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忠魂碑について

中学2年夏休みの課題ですが忠魂碑に関してのことと 日露戦争当時の様子やその時代の様子など何でもいろいろ教えて下さい。 お願いします。

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回答No.2

明治時代に大村益次郎が江戸時代の身分制度の士農工商の武士の身分だけが戦いを受け持つのではなく健康な男子(但し妻と子供を養う親父及び役人、高額納税者は免除)が20歳になれば軍隊に入隊し、各々の出身地別に入隊し3年間兵士として軍事訓練を受ける徴兵制度を設け富国強兵の一環として軍隊の近代化を計る。 日露戦争の原因は当時の近代国家(英、米、ドイツ、フランス、ロシア)と肩を並べて侵略戦争(先進諸国との利権争い)に踏み切り日清戦争を始める。 日清戦争に勝利して中国で利権(遼東半島)を確保したが中国の利権を狙うロシアがフランス、ドイツを誘って日本が戦い取った利権を中国に返還せよと日本に迫るが日本はアメリカ及びイギリスの応援を得てロシアと日本が開戦。 当時の日本は貧乏国で戦艦を造船する技術も戦費も無く世界最強と言われたロシアのバルチック艦隊に匹敵する戦艦もなく軍備も近代化されていないので第二次世界大戦の時のアメリカ大統領ル-ズベルトの父親のテオドル・ル-ズベルト大統領が日本の国債をアメリカで引き受け戦費を日本に援助。 英国は当時の最高の造船技術で戦艦を建造し日本海軍を援助。 日本の陸軍の明石大佐はロシアで勢力を伸ばし始め、ロシアのロマノフ王朝の転覆を計る共産党に惜しげも無く資金援助(今の外交機密費)しロシアの政府中枢の情報(スパイ行為)を日本政府に連絡。 日本海軍が一番苦労したのはバルチック艦隊が地球の裏側から日本海に入ってくる時が何時か、何所で海戦を始めるかで苦労したようでバルチック艦隊が通過すると予想される海域に人を派遣して情報を得て対馬海峡で5月27日開戦。 日本艦隊の総司令官の人選を誰にするのかで明治天皇に上奏したときに明治天皇は東郷平八郎に決定。 東郷平八郎が海軍少佐の時に日清戦争の海戦で戦艦が直撃弾を受けたが彼は指に怪我しただけで、彼は幸運があるようだ、だけの単純な理由。 この時に海戦の作戦を立てたのは作戦参謀秋山真之中佐。 戦艦の数に劣る日本艦隊は英国及びアメリカ(負ければ日本の国債は価値が無くなり国債のお金を取り立てる為に日本をアメリカの利権を確保されたでしょうね)は3対7で日本が負けると考えていたようですが日本海戦に勝利。 この意味は重要な事で日本海軍が負ければ中国でロシア軍と戦っている何十万人の日本の陸軍が日本から食料、弾薬等の補給が絶たれ、日本の選択はロシアに無条件降伏で北海道を分割されていたかも知れません。 当時の戦争の主力は馬で戦う騎兵隊が主力で陸軍は世界最強の陸軍のドイツが、と言うよりヨ-ロッパの陸軍が絶対勝てなかったロシアのコサック騎兵団を投入。 この最強のコサック騎兵団を世界で始めて敗走させたのが秋山好古大佐率いる騎兵団。 この戦いの作戦及び日本軍の行動は今でも世界の陸軍士官学校の教科書で教えている言われています。 日露戦争の終結は明石大佐の行動が功を奏したのかドイツ皇帝がロマノフ二世に日本との戦争を止めなければロシアそのものが無くなるとの書簡を送り終戦に傾き、日本もこれ以上戦争を継続するだけの戦費が無く渡りに船と終戦締結。 秋山好古大佐は軍人退役後、政治家に押す動きがあったが明治天皇は軍人及び元軍人が政治家になってはならないとの教えに従って私学の中学校の校長で生涯を終える。 日本海海戦の作戦参謀の秋山真之の兄にあたります。 忠魂碑は町、村単位で徴兵(赤紙が来た)された男子が日清、日露戦争及び上海事変、第一次、第二次大戦で勇敢に戦い国の為に戦死した兵士の魂を慰め、後世に伝える為の碑です。 トルコとかロシアに攻められ占領地におかれた国々が東郷ビ-ルとか親日感情が高いのは、この日露戦争でロシアに勝利した為です。

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  • mtt
  • ベストアンサー率31% (416/1338)
回答No.1

 忠魂碑は過去の戦争(第一次、第二次世界大戦など)で戦死した兵士の御霊を慰めるためにその地域で遺族となられた方々が、お互いに費用を出し合い建立した一種のモニュメント(碑)です。今では各中小都市に一塔ずつあると思います。高さ10メートルのものは珍しくなく、また遠く水平線を見下ろす高台の一等地に建っているのもあります。毎年8月15日にはたくさんの遺族の方々が先祖のお墓参りを済ませたその足で花束や線香をもってやってきます。  日露戦争当時の日本の状況は太平洋戦争での敗色の色濃く、旧満州では毛沢東、朝鮮では李承晩・金日成が日本に占領された祖国奪還のため抗日闘争を激化していました。その弱体化した日本の現状をついて戦線を布告したのが今のロシアです。 日本軍を極東地域(サハリンなど)から追い出し、北方四島やサハリン周辺に国境を引いたという訳です。

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