこの言葉について、私の生き方で生きようとするでしょうし、 簡単に忘れはしないでしょう。 さて捕食される生物は、自分が食い物だとおもって生きているわけでは ありませんよね。するどい歯によって食われているときでさえ、自分のために 生きています。けれどその死が食らいついた生物を生かすのです。 死をさしださなくても、誰かのためになど考えたこともない生命系が みごとに生命同士をいかしています。 個人的な感情や、認識をこえたところにこそ、本来の生命の任務があるのでは ないでしょうか?わたしがあなたの言葉でいかされるように。あなたの 不安や認識の外側に、理解すべき生きる原理があるのではないでしょうか。 たとえ自分にとって意味のないことでも、あなたが生きているだけで 救われる人もこの世にはいるということです。

greatcat
質問者

お礼

回答に感謝! 人間も食物連鎖の中にいるのですね。 これからは,ご飯を食べる時にもうちょっと感謝の気持ちがもてればと思います。 生きるためには,他の動物を殺さなければならないという実感がもてません。 人間(私)を食物連鎖の頂点においておくのには余りにも尊大すぎますね。 私は日本の農業を軽視する考えに反発を覚えます。 自給自足は生きるための大原則だと思います。高度情報化社会ではだれも聞きはしませんけど。情報の洪水によってTVをみる感覚は麻痺しきってしまいました。

その他の回答 (3)

  • sokura
  • ベストアンサー率38% (40/103)
回答No.3

 私も「死ぬのはイヤです」。しかし、怖くはありません。なぜ「イヤ」かといえば、「痛い」からです。「痛い」のがなければ、「殺されようが病気で死のうが仕方、ないな」と思っています。  そして、何があっても「死ぬ」んだから、いいよ。とも思っています。このさき、次第に老いて、とぼけて、汚くなって…。「死ぬ」ことも「老いる」ことも、本当に「イヤ」なことですが、訳のわからないうちに、いきなり「死」にます。きっとそうなると思います。  「死」は「死」んでみなければ、経験できないので、どんなものかは知りませんが、それを考えることは、しかし、「未来」を夢見ることでもあるのです。  「よりよく死にたい」、世の哲人は、そう思って哲学に励みました。あの世で神様に「よりよく生きたからこそ死ねたのだ」と言ってもらいたかったのかも知れません。  「死」を考えることは、したがって、未来を「夢」みることです。恐れる必要はありません。アメリカの反撃は、どれくらい過酷なものになるのだろうか、と明日を考えるのと同じ「意識作用」です。だからこそ、人は、この意識作用から免れることが出来なくなるのです。どうしても「イヤ」なら、意識させないことですが、 人が明日を夢見るのは、宿命です。こうした意識作用と、毎秒毎秒つきあっていかねばなりません。そして「老いて」、誰もが哲学者になって死の間際、言うのでしょう。  「これでいいのだ」--カント。  私もこれでいいのだ、としか言いようがないような気がします。ですから、「死」を考えることは、逃避ではありません。ましてや、「闘い」でもありません。呼吸をするような、そんな日常茶飯事の出来事です。  それでもつらい、とすれば、「そうだ、仕方がない」とつぶやいてみてください。そして、「誰でも死ねるんだから、いいよな。完結しないのに、完結するんだから」と諦めてみてください。  私が言いうるのは、この程度ですが、…。  

greatcat
質問者

お礼

私の文章のつたなさで迷惑かけてごめんなさい。 存在の無意味さは感じるもので,死を考えるのとは少し違います。 死の恐怖から逃れたくて神様を作った訳です。 私の意味するところは死の恐怖から逃避したいがためにいろんなものにすがることです。 最後に,私の場合はもがき苦しんで死ぬと思います。未練たらたら生への執着を残して。 その姿を見て観念的死から体感的死を他の人の脳裏に焼き付けて死んでいければと思います。

  • caballero
  • ベストアンサー率17% (31/182)
回答No.2

シロクマからの逃げ方があるように、精神に対する圧力からの逃げ方もあると思います。しかし、あなたの友達の経験するものが、精神の内面変化である場合、同じく変化をもって対処するべきだと思います。  水槽の水かえをしている時に、ネオンテトラを一匹、こぼしてしまいました。二階の窓から排水していたので、当然行方不明です。あっっ!?ってかんじですが、殺してしまった気持ちも薄く、細工ガラスを割ったような、気分になりました。これは倫理の喪失ですか?意志があるかのような反応をみせる植物、大事にしたくなる綺麗な石とか、舞台装置と俳優の違いのように、精神の変化は、どこに視点を置くかということで大きく変わると思います。 ただならぬと思われている自分の死は、見えないところで水がこぼれるのと同じ事です。 なんともいえなくてすみません。

greatcat
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 シロクマからの逃げ方は相当の訓練と修行を積んだ人でないと厳しい気もします。 死から逃避するのもそれなりのテクニックが必要ですね。 その友達は本人いわくかなり前からそういう傾向はあったらしく 家系もそういう人が多いといってました。 結局,私は自分の都合のいいように生きていくのかな。

  • i-junkie
  • ベストアンサー率33% (25/75)
回答No.1

こんにちは。実際にお話したわけではないので、greatcatさんの一つ一つの言葉が、何を意味していて、何に由来するのか、私に完全に理解できるわけではありません。そうした空白は私の予想で埋めていくほかないのですが、あなたが考えていることと、すれ違っていたらゴメンナサイ。 私は「神様が人間に何か生きる意味を与えてくれている」とは思いません。全ての存在は、存在する価値を持って生まれたわけではないと思います。つまり、「私は何のために生まれたのか」と考えても、本当は「何のためにも生まれていない」のだと思います。 しかし、人間は意味付けできます。他の存在やシンボルに意味付けするだけでなく、自分自身をも意味付けできます。そして、唯物論的には無価値かもしれない「生」にも「死」にも意味付けできると思います。「全ての存在は無価値である」という命題からでも、生きる意志を生み出すことは可能だと考えています。 でも、そのためには何かきっかけ、魂を揺さぶるような経験が必要だと思います。それは万人に共通のものではないでしょうね。私の場合は、アラスカの木々でした。説明はできないですが、その雰囲気に触れて、私は宇宙のなかでちっぽけな存在である、しかし、それを精一杯、無心にもがいてあがいて生きてやろう、と感じました。生きていて、大気を感じ、大地を踏みしめれることは素晴らしいことだと嬉しくなりました。 死は、これは何か星野道夫に関連した言葉であったかと思うのですが、次に生きるものたちへ生きる場所を譲る行為だということです。死ぬことは決して無ではなく、空間や想いをあけわたすことであって、「生」の前に戻ることだと思います。とはいえ、痛いのや辛いのはいやですけどね。 生き物を扱う学問であるからこそ、命の不思議、素晴らしさは感じていたいものですね。また、人間はその命を奪わずにはいられないのですが、痛みにマヒせず、痛みを見つめて、生きて死ぬのだと思います。大変だと思いますが、ご学業、頑張ってください。 なお、アエラ・ムックで「死生学がわかる。」という本があります。哲学をもともと専攻されていない方には読みやすいかとも思いますので、機会があれば手にとってみてください。また、すでにご覧になったことがあるかもしれませんが、カーソンの「センス・オブ・ワンダー」、ぜひご一読ください。

参考URL:
http://opendoors.asahi-np.co.jp/span/aera/mook/backnum/mook060.htm
greatcat
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 ふと思ったのですが,屠場で働いている人などは生き物に対して, 命をいただいていると言う気持ちは強いのかなと思います。 私は命を奪うのが嫌で嫌でたまりません。それでもお肉は好きですし お魚も大好きです。殺生を人任せにしてきたことは確かです。 そういう生命に対して私は優しいんだというポーズをとってきたのかと思います。 魂を揺さぶるような経験も時とともに薄くなりました。 全ては自然の流れに任せようと思います。 その自然と言うものもこっちの都合のいいようなものかな。 災害はいやですし。

関連するQ&A

  • 釈迦は菩薩であったとは言えないんですよね?

    こんな事を考えたのは大乗仏教的に釈迦を捉えようとした面で生まれたのですが。以下、長い文になってしまい申し訳ないのですが、読んで下さると助かります。 wikiより、釈迦出家の動機をまとめて→「釈迦は日常的にこの世の無常を感じていて、その出家が決定的となったのは四門出遊の故事である。(中略)生ある故に老も病も死もある(生老病死:四苦)と無常を感じた。北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった。」 と、その修行は利他行の精神からではなく、ただ人間の煩悩や苦悩からの解脱を図ろうとした修行であったと思います。 それから後ご存知の通り釈迦は成道し、(釈迦はこの時点で阿羅漢、有余涅槃であったと私は考えます) そのまま喜びの中で無余涅槃に至ろうとした釈迦を、梵天は釈迦に法(ダルマ)を衆生に説くことを勧請し、その結果釈迦は仏陀として衆生に法を伝える身となった(応身)。この事を釈迦の慈悲、大悲と呼ぶ。 この考えでいくと、釈迦はまあ結果的に衆生を救おうとした(悟りを開かせようとした)ことになると思うのですが、それは仏になってからで、その前は阿羅漢であり菩薩ではなかったと考えられると思います。  天上天下唯我独尊 三界皆苦我当安之 なども大乗仏教が釈迦を崇拝させるようにした作り話で、そもそも釈迦は単純に法を説く事に使命感を抱いていたんじゃなかろかと私は感じています。で、大乗仏教で言う菩薩に釈迦は(修行中でも)当てはまっていたのだろうか、と考えたわけなのです。 長くなりましたが、私が感じていることを踏まえて頂いた上で、質問に回答して下さればとても助かります。宜しくお願いします。

  • 若い時の苦労は買ってでもしろ という言葉について

    大学院生の男です. 私は毎日,朝から夜中まで大学で研究しており,正直今かなりきついです. また,指導教官からのプレッシャーもすごいもので,非常に成果を求められるため, 毎日のように怒鳴られたり,成果が出せないと相手すらしてもらえません.これが かなりつらいです.心身ともに折れそうになってきました. 「若い時の苦労は買ってでもしろ」とよく言いますが,今苦労をしておけば, 社会に出たときに役に立つでしょうか? 来年から私も社会人として働きますが,現在,あるいは来年以降も自分を追い込んだほうが いいでしょうか? 正直,今が少し辛くてこのような現実逃避のような甘えた質問をしております. お許しください. 人生の先輩方,「若い時の苦労は買ってでもしろ」という言葉について アドバイスをよろしくお願いします.

  • あなたは ニルワーナ(涅槃寂静)をこいねがうか

     問いまたは/およびたたき台として 次のようです。  1. 《ニルワーナ=さとり》か?     ▼(ヰキぺ:涅槃) ~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83    涅槃は、「さとり」〔証、悟、覚〕と同じ意味であるとされる。   ~~~~~~~~~~  ☆ でよいか?  2. 《ニルワーナ=涅槃寂静》か?  ▼(同上・承前) ~~~~~~  しかし、ニルヴァーナの字義は「吹き消すこと」「吹き消した状態」であり、すなわち煩悩(ぼんのう)の火を吹き消した状態を指すのが本義である。その意味で、滅とか寂滅とか寂静と訳された。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この特に語義をめぐる議論ないし情報は 次の質問すなわちほかの方の質問ですがそこでのやり取りを参照してください。もしそれについてもご見解があるという向きには のべてください。  【Q:ニルヴァーナを否定する思想】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7792422.html  3. 《ニルワーナ=死》という定義の場合について  ▼(承前) また、涅槃は如来の死そのものを指す。涅槃仏などはまさに、死を描写したものである。  ☆ この意味についてもそれを 《こいねがうか》といちおう問うておきます。  4. 《ニルワーナ=涅槃寂静》について  ▼(承前)  「人間の本能から起こる精神の迷いがなくなった状態」という意味で涅槃寂静といわれる。  ☆ これについて《こいねがうか?》と問うわけですが おそらくまづは この《ニルワーナ=涅槃寂静》の定義について さらにくわしい説明が必要かと考えます。ご自分の見解を示して お答えいただければさいわいです。  4-1. たとえば《精神の迷いがない》と言っても 生身の人間は あやまちをおかしたり迷いを持ったりするはずです。それでも《さとり》はありうると質問者は考えますが そのあたりのことをはっきりと明らかにして定義していただけるとさいわいです。  4-2. その場合には 《死》という意味での涅槃は あくまでたとえなのだという解釈を前提にしているはずです。それでよいか? ともあらためて問います。  つまりたとえば 次の《ニルワーナ=やすらぎ》という翻訳も 賛否いづれにしても 参照されるものと思われます。  ▲(同上) ~~~~~  南伝のパーリ語教典を訳した中村元はダンマパダ、第十章、「暴力」、百三十四節の訳注において    「安らぎ - Nibbāna(= Nirvāṇa 涅槃):    声を荒らげないだけで、ニルヴァーナに達しえるのであるから、   ここでいうニルヴァーナは 後代の教義学者たちの言うような   うるさいものではなくて、心の安らぎ、心の平和によって得られる   楽しい境地というほどの意味であろう。」  としている。  ~~~~~~~~~~  4-3. というのは たとえばぎゃくにかのソクラテスの場合には じっさいに死ぬという事態になっています。そのような事例との関連では どう考えるかの問題です。  《よく生きる》ことが 死ぬことにつながった。・・・  5. 《精神の迷い》は 人間の《本能》から来るか?  細かい議論になりますが 前項の引用で   ▲ 人間の本能から起こる精神の迷い  ☆ とヰキぺ氏は書いていますが これは ほんとうでしょうか? つまり《精神の迷い》は 《本能から起こる》とは ほんとうでしょうか?  本能ないしその感性は それを知覚したところで まだ理性的動物であることの要素が現われただけなのではないか?  つまりその知覚のあと むしろ精神が その本能のおもむくままに進め 進んでもよいと決断し よっしゃ進んでやろうと心に――心にさからってでも――決めたときに起こる《迷い》であり《あやまち》なのではないか? これをも問います。  人間のあやまちは 理性主導によるマ(間)の違いから概して生じるのではないか?  6. ゴータマ・ブッダの《成道》とは何だったのか?  ▲(同上) ~~~~~  涅槃を有余と無余との二種に区別する際の有余涅槃は、釈迦が三十五歳で成道して八十歳で入滅するまでの間の「さとり」の姿を言う。  無余涅槃は八十歳で入滅した後の「さとり」の姿とみるのである。  この場合の、「余」とは「身体」のこととみて、身体のある間の「さとり」、身体のなくなった「さとり」とわける。  ~~~~~~~~~~~  ☆ 有余涅槃は [4-1]の《生身のからだ》でいるときのニルワーナだと受け取られます。  6-1. だとしたら かの《成道》とは 決して最高・究極のさとりだとはとても考えられません。そのオシエは じっさい後世においては無論のこと生前においても 変わって行っていると思われるのですから。  たとえば少なくとも 《空》の概念は ナーガールジュナがあらためてその意味を確定するその前においては ゴータマブッダにしてもはっきりしていない。  (▲ ヰキぺ:空 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99)  6-2. 《無我(ないし非我。アナートマン)》にしても 最初ゴータマは《我執の否定》を言っていたと言われます。 《〈わたしの物〉という観念を離れること》。  その後やはりナーガールジュナによる《空》説において ゴータマの縁起説の復活というかたちで 内容が確定したとしても ゴータマの時代には けっきょく明らかではなかった。  つまり ゴータマ説は 解釈においてだけとしても 変化している。言いかえると ゴータマは人びとにはっきりと分かるようには説いていない。  これが 究極の成道であると言ってよいか?  7. あなたはニルワーナをこいねがうか?  単純に言って ニルワーナは《〔風が〕吹き 吹き消されること》を言うらしいのですが そんなマイナスの言葉をわざわざえらんで用いているのですから  ▼ (ヰキぺ:涅槃) 初期の仏教が、正統バラモンから他の新思想と共に虚無主義者(ナースティカ、nāstika)と呼ばれた  ☆ のは 不思議ではないようです。一面ではニヒルな内容を持つこのニルワーナを あなたはほんとうにこいねがい ひとつの理想としますか?  欲張っていろんな論点を盛り込みましたが どの点についてでも自由にご見解をお示しください。  お座なりの説明ではなく ご自身の納得の行っているその中身をお聞かせいただけるとありがたいと思います。

  • 逃避、現実逃避を教えてください、

    逃避、現実逃避を教えてください、 少し詳しく説明させてください。 ここ数日色々考えていた時に自分の考え方は客観的なのでは?と思ったんです。 自分の気持ちが分かりません。 私の答えはいつもこんな感じです。 私は頭が賢くありません、それは勉強をしていないから。 忘れっぽいです、それは抜けているから、それはなおらない。 こんな風に理由をつけて考えてきたので自分に対しては悩んだ事がなかったです。 理由、経緯、流れ、がないと相手の気持ちも分かりません。自分の気持ちが出てこないんです。 ドラマも途中から見れないです。経過が分からないので全く理解できないです。 映画や小説、ニュースも凄く苦手です 映画は特に色々な人の感情、経過などが映り、誰が主役なのか分からなくなります。 客観的、全体的にしかみれないです。自分の感想がないです。 当たり前でしょうか? 客観的をネットで調べたところ現実逃避は客観的に考えると書いてありました。 これは現実逃避をしているのでしょうか? 支障はないですが、こんな事ばかり考えここ数日止まらなくなりました 私は逃避をしているのでしょうか?それとも普通なんでしょうか?教えてください。

  • これって逃避

    実家は貧乏で・・別に戦後に生きてないです 雨漏り 給食費払えない アルバイト代も家に収めてたし次女と 協力して・・次女もいっしょと思ってました 父親も借金だらけ 嫁に出た長女も借金だらけお金の要求 凄くお金かかってました 私は逃げ出したかったけど 次女は父親 長女のこと嫌ってても絶対離れないのを見て 次女ががんばるんだったら協力し合おうと思ってました 二人でアパート借りて 生活費折半して 親の面倒見ようと思ってました でもアパートに住もうといっても 私の言う事全然聞いてくれない 怒るし 凄く疲れました あの時は2人で協力しないとできない とおもってましたが 今なら1人でも父親の面倒見れそうです 結婚はしんどいばかり 結婚しようと言われても 断ってました でも旦那なら協力してくれるだろうと思った でもずっと次女の事はサポートしようと思ってました 決してすてたわけではない ただあいてがすごくかたくなで どうしようとおもってるのかわからなかったのです 今でも次女の気持分かりきれてないです そんな話の前提での質問です このコーナーの質問に 座禅を組んで 痛いとおもわず 自分が痛いとかんじているかんじている と思うとありました 私は昔 全然寒さ暑さかんじなかったんですね 確かに寒い 暑いとはわかるんですが でもそれにただ絶えてると言うだけで それを思いたくない  思い出したくない かんじたくない  忘れたい というものです よく人に寒いかっこしてるね 寒くないん?  ときかれてはじめて気がつくので ううん寒いと言います 何でぬくいかっこせんのん ていわれますが そのままはなしをそらしてしまいます 結婚しても しばらくは言われた 今は旦那より厚着です これは痛みに耐えるというより これは逃避でしょうか 私は逃避してたんでしょうか

  • これって逃避ですか?

    32歳の勤め人です。うつで投薬治療を受けて7年ぐらい経ちます。(自分でもよく休まないで、投薬だけで頑張ってきたとは思いますが・・・) 今、仕事が忙しくて、症状が悪化してきています。 昨年の夏ぐらいからの職場の環境の変化(TOPの交代、それに伴う仕事のスタイルの変化)、大きなプロジェクトの増加、ただでさえ多いのに日常の仕事量の増加で、自分の仕事の処理能力の限界を感じてきました。 自分でも、長年うつと付き合ってきたので、うつの状態が悪化してるのがわかります。 悪循環ではありますが、仕事がたまってるのを処理しなければならないのをわかっているのに、仕事を進めることができず、ちょっと取り組めばできそうな仕事なのに、取り組むことができず、日常のルーチンワークにも支障をきたしてきた感じです。 早く(職場で)相談できればよかったのですが、なかなかそういった環境になかったことや、自分の気持ちが小さくて、そのまま溜め込んでしまいました。 身体的にも、疲れてしまい、能率が上がらず、困っています。 金曜の午後、かかりつけの先生にこの旨を相談したところ、休んでリフレッシュするのもひとつの方法ですということで、薬の増量と休養を要する旨の診断書を書いていただきました。 月曜日に職場に行って、いきなり診断書を出して、「休みます」と言ったら、このただでさえ忙しい年度始めと年度末に、今の仕事の未処理の現実からの逃避かと思われるのかどうか心配です。実際、仕事の未処理の案件は多いのですが、もう、限界です。体力もついてこないし、このまま仕事を続けていても、いい仕事もできないと思います。しかしながら、ここで休みを取ったら、周りに迷惑をかけてしまい、自分でも逃避してしまうような気持ちがあります。 おとなしく、休んだほうがいいのか、仕事を続けたほうがいいのか教えてください。

  • 無の境地とは、死と向き合う生き様である。

    私はおびえる君達に深遠の恐怖を授ける者。 君達は、人である事を忘れてまでも、おびえることしかできない。 実在する仮面ライダー。 黒き明星だ。 君達の好きそうな私からの人生訓だよ。 君達はすぐに死を予感する臆病者だ。 すぐに死活問題と言ってわめき散らすね。 簡単に死を口にして、本気で死ぬんじゃないかと不安に陥る。 死活問題ってのは生活の危機の事だよね。 自営で経営している会社がつぶれて、だからと言って死ぬかい? 破産法が整備されていて、借金取りは命まで取らないだろ。 勤めている会社がつぶれて、だからと言って死ぬかい。 気楽なことだろ、新しく就職先を探すだけでいい。 これらを釈迦の言う無常として、悲しむようだと落第だ。 世の中は、常に変化している。 それは良い事なんだ。 つまり、勤め先の破たんなりなんなりがあろうとも、前向きであるならば、そうした生活の変化は、死の案内ではなく、人生の前向きな転機となる。 そうした生きる意思が本人にあればだけどね。 私が高校を卒業して家業のおもちゃ屋を手伝い始めたころ、およそ25年前だけどもね、新潟県には調査の結果150件ほどのおもちゃ屋があり、駄菓子屋や兼業店は正確な調査の対象外だが、ほぼ同数、合計300件あった。 その中で、現在を営業しているのは、業種転換しても家業を継続している店の総数で10件以下、昔ながらのおもちゃ屋は、私の家で2店営業しているのを含めて、合計で5~6件かな。 時代が変わって大型店のおもちゃ売り場に主流は変わっている。 この大きな変化で、君たちなら死活問題を感じただろう。 そのように死を予感したら、考えることは死を避ける方法だけだ。 ところが、死を予感しない私は、困難でも生きることだけ考えた。 死を避けようとする事と、生きようとすることは違うのだよ。 生きようとする知恵の働いた私の店は現在も営業している。 死から逃げようとした連中は、実際にはまさか死んだりしなかっただろう。 そうした連中は、幻に翻弄され、無駄な事を考えていたから、幻に敗北したのだ。 この過程で、私が編み出した勝利の法則を教えよう。 競争と一言で言うが、競う事と争う事は違う。 競う事は、小学生のかけっこの様な事で、おたがいの長所を伸ばし合う事だ。 勝者は確定するが、敗者は一人もいない。 本気で競い抜く事が出来れば善人勝者だ。 争う事は、闘争なり戦争という言葉があるね。 足を引っ張り合う事だ。 殺し合いに象徴され、全員敗者だ。 死におびえる者は、争わざる得なかったからこそ、おもちゃ業界から退場したのだよ 競う姿勢で、自己を磨いていたら、気が付いたら争う相手はいなくなった。 これが常に生きる事のみを考えた結果だ。 この果実は、昔ながらの商店街の古びたおもちゃ屋で子供相手に楽しむことにある。 世の中では、金持ちになることが成功だと言うがね、誇り高き、はた玩具店は、そんなことよりも、世の中の価値観より、自分だけの価値観の基づいて、子供たちの笑顔のために働く事こそ、自分自身の人生だと考える。 この心が、私が生きることの実践だ。 君達は金だけが頼りの様だね。 世の中から尊敬されそうな規範を望み、自らの望みが無い。 貧乏しても、子供達を幸福にすることは私だけの誇りだ。 君達は、世の中から尊敬されないと自分自身を誇れない、金で売り買いされる誇りしか持ち合わせていない。 このように自分らしく生きようとしないから、誰かから助けてもらわないと、死活問題という死の予感がよぎるのだ。 助け合っているという美辞麗句に隠れ、実は自分さえ良ければいいから、自らの意思で生きようとする事が出来ない。 私のこのような人生訓で言いたいのはね、自ら生きようとする自覚だ。 ジジイの柔らかい奇麗事、「私は私である」これは私自身においては、いかなる困難もものともしない「俺は俺だー」だよ。 そうしたことが君達には無く、泣きごとの様な奇麗事で、お互いを憐れんでいる。 ここらが、無の境地と係る話だよ。 本題だ。 死の予感をものともせず、生きる事を全うしている私は、君達と違って死から逃れようとしなかった。 死活問題なんて笑える幻だと思っていた。 そうして生きようとする意思が、そのまま死と向き合うことだった。 これは神話性のある、死の悟りという経験談で表現することができる。 死から逃げなかった私に対して、死の幻をもたらしていた悪魔が和解を申し出た。 それは、セレビィが2001年7月に映画上映という形でポケモンデビューしたことをきっかけに。2001年8月にもたらされた私だけの滅びの宴だ。 死よ阻もうとするからこそ悪魔を名乗った神の姿からの和解を受け入れ愛を結んだ。 そこで私は、悪魔が隠し続けた死を理解した。 観念上で、ファイト一発死の儀式をしたんだ。 これがそのまま無の悟りである。 それが世界に自らを開放することだった。 この解放が、自らを滅することだと言われていた。 イデアなり、涅槃と言われた観念世界を、君達は死に染めた。 その死と邂逅することが、死の儀式であり、死なんてとんでもない、それでこそ生きる事を実感し、自らが神と共に永遠である事を自覚するのだ。 観念世界に心眼を開く事が目覚めた者なのだ。 君達にとってはそれは死を象徴することだ。 そのように逃げている。 私に言わせると、死活問題として引用した、死の幻は、悪魔の演出ではない。 君達の恐怖が見せる幻だ。 悪魔は受け入れてくれるとも、何故なら生命をもたらす神の姿の一つだから。 結論は死活問題なんてあほらしいと言う事だ。 さて質問趣旨だが、私は西洋的神学と結びついた西洋から輸入された哲学とは別に、「実在する妖精の捕まえ方」という、一人ひとりに寄り添う神の姿、精霊崇拝の延長を哲学的に完成させる研究をしている。人と人がお互いに人間であると自覚するためには、すなわち社会を形成するためには、神の由来を正してそこから知性の根源を探る手法が採られていて、人と人が和解する哲学を標榜としている。 そんな独自研究の論説であり、それに対するご意見募集だ。 学問のカテゴリーなんでね、

  • 働く意志がわかない

    現在休職中なのですが、まったく働く気力がわきません。働かなければいけないのは分かっているのですが、どうにもダメです。 うまくやっていけるか心配 本当にこの仕事でいのか心配 の2点が理由のような気がするのですが(自己分析です)、気力がわく方法などありましたらお願いいたします。

  • 意志が弱いんです

    今までずっと強くなりたいと思っています。自分ひとりで何でもできるような人になりたいと思っています。だから一度決めたことは何が何でもやることにしています。でも、やらないことが多くて嫌になります。明日からにしようとか、まあいっかとかおもって、こんな自分が嫌いでしょうがないのです。どういう風な意識で取り組めばいいのか教えてください。

  • 意志が弱いのはどうすればいいですか?

    よく意志が弱いのでダイエットできないといいますが、なにを改善すれば、ダイエット成功しやすくなりますか?壁になにか鼓舞することを貼りますか?家族の周りに宣言することですか?