• 締切済み

昭和40年前後

昭和40年前後の生活のことを知りたいのですが。 1.テレビ、電話、等も含む、とにかく家具 2.自動車、洗濯機などの大型のものもどのくらいあったか 3.食べ物、飲み物。お菓子などどんなものがあったか 4.計算機(たぶんそのころは計算尺)などの小物 5.服装や家の作り、家族構成など 6.ほかにも暮らしのことなら店などなんでも お願いします。

みんなの回答

回答No.14

手元に東京オリンピック(昭和39年)当時の新聞がありますが、そこに載っている広告を見ますと、 カラーテレビの価格が18万円 白黒テレビが8万8千円 今では、安いパソコン買って、場合によってはお釣りが来ますね^^

回答No.13

#5のMilanoSandAです。補足しまーす。 昭和40年といえば、”まだまだ戦後”だった気がします。 街には傷痍軍人の人がいっぱいいたし、銭湯に行けば、手や足のない人をいっぱい見たものです。 うちは大阪のどまんなかで、砲兵工廠が近くにあったので、”不発弾が見つかった!”といえばすぐに避難していましたね。 大阪の町は空襲でかなり焼けたので、廃墟と建築中のビルが混在していました。 うちにはお風呂がなく、銭湯に行っていました。子供が30円ぐらいだっただろうか・・ 思い出したらまた書かせてもらいまーす。 ところでこれ、なんの質問なの???

  • been
  • ベストアンサー率39% (490/1243)
回答No.12

当時の横浜はこんな感じでしょうか。 道路は舗装されていないところが多々あり、雨が降ると大きな水溜りができます。小学生はみんなゴムの長靴を履いて水溜りをバシャバシャ越えて学校へ行きました。 走っている車はダサイ国産車が大部分、時々カッコいい外車(フォードかクライスラー)を見かける。外車は平べったくて大きい。デコボコ道をユッサユッサと揺れながら走っていったのを思い出します。 家は大きな道路に面していましたが、道路を隔てた反対がわには田んぼと豚小屋(さすがに当時でも珍しかった)。小学校へ行く途中にも、裏道に入れば田んぼがたくさんありました。 テレビはカラーテレビの普及期だったため、要らなくなった白黒テレビがよく空地に捨てられていました。中の真空管を抜いて地面に叩きつけると「ボンッ」と割れる。ブラウン管は大爆発するといわれていたので、怖くて石をぶつける勇気が出ませんでした。 爆発といえば、爆竹と2B。爆竹は今でも売られていますが、2Bは見かけませんね。直径3~4ミリ、長さ5センチくらいの筒状で、頭にマッチのような点火薬が着いていました。ここをマッチの箱かコンクリートの表面で擦ると数秒後に爆発しました。かんしゃく球は5~6個入りの袋が10円だったような。これは地面に叩きつけるだけで破裂します。道路に撒いて自動車に踏ませ、パンクと勘違いするのを期待しましたが、止った車は無かったですね。 遊びは野球。当時の横浜ではサッカーをしている子供は見かけませんでした。当時は造成中の宅地や小学生の草野球チーム(名前も無い)がたくさんあったので、日曜日に空地へ行けば試合の相手には事欠きません。ユニフォームを持っている子もいましたが、デザインやマークを揃えるわけではなく、ただ、好きな選手の背番号を付けて喜んでいました。ボールは軟球。普通はA球ですが、一回り大きくて軟らかいL球や少し小さくて硬いS球もありました。空地のまわりを探せば、必ずいくつか拾えたものです。 のどが渇くと近くの家に行き、「おばさ~ん、水のませて」と頼んで外の水道の水を飲ませてもらいました。 横浜にも少年野球があったらしい。少年野球にはチーム名があり、コーチがいてユニフォームや用具を揃え、すごく上手いらしいという噂でしたが、草野球の空地に姿を現すことはなく、別世界の存在でしたね。 小学生当時流行った珍しい遊びに、牛乳ビンの紙フタ(ハーポンと言いました)か一升瓶のフタ(酒ブタと言いました)を使ったものがあります。ゲーム名もハーポン又は酒ブタです。数人が同数のフタを出し合い、フタの端を爪で弾いて2枚を裏返しにし、その2枚に片手の指がとどけば全部Getです。3枚以上が裏返ったら2枚を残して表にもどさなければなりません。 どこから入手したのか未使用のハーポンを持ってくる子がいましたが、これは裏返すのが非常に難しいこともあり、なかなか手に入らないレアものでした。 子供の飲物はプラッシーというオレンジジュース。お米屋さんがお届けします、というやつです。カルピスは贅沢。カルピスの類似品に不二家のハイカップとメーカー不詳のコーラスというのがありました。いずれも蓋は、ビールビンのような王冠でした。 おばあちゃんが遊びに来ると不二家のシュークリームかケーキを持ってきてくれました。当時の安いケーキはバタークリームを使用していたのでたくさん食べると気持が悪くなりましたが、さすがに不二家は当時から生クリームだったので大変美味。でも、子供だったのでケーキよりも保冷剤のドライアイスを水に入れて白い煙を噴かせるほうが楽しかった。 当時のお菓子メーカーで最近耳にしないのは、カバヤとコビト。カバヤは栃木県で生残っているらしいけど・・・ コビトの安いアイスクリームは1個10円で買えました。 服は、母親の手製というのが結構ありました。主婦の雑誌の付録の定番は洋服の型紙、型紙と足踏みミシンで服を作ってしまう母の腕前に感心したものです。セーターは全部手製、手動の編み機でザーッ、ザーッ、と編んでいました。小さくなったセーターをほどいて別のセーターに編みなおしたこともありますが、これをほどくのが面白い。毛糸を引張ると端からどんどんほどけてセーターが小さくなっていきます。これだけは進んで手伝ったものです。 家は商店だったのでレジがありました。数字つきのレバーを押し下げてハンドルを引けばレシートに値段が印字されます。レジに計算機能はないので、計算はソロバンでした。その後、新しい物好きの父が卓上計算機を買ってきました。厚めの弁当箱くらいの大きさで標示部は赤い電光管、値段は7万円だった、と聞いています。「答え一発、カシオミニ」が発売されるずっと前のことでした。

  • kamochi
  • ベストアンサー率41% (282/677)
回答No.11

#1です。 車と言えば思い出した! 三輪自動車。これだけははずせない。

  • moccha
  • ベストアンサー率28% (20/71)
回答No.10

皆さんは結構都会の暮らしのようですね。 1.テレビは白黒、今思えば四角というより丸い画面でした。NHKは映らなかった。屋根にアンテナが2本あって、放送局によって切り替えて使っていました。私のとこではNHKが送信所を作ったのは昭和46年だった。 電話は、受話器を置いて、ハンドルを回すと、交換手が出て接続してくれるやつ。市外にかけると、一旦受話器を置いて、向こうからかかってくるのを待つ。 2.運送屋だったので、大型トラックがありました。ボンネットトラックです。大きなハンドルとその内側にメッキのリング製のホーンボタンが、印象に残っています。洗濯機?。洗濯板でしたが... 3.チューブ入りのチョコレート。粉ジュース。ラムネ菓子。カルピスって、そのころは飲んだこと無い。 おやつは、山や川で調達。もえびの踊り食い。山葡萄。アケビ。 4.一般家庭にあまり小物なんてなっかた。蚊帳。籐の枕。そろばん。さおばかり。生活必需品しかなっかたですよ。 5.服装って、40年台から洋服が増えてきたころです。家の作りは、純日本建築。土壁。五右衛門風呂。トラックの車庫も木造。瓦葺。 6.肉も魚も量り売り。今みたいに鮮やかな色では無かったです。量り売りのほうが、今みたいに核家族向きと思いますが...。塩マンサク(シイラのことです)はご馳走だった。米のとぎ汁で塩抜きして、刺身で食べる。 水道は、共同簡易水道で、蛇口の個数で料金が決まるってシステム。月に1回沈殿槽の点検を順番で行う。 そうねえ、つい最近廃線になったのですが(おっと、何処かバレる?)蒸気機関車。朝6時の始発の為4時から釜焚きする音が、朝の目覚め。デッキ付の客車。だるまストーブで焼くするめ。砂利道、よくてコンクリート舗装。すれ違えない細い道。そんなとこでした。

  • sophia35
  • ベストアンサー率54% (637/1163)
回答No.9

度々すみません、#3です。 ちょっと思い出したので、再度書き込みに参りました。 えっと、6にあたると思うのですが・・・ お店で思い出したのが、貸本屋さんと鯨屋さん。 漫画は一切買ってもらえなかったので、貸本屋へ小学生の頃(40年代後期ですね)よく10円を握り締めて通っていました。手塚治虫や赤塚富士夫の全盛期で「ワンダー3」や「おそ松くん」なんかをこっそり借りて読んでいました。 鯨屋さんは字の如く、鯨の専門店です。店先に生簀くらいの水槽があり、何鯨か知りませんが小さな鯨と、もだま用のネコ鮫が何時も泳いでいて、ちょっと斜めにあがった商品ケースに百広やうね、赤身等の鯨肉が置いてありました。子供心に母が鯨屋さんに行くと、がっかりしたものです。 あと暮らしに関してですが、遊び場の近くに大きな貯炭場と長屋、そのすぐ裏に石炭を運び込む「どんこ舟」の船着き場があり、子どもたちはよく貯炭場で登って戦争ごっこなんかをやってましたよ。長屋の真ん中に洗濯場があって、手漕ぎの井戸と、ちょっとひさしがある場所に共同のロール式洗濯機が置いてあって、よくそこの奥さん達が洗濯している横でシャボン遊びなんかした覚えがあります。 懐かしいなぁ・・・と思いながらも、貯炭場はちょっと特殊かな?なんて思いますが(苦笑)でも、これも50年頃を境に平地になってしまったので、40年代の文化だと思います。 プッシュホンは無かったのではと言うことですが、ありましたよ~(^_^)我が家への導入は私が幼稚園の頃だから、昭和46年前後かしら?因みに調べたら、昭和44年に開設とありました。 ちょっと特殊ですが、ご参考になれば幸いです。

  • mark-wada
  • ベストアンサー率43% (273/633)
回答No.8

私は昭和40年にはまだ生まれてないんですが、その後、体験した事や親に聞いた事で。 電話回線(機械ではなく番号の割り当て)が大変、貴重だったようです。特に農村部。 都市では平均的な家庭には電話はありましたが、低所得の家や、もちろん一人暮らしの学生は電話を持っていなくて当たり前。大家さんや近所の商店などの電話を使わせてもらう(呼び出してもらう)のが多く見られました。 農村ではそもそも電話回線(番号)の割り当てが受けられず、村で有線放送組合を作って電電公社の電話の代わりに使う。村の外へは、この有線組合から電電公社の電話回線に接続したようです。要するに、村全体が巨大な親子・内線通話のようなものです。(ただ、この当時からの有線の資産が今になって、ケーブルTVやインターネットの役に立っています。) それから昭和40年にプッシュホンはおそらく無かった、と思うのですが。

回答No.7

追加です。路面電車が走っていましたよ。 神戸だったので市電と言っていました。 神戸祭りには花電車になって町をミス神戸を乗せて走っていました。 結婚される方はお家から文金高島田でお家から出られる方が結構いましたね。花嫁さんをよく祖母と見に行っていました。  キャクターで思い出したのは 「ブースカ」 何のキャクターか忘れましたけど・・・怪獣みたいな変な動物?

回答No.6

昭和43年位、私はまだ幼稚園くらいかな。写真でみるかぎり今と違ってゆったりとした時間があったのかな。道も広いし・・・ 1.テレビ、白黒TVでしたね。でも大きなラジオがありました。 電話、家は商売をしていたので生まれたときからありましたが物心つくまで意識しなかったのであまり覚えてないですね。黒い電話よりボタンで押す親子電話でした(昭和50年代かな。) 家具の印象は茶箪笥、と網戸のついたミズヤ(食器棚、関西では食器棚とゆうよりミズヤといっていました。) よく覚えているのは押入れに隠された鍵つきの冷蔵庫。触ってはいけない物と思っていました。 私は温蔵庫(木の箱にスレンレスがはってあって小型の冷蔵庫みたいな形の物。夏は氷を入れて冷蔵庫冬は暖かいものが暖かいまま長持ちするんです。)しか明けさせてもらえませんでした。 2.自動車はトラックがありました。3輪のが。それと乗用車が写真に写っていますが洗濯機は皆さんと同じ横にくるくる回す脱水ローラーのを覚えています。 3.食べ物、くじらの甘辛く煮たもの。しぐれ煮ってゆうのかな。子供心にしょうがが良く効いていて苦手だった事。飲み物。もっぱらカルピス。お菓子はプリン。道を渡った駄菓子屋さんには10円か20円で贅沢三昧買えました。 4.計算機  そろばんなら覚えています。 40年代後半か50年代前半にコピー機が会社にあったので学校のプリントをコピーして自慢しましたね。コピーすると青いコピーです。 5.服装は祖母はいつも着物。帯は簡易な物。夏だけ薄いブラウス?みたいな物を着ていましたがお出かけは着物でした。私も冬の写真はウールの着物を着せてもらった物がたくさんあります。夏はワンピース。 家の作りで一番良く覚えているのは土間。台所のシンクはタイル。家の外に裏にポンプ式の井戸がありました。 家族構成はちょっと複雑なのでパス 6.市場があって買い物は買い物籠を持っていき買った物は新聞紙にくるまれてましたよ。魚屋さんは目の前でさばいてくれて血のついたまま新聞紙にくるってね。くじらやさんがあったのを覚えてますね。 卵屋さんは電球に卵を一個一個さらしてみてました。 乾物屋さん。豆腐屋さん。豆屋さん。 あ~なつかしくなってきました。果物屋さんがとてもおしゃれに見えた物です。 そうそう。切り芋やさんがあっておやつ代わりに買ってもらっていました。(サツマイモを輪切りにして焼いてるだけだったと思いますが) 夏の夜には酒屋さんの前におじさん達が座って将棋をしていました。 雀荘もありました。前を通ると大きな声とジャラジャラ聞こえていましたね。 長くなってしまいごめんなさい。 思い出話みたくなってしまいました(反省)

回答No.5

こんにちは!僕も参加させてください^_^ 昭和40年のとき、僕は4歳でした。大阪の梅田に在住。家は「少し貧乏」でした。 1.テレビは白黒。13インチぐらい。ラジオはでっかい真空管式。ステレオはなかった。電話は黒のダイアル式。夏は扇風機か団扇。エアコンの登場はもっとあと。冬は石油ストーブ。カメラはマニュアルフォーカスの二眼レフ。 2.うちはお店をしていたので、ミゼットの三輪がありました。バイクは陸王がありました。 洗濯機は一層式、ぐるぐる回して絞るローラー。 冷蔵庫は、電気式ではなく、氷を入れて冷やすタイプ。冷凍室なんてありません。 壁の掛け時計は、手巻き式。 3.キャベツ、魚が主食。たまに食べる「肉系」はコロッケ。 4.お店ではもっぱらソロバン。レジの登場はもっとあと。 5.家は木造。店の二階の狭い2部屋に、父、祖父母、叔父さん叔母さんと同居。今から思えば超過密でした。 台風が来るたびに一階のお店が床上浸水するので、大騒ぎしてました。窓にテープ貼ったり、板を打ち付けてたり。停電もするので、ろうそくは必須。 6.デパート(阪急百貨店)の大食堂に、ライスカレーを食べに行くのが最高の娯楽。当時の阪急百貨店はとてもハイカラでした。 そういえば、家族で宝塚歌劇をよく見に行ったのも覚えています。 家の裏が映画館(大映)でした。”大魔神”や”座頭市”を見に行った記憶がある。 街はまだぜんぜん舗装されてなく、市電やトロリーバスが走っていた。 僕はこんなところです・・・あーなつかしいな。頭の中で、セピア色で焼きついていますねー^_^

関連するQ&A