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「見える」「見られる」について
×「東京では 外国人が たくさん 見えます」 〇「東京では 外国人が たくさん 見られます」 ×「この道で よく 事故が 見えます」 〇「この道で よく 事故が 見られます」 特に意識をしていなくても、自然に視界に入る場合は 「見える」を使いますが、上記の例のような場合は「見られます」が 正しいと思います。 日本語文法ハンドブック(ひつじ書房)によると、 ①不特定多数の人が目に入ってくる場合 ②たくさんの人の目に特別な映像が入ってくる場合 ①②の場合は「見られる」を使うと記載されています。 外国人にうまく説明できず、また説明をしても、 よく理解してもらえません。 何かわかりやすい説明がございましたら、どなたかご教授いただけませんでしょうか。 何卒よろしくお願い申し上げます。
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- pfarm
- ベストアンサー率52% (68/130)
「見える」は物事が目に入ってくることを表し、主に自然な形で目に入る場合に使われます。例えば、窓から外を見たら、建物や木々、人々が「見える」と言えます。しかし、「見られる」は、自分や他の人が意図的に物事を見ることを表し、また、不特定多数の人が見ることができる状況を表します。例えば、「東京では外国人がたくさん見られます」と言うことで、外国人を見ることができる場所がたくさんあるということが表現されます。 つまり、「見える」と「見られる」は微妙にニュアンスが異なります。前者は自然な形で目に入ることを表現し、後者は意図的に見ることができる状況を表現します。 外国人に対して説明する場合は、例えば「東京では外国人がたくさん見られます」という文を使って、「外国人がたくさんいる場所がたくさんある」という意味を伝えることができます。また、もし「東京では外国人がたくさん見えます」と言った場合、ニュアンスが少し違ってしまい、意図した表現にならないことがあるため、注意が必要です。
- phistoric
- ベストアンサー率64% (54/84)
「見える」と「見られる」は、日本語の動詞の中でも、使い方がやや複雑な部分の一つです。 「見える」とは、自然な状態で見ることができるという意味であり、特に意識をしなくても、目に入る状況を表します。例えば、「空が青く見える」という文は、「空が青いのが自然に見える」という意味です。 一方、「見られる」とは、ある状況下で、人が見ることができるという意味であり、一定の条件下で見ることができる状況を表します。例えば、「外国人がたくさん見られます」という文は、「外国人を見ることができる状況が多い」という意味です。 したがって、文脈によって、「見える」と「見られる」を使い分ける必要があります。「東京では外国人がたくさん見られます」という文は、「外国人を見ることができる状況が多い」という意味であり、正しい使い方です。「この道でよく事故が見られます」という文も同様です。 一方で、「東京では外国人がたくさん見えます」という文は、直接的な主体がなく、「外国人が目に入ってくる」という意味であるため、不自然な使い方となります。 このように、使い分けはやや難しいですが、一般的には、「見える」は、目に入る自然な状態を表し、「見られる」は、ある条件下で見ることができる状況を表すとされています。
お礼
ご回答にお時間を割いてくださって、本当にありがとうございます!<m(__)m> ご説明の意味よくわかりました。 まだ、少し疑問が残るのですが、たとえば、その現場にいて自然に目に映るとき、その対象の種類によって異なるのでしょうか。 例文 ①「わー、今日は休みだから、人が多いね。外国人が見えるよ」 ③「わー京都は すてきな お店が たくさん 見えるね」 ③「A:すみません。カフェはどこですか。 B:あそこに看板が見えるでしょ。あそこですよ」 ①~③はどれも、話し手の目に留まったと解釈できると思うのです。 存在を説明するときは、自然に目に入っても、「ある」「いる」「目につく」を使ういますが、④は自然です。この違いが、よくわかりません。もし、よろしければこの点についても、ご説明いただければ幸いです<m(__)m>
- kine-ore
- ベストアンサー率54% (808/1481)
>特に意識をしていなくても、自然に視界に入る場合は「見える」を使います : 確かに「見える」には対象が自然に「目に映(うつ)る」意味があります。 ですが、外国人のような人物が対象では単に「見える」ではなく、「目につく」「目に留まる」「見かける」「出会う」などを遣うでしょう。 「東京では 外国人が たくさん 目につきます。」 「東京では 外国人を たくさん 見かけます。」 「東京では 外国人に たくさん 出会います。」 「この道では よく 事故が 目につきます。」 「この道では よく 事故を 見かけます。」 「この道では よく 事故に 出くわします。」 ここでの「見る」は自動詞の「見れる」に比べて他動詞的であって、その可能態「見られる」の場合は、もともと「~を見ることができる」という意味なので用例がかなり限定的になります。 ですから○を付けた例はどちらも表現がやや不自然です。 ?「東京では 外国人が たくさん 見られます」 ?「この道で よく 事故が 見られます」 →「東京ではたくさんの外国人を見ることができます。」 →「東京に行けば、たくさんの外国人を見られるでしょう。」 →「この道では よく 事故を見かけます。」 →「この道では よく 事故に出くわします。」 自動詞「~が見える」に対しては「~を見る」は他動詞的で「~を見られる」はその可能態です。 ところが他動詞「~を見せる」に対しては「~を見る」は自動詞的で、「~を見られる」は受動態になります。 「見られる」はこのように用例によって可能形であったり受身形になったりややこしいのに、昨今では口語上で「見れる」という簡略的な<ら抜き言葉>形も多用されていますから、使用にはなお要注意といえます。
お礼
ご回答にお時間を割いてくださって、本当にありがとうございます!<m(__)m> ご説明の意味よくわかりました。 まだ、少し疑問が残るのですが、たとえば、その現場にいて自然に目に映るとき、その対象の種類によって異なるのでしょうか。 例文 ①「わー、今日は休みだから、人が多いね。外国人が見えるよ」 ③「わー京都は すてきな お店が たくさん 見えるね」 ③「A:すみません。カフェはどこですか。 B:あそこに看板が見えるでしょ。あそこですよ」 ①~③はどれも、話し手の目に留まったと解釈できると思うのです。 存在を説明するときは、自然に目に入っても、「ある」「いる」「目につく」を使ういますが、④は自然です。この違いが、よくわかりません。もし、よろしければこの点についても、ご説明いただければ幸いです<m(__)m>
- ishi_saya
- ベストアンサー率27% (84/310)
日本語と、インドヨーロッパ語との大きな違いの一つが、「主語を言うかどうか」です。日本語では大抵の場合主語をはっきりと言いません。しかし、インドヨーロッパ語では常に主語を明確に言います。 「東京では 外国人がたくさん 見えます」の場合の主語は、見ている「自分」です。つまり英語で言うとこの場合には「I」を省略しているわけです。 しかし、「東京では 外国人がたくさん 見られます」の場合には、主語は「外国人」です、彼らが見られている主体なのです。 もう一つ、日本語とインドヨーロッパ語との違いですが、インドヨーロッパ語では誰かが主役です。ですから、その誰かが何をしているかを表現します。しかし、日本語では主役はいません。(主役が居ないから主語を言わないのです。) 誰かが何かをしているよりも、「状況」を言うことの方が多いのです。ですから、この場合にも「誰が見ているか」では無くて「外国人が多い状況」を言っているのです。 こういう説明で分かってもらえないでしょうか?
お礼
ご回答にお時間を割いてくださって、本当にありがとうございます! 主体という考え方を全く考えておりませんでした。 とても参考になりました。<m(__)m>
- saramanda1
- ベストアンサー率32% (284/867)
×「東京では 外国人が たくさん 見えます」 ×「東京では 外国人が たくさん 見られます」 〇「東京では 外国人に たくさん 出会います」 ×「この道で よく 事故が 見えます」 ×「この道で よく 事故が 見られます」 〇「この道で よく 事故が 起こります」 海外の人には見れるという表現だと混乱するし日本人でも違和感ある日本語です。
お礼
ご回答いただき、ありがとうございます! 参考になりました<m(__)m>
お礼
詳しく教えていただき、ありがとうございます。 「見られる」は「不特定多数の人を見ることができる状況」を表すんですね!!これを説明してみます。 ご回答にお時間をいただき、本当にありがとうございました<m(__)m>