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許されたい

人を傷つけた罪、虫を潰した罪、植物を枯らした罪、ペットを死なせてしまった罪、その他の罪…etc. 具体的に誰に、何を許されたいのか自分でもわかりませんが、例えば虫を殺してしまったあとそれなりの罪悪感に苛まれます。 私は宗教学に明るくありませんし、正しい倫理観が備わっているわけでもありません。 この世に生きている限り、どうやっても罪を犯してしまいます。 どうすれば罪は許されますか? 祟りを免れる、ではないですけれど、悪いことをしてしまったのなら、それは許されずにずっと背負うしかないのでしょうか? 人はどうやって誰に許されるのですか? 適切なカテゴリがわからず、これでいいのかわかりませんが、どなたか答えてくれると嬉しいです。

みんなの回答

回答No.10

a) 新約聖書のヨハネ黙示録13章に、ワクチン・パスポートの予言が ありました。ヨハネ黙示録は、新約聖書の末尾であり、また13章の後には 予言がほとんど残っていないので、時間がわずかしかありません。 現代は、新約聖書の時代の末期であり、その終りが近づいている のです。 人類滅亡とかではありませんが、あなたも、新約聖書の学習を 急ぐべきです。

matsurika21
質問者

お礼

通知が届かず気づくのが遅くなってしまいました!回答ありがとうございました!!

  • kurinal2
  • ベストアンサー率27% (23/84)
回答No.9

こんにちは。 >それなりの罪悪感に苛まれます つまり、そこに、アナタが大事と思うモノが、有るのでは。

matsurika21
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 お礼が遅くなってしまい申し訳ありません。 シンプルかつ的確な回答だなぁと思いました。私自身が大切に思う何かがそこにあるからこそ引っかかりがあるということですね。 私自身その大事に思うモノが何なのかまだわかっていないので何とも言えませんが、見つけられるよう日々自身を見つめ直していこうと思います。 ありがとうございました。

回答No.8

あなたが許されれば、あなたが死なせたペットは救われるのでしょうか。 ペットにとって、誰が殺したなんてどうでもよくて、死にたくないのに死んじゃった、という事の方が重要です。 あなたが許されるだの、許されないだのはどうでもよいのです。 そこまであなたの存在は重要ではありません。 つまり、あなたが犯した罪なんて、ペットが被った被害に比べれば、何の意味もないのです。 そんな意味もない行為に、罪悪感を感じることができるほど、あなたは崇高な存在なのでしょうか。 要すれば、あなたはどんなことをしようとも、この世の中に無数に存在している屑の一つであり、その屑が何をしようと、神の目から見れば取るに足らないバカげた行為としか映らないのです。 人間同士では、屑と屑がいがみ合っているので、人を死なせたり、ペットでも虐待とかと判断されれば、刑務所行きになりますので、その点はご注意いただき、犯罪行為は控えていただくようお願いします。 質問者様も屑。この回答を書いているぼくも屑。そしてこの回答をつまらなそうに読んでいるあなたも屑です。 屑が大それた罪の意識を持つ必要はありません。 (くりかえしますが法律上の犯罪行為はやめましょう)

matsurika21
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 お礼が遅くなってしまい申し訳ありません。 強い言葉がたくさん出てきたのでちょっとびっくりしてしまいました。ゆっくり噛み締めて読まさせていただきました。 なるほどなるほど確かに宇宙規模で見たら私達皆くずみたいなものですね。 そういう広い視点と心を持って生きていけるように頑張ります。 ありがとうございました。

回答No.7

自身や子供、家族、ペット、植物、育てているものを守るため虫を殺していい。直接体に被害がなくても住環境が悪化する、放置してると隣近所から悪く思われる虫は殺したほうがいい。 殺したほうがいいかわからなければ、殺さず 1 - 3 年経過を見ればいい。外に放せばいい虫もいる。殺したほうがいい虫は根拠ができるので確信をもって殺せるようになるだろう。殺しても罪悪感を感じないだろう。指で虫を潰すと潰したときの指の感触を強烈な嫌悪感とともに立体的に思い出し罪悪感を感じる。梅雨から夏の終わりまで二週間に一度くらい作用機序の異なる植物の病気の予防薬 3 種をローテーションしながら植物へ散布すると虫が忌避して卵を産みつけることが激減するので指で潰す機会が減るだろう。大量に虫が発生したら殺虫剤を散布すれば指で潰さなくて一回で済む。 虫や植物を一匹ずつ名前を付けて個体として感情移入しないでその種の虫や植物全体を一つと考えればその場にいるものは一部で本体は残っているので殺しても罪悪感を感じない。 興奮するため楽しむため殺してはいけない。 悪いことをしたオレやアタシがいる限り罪悪感が蘇り責めは受け続ける。謝れば多少緩和される。自分を見ることができればオレやアタシは消える。苦しみから逃れるためやるといいだろう。

matsurika21
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 お礼が遅くなってしまい申し訳ありません。 具体的な方法を教えていただきありがとうございます。確かに個として見るよりは種として見たほうが多少罪悪感は緩和されそうですね。しかしやはりできれば殺したくはないので、虫が発生しにくい部屋作りを心がけていきたいと思います。 ありがとうございました。

回答No.6

私はどんな宗教にも属していませんが、 イエスが十字架刑に架けられた際、隣で一緒に十字架刑を受けていた 強盗の一人が、イエスに同情したために、死の間際で天国へ行くことを 許されたのは有名な話です(ルカ福音書23章)。 天国へ行けるということは、罪が赦されたということです。 なので、あなたが神やイエス、あるいは聖母マリアを信頼し、信じる ことができれば、あなたの罪は赦されるでしょう。 福音書を独学するか、聖母マリアについて調べると善いでしょう。 聖母マリアは、近代にも現れています(ルルドやファティマ)。 現状、キリスト教会もその他の宗教教団も、堕落しているところが多い ため、独学をお奨めします。

matsurika21
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 お礼が遅くなってしまい申し訳ありません。 信じることができれば許される、とは何だか優しい教えですね。だからこそ救いを求める方を多いのでしょうか キリスト教は、おとぎ話や学問としては少しだけ知っているのですが、そういう意味ではまだまだ知らないことも多いので少しずつ学んでいこうかなと思います。 変なところでこだわりが強く、疑り深い性格ではありますが、学んでいくうちに少しずつでも信じられたらいいなと思います。 ありがとうございました。

  • aeromakki
  • ベストアンサー率36% (870/2378)
回答No.5

人間は、所詮動物なので、離乳食を食べた時点で、他の生物の命を奪って生きているようなものです。 それは、全ての動物という生き物が持つ業(ごう)です。 それを言い出したらきりがないでしょう。 肉として命を与えてくれている動物のことはちょっと置いておきます。 植物はただただ、命を与えてくれている。 これはほぼ「許しを与えてくれているも同然」だと思うんですね。 まあ、科学番組によると実際には、切られたり等嫌なときには、化学物質を放出しているらしいですがね(^_^;) 世の中には、縁というものがあります。 大抵の人は自分を無宗教だと考えがちですが、実際には9割以上の日本人は神道と仏教の両方の信者なんですよ。 ご自宅で亡くなった方が出たら、どの宗教のどの宗派でお葬式を出すかを考えてください。 正月には初詣、神社のお祭りに行く、普通に神道の信者でもある。 神仏習合という形で文化になってしまったため意識しないでしょうが、ちゃんとそこに縁があるんです。 「許されたい」と自分だけ救われることばかり考えていると、気をつけないと、統一教会のような新新興宗教に引っかかりやすくなりますよ。 「ブッダのことば: スッタニパータ (岩波文庫)」 https://amzn.asia/d/htWBuzn 「お釈迦様の言葉や教え。四苦八苦・四聖諦・八正道の意味とは?名言と併せて解説!」 https://ikikata.nishinippon.co.jp/term/708/ 「生きる力をくれる、ブッダの名言まとめ」 https://tarikihongwan.net/category1/kotoba/20905.html/ 「神道への誘い 神社本庁」 https://www.jinjahoncho.or.jp/shinto/shinto_izanai 気づかないでいただけで、指し示された道がすでにあったんです。 なにせ、小中高と授業で教わっていたわけですから。 温故知新と言います。側にずっとあった智慧について、少しお考えください。 そして、新新興宗教にはお気をつけください。

matsurika21
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 お礼が遅くなってしまい申し訳ありません。 確かに、自分だけが救われることばかり考えているのはなんだか嫌ですね。もっと周囲に目を向け、考えてみます。 URLも載せていただきありがとうございます。また時間が空いたときにゆっくりと読ませていただきます。 ありがとうございました。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10024/12548)
回答No.4

以下のとおりお答えします。 >悪いことをしてしまったのなら、それは許されずにずっと背負うしかないのでしょうか? 人はどうやって誰に許されるのですか? 適切なカテゴリがわからず、これでいいのかわかりませんが、どなたか答えてくれると嬉しいです。 ⇒なるほど、考えてみれば、我々は日々罪を犯していますね。そういうことに無頓着な自分に気づかされてハッとしました。では、どうすればいいでしょうか。 おそらく、その種の罪は必要悪的なものなのでしょうね。ですから、特に、誰に許しを乞わねばならない問題とは考えずに、ただ、必要悪とはいえ、そういう罪にも問わば問われれるかも知れない、ということに関する意識や認識を自己合理化することなく、心に留め、感謝の念を持続することに意を用いることとしましょうか。そういう意識・認識があればこそ、神も(と言ってまずければ、「自然の摂理」も)容認してくれるでしょうし、無益な殺生はすまいという自省的行動規制の気持ちも働くことでしょう。 ということで、まず我々としては、感謝・意識・行動規制の持続をもって謝罪の意あるところを汲んでいただくよう念じるとしましょうか。

matsurika21
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 お礼が遅くなってしまい申し訳ありません。 感謝の念を持続、とは素敵ですね。私自身こういったことがおざなりになっているから、誰かに許されたいなんて、考えてしまうのかもしれません。あらゆるものに感謝していけるよう、視野を広げて生きていこうと思います。 ありがとうございました。

  • sknbsknb2
  • ベストアンサー率38% (1158/3035)
回答No.3

倫理観なんて、人間が自分たちに都合のいいように作り上げたもので、人間以外の世界で通用するものではありません。 そして「罪」という概念も、他者と社会生活を営むために人間が作り出したものにすぎないので、あなたが無人島で一人で生活するなら、そんなものは存在すらしません。 そんな、基盤の怪しいものに対して許しを得ようというのがナンセンスだと思います。

matsurika21
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 お礼が遅くなってしまい申し訳ありません。 罪の概念からひっくり返されるとは思ってもみませんでした。『なるほど確かに』です。 私は許されようとするより、もっと別のところから考え直したほうがいいのかもしれませんね。 ありがとうございました。

  • head1192
  • ベストアンサー率20% (161/785)
回答No.2

それは自分で見つけるしかない。 宗教や哲学は指標にはなるが、しかし個人個人の指標を示してくれるわけではない。 一般法則にすぎない。 自分の生き方に当てはめるには、翻訳する必要がある。 仏教では「自灯明法灯明」という。 「自分を拠り所にし法を拠り所とせよ」という意味である。 自分は言わずもがな。 法とは世の中を貫く法則、つまり「諸行無常」「諸法無我」さらには「涅槃寂静」「一切皆苦」のことである。 諸行無常や諸法無我は世の中の真の姿を照らし出してはくれるが、しかし自分の人生そのものを照らしてはくれない。 「諸行無常の世の中で、以下にすれば自分は幸せに生きられるか」 それを考え実践し反省する、その繰り返しが仏道修行である。 善悪や罪の意識は人の心が作り出す。 実体があるわけではない。 自分で考え実践しない限り、答えに近づくことすらできない。

matsurika21
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 お礼が遅くなってしまい申し訳ありません。 やはり『自分』なのですね。 よく学び、考え、自分なりの答えを見つけ出せるように頑張ります。 ありがとうございました。

回答No.1

倫理観の線引きは個人差があります 道ばたにゴミを捨てたりお店の前の傘を平気で差して帰れる倫理観の人も居ればゴミのポイ捨てなんぞしたら何日罪悪感に苛まれるか怖くて絶対出来ない自分もいます(正義自慢のつもりはありません) 一晩寝て折り合いが付く(忘れる)罪から刑に服しても一生忘れられない罪もあります、法の外にある罪の線引きを決めるのは自分です。

matsurika21
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 お礼が遅くなってしまい申し訳ありません。 自分で罪の線引を決めるというのは、なんだか怖いですね。いつも二択とかの選択を間違えてしまうタイプの人間なので、ここでは間違えないようによく考えながら生きるようにします。 ありがとうございました。

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