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殺人罪が適用されるようになったのはいつからですか?

昨日、大奥を見ていて思ったのですが、昔(戦国時代)などは、何か有る度にもちろん戦でも人を簡単に殺していた事実がありますが、一体いつから殺人は禁止になったのでしょうか? 今の時代は殺人を犯したなんて事になると大変な事になりますが、昔は殺人罪を適用するどころか、武士などは、人を殺して戦に勝って勝利を収めどんどん出世をして高待遇で迎えられた事実があります。 今の時代は殺人者は幸せな人生を送る事は出来ませんが、昔は殺人を犯したにも関わらず、どんどん幸せになって行った事実があります。 人を殺してのし上がった人達が昔は幸せになっていたのに現代はその反対。 人を不幸に落とし入れたはずなのに幸せになって行く昔の時代が良く分りません。 人を不幸にしても幸せになれるんでしょうか? 不思議でたまりません。誰か分かる人居ましたら、回答の方宜しくお願いします。

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回答No.3

 最古の文献のひとつとされる祝詞のなかに、すでに殺人の罪が挙げられています。  ただ、時代が古く、あるいは乱世であればあるほど、「例外」が大きくなってゆくのだと思います。例えば現在の日本でも殺人は禁止されていますが、正当防衛や緊急避難などで他者の命を奪ったとしても原則として罪には問えないという「例外」があります。  江戸時代の場合でいえば、やはり殺人が罪であることはかわりませんが、まず武士階級には農工商に対して切捨御免の礼遇があります。無礼な行為に対して裁判を省略していきなり罰を、しかも個人的に食らわせていい、ということでしょう。それから、武士どうしの場合にも果たしあいや敵討ちはあらかじめ藩に届けておけば相手を殺しても罪には問えません(遺族が届け出た上で私的に制裁を行うのは許される)。こうした特例があるために、殺人が場合によっては法的に許されるわけです(ただし実際にそうそう人が殺されていたわけではありません。あくまでそういう権利と特例があったということです)。  さらにこのほかに、現在のような科学捜査が発達していなかった時代ですから、人を殺してもなかなか犯人がつかまらないという事情があります。また、犯人が見つかったとしても、例えば町人を武士が切った場合、武士に対する裁判と処罰の権利は各藩にありますので、町人を殺された藩や幕府が文句を言っても、「処罰するかしないかはうちの勝手だろ」とつっぱねることも可能です。これは今のアメリカ軍と日本の警察の関係とほぼ同様。藩といっても三百いくつもあるのですから、被害者加害者が別な藩に属していた場合にはかけあいがまとまらずに泣き寝入りというのはよくある話です(ちなみに浪人は基本的に住んでいる地域の支配になりますので、江戸の街角で浪人が町人を切り殺したとなるとすぐに町奉行に捉えられ、裁判のうえ処罰されます。切ったのが○○藩の侍、となるとややこしくなる)。武士だけでなく、僧侶や神主は寺社奉行の所轄、旗本は幕府の所轄、武士も身分によって藩や幕府内での担当者が異なっていたりとじつにややこしいために、犯人がつかまえにくかった面があります。  さらに江戸時代は基本的にタテ社会、最終的に将軍がいちばんえらいということになっていましたから、身分の上下が絶対のものです。つまり上の者がおかした犯罪についてはものが言いにくい面もあった(たとえば大名の犯罪については、ことが知れると将軍によって処罰=藩の取潰しがありえますので、家来が必死に隠す)ことも事実です。  ただ、総じて見ると江戸時代はひじょうに平和な時代です。殺人犯もあまり多くない。時代劇のそれはたぶんに話をおもしろくするための脚色の面があると思います。

rose1028
質問者

お礼

江戸時代って比較的平和な時代だったんですね。時代劇を見ていると斬ったはったの場面が必ず出てくるので何だか勘違いしました。ありがとうございます。

その他の回答 (4)

  • maotarou
  • ベストアンサー率50% (177/354)
回答No.5

 人を不幸にしても幸せになれません。これは「道理」。それに対して法というものは「秩序」です。道理と秩序は微妙に違うものなので法によって道理を完全に守ることはできない。と昔法学基礎の先生が言っていたな・・心情的に納得いかないかもしれないけどそういうことなのでは?(#3さんの言うように法には例外が許される所以です。)  ところで、殺人を取り締る法はやっぱり大宝律令なのでは?律とは刑法、令とは行政法のことなので、律のほうに載っていそうな気がします。(ちょっと調べないと分かりませんが)因みに途中何回か改定がされますが、明治憲法ができるまで大宝律令は生きていました。で、各時代に大宝律令とは別に武家法とか公家法があって各々の階級を縛っていたんですね。(だから武士と公家の争いはめんどくさかったらしいです。←十六夜日記とかは、この裁判をしに鎌倉に下る話だったと思います。)あと、庶民まで縛るものだったかは分からないのですが、17条の憲法とかも仏教観が背後にあるのだから、殺生はいけないのでは?  あと、戦国時代だって無意味な殺人は禁止されていました。分国法というものです。(有名なのは、伊達の塵芥集、武田の信玄家法、北条の早雲寺殿二十一か条なんかですね。)やっぱり、大義のために殺し合いをしても自国内で殺し合いをされると戦国武将も困るんです。(領民が逃げたりとか)大義のための殺人なら許されるって今やっている戦争とそんなに変わらないのかなと思います。

rose1028
質問者

お礼

大義の為と自分の為に行うのでは全然意味が違ってくるのですね。何となく違いが分りました。ありがとうございます。

rose1028
質問者

補足

人を不幸にしても幸せになれません。について余談です。一時的に見ると騙した人間の方にお金が入って逆に騙された方が悪者扱いされる場合もありますよね。私にはちょっとこれが理解不能なんですが。 良く、騙される方が悪いなんて言葉耳にするので。 世の中って私の理解出来ない事多いです。 単純に人を不幸にした人には不幸がやって来て、また被害にあった人は逆に幸せになってもらいたい気がします。因縁や縁ってほんと怖いです。 後は運命も神も怖いかな? 死ななきゃ分んない事って多過ぎて。 まだまだ未熟者です。 余談をちょっとしゃべり過ぎました。 回答の方ありがとうございました。 参考にさせて頂きます。

noname#174737
noname#174737
回答No.4

同じ殺人でも、個人的な犯罪や怨恨などで犯したものと、軍人として国家のために戦って相手を殲滅した時の殺人とは扱いが違います。 よく言われるのに、「人間を一人殺せば殺人罪になるが、戦争で相手を百人殺せば大英雄になって勲章がもらえる」 という例えがありますね。 武士が戦で相手を殺し、働きによって出世していくのは正にこれだと思います。 でも、いかに武士でも個人的な争いで相手を傷つけたり殺したりすれば、それなりの罰はあったと思いますよ。  そうしないと社会が成り立たなくなりますからね。 忠臣蔵が良い例ではないでしょうか。  吉良を傷つけた浅野内匠頭は切腹、それに吉良家を襲撃した47士も結局全員切腹 ・・・ 英雄になって生き延びた人は一人もいませんね。 法学者ではありませんが、書物で残されていなくても、人類が社会生活を営むようになった時点で、人を殺すな、他人の物を盗むな、やればリーダーから制裁を受けるぞ、という不文律があったように思います。

rose1028
質問者

お礼

個人的な恨みを解消する為に殺人を犯した場合は処罰されていたんですね。分りました。回答の方ありがとうございました。

rose1028
質問者

補足

戦争も勝った方が正しく負けた方が悪者(酷い扱いを受ける)様な所ってありますよね。人生って一時的に見ても分らないけど長い歴史によっては何となく分る所があります。(戦後賠償などで) ようは、一回の人生だけでは平等って推し量る事が出来ないんだと思いました。回答ありがとうございました。

  • LINERS
  • ベストアンサー率21% (211/974)
回答No.2

>武士などは、人を殺して戦に勝って勝利を収めどんどん出世をして高待遇で迎えられた事実があります。 戦では確かに、ですが、それ以外で理由の無いものに関しては罰せられたもの(もしくは自分で責任をとったもの)もありますよ。

rose1028
質問者

お礼

そうですか。あまり知らなかったです。ありがとうございます。

  • redowl
  • ベストアンサー率43% (2140/4926)
回答No.1

律令制度が確立されてきた頃からではないでしょうか。 大宝律令など、罪に対する刑罰が文書で残っているので、そう判断しましたが、 もっと古くから有るのかもしれません。

rose1028
質問者

お礼

早速の回答ありがとうございました。参考になりました。

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