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真田領と上杉領の境界線
https://sengokumiman.com/keityonihontizu.html 関ヶ原前の大名配置図です。 見れば見るほど上杉領が無茶な形をしていますが、これの真田領と上杉領の境界線はどこになるのでしょうか? あと皆村重村とは誰でしょうか?どこの与力に編成されているのでしょうか?
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質問者が選んだベストアンサー
その地図は、正直不正確じゃないかなと思います。 http://sengokumap.net/history/1600-3/ こちらのほうがより正確なんじゃないかな。全国を確かめたわけではないけれど、東北に関してはこちらのほうが正確だと思います。 上杉領の一部、今の酒田市のあたりが飛び地になっていますよね。飛び地としたほうがより正確だと思います。だから上杉軍は最上領に攻めたんですよ。酒田と米沢と双方から攻めて最上が滅亡したら、全領地が貫通するじゃないですか。 また皆村重村なる人物がどこから出てきたのかも分かりません。当時の松本市の辺りは、石川数正の子の石川康長の領地のはずです。 ついでにいうと真田家は信幸が東軍に、昌幸と信繁(幸村)が西軍についたので質問者さんの提示した地図の「全部昌幸領」もおかしいと思います。
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- gunsin
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回答No.1
岩代国、羽前国、磐城国の一部が上杉の領国でした。 御指摘の部位は岩代国の尾瀬ケ原と思われます。 真田は上野国の沼田を支配してました、只見川が上野国と 岩代国の国境です。 現在も福島県と群馬県の県境になってます。
質問者
お礼
ご回答ありがとうござます。 長尾家祖廟の地上田壮が残ったのかなあとも思ったのですが、やはり南会津ですか。 真田領と地理的にはほぼ隔絶されていますね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 真田信之も直江兼続も秀吉から朱印状を受けていますので、独立に記すのが正しいですね。 地図としてもそちらの方が正しそうです。 直江兼続が峠道を整備した記録がありますので、酒田と米沢は街道上は隔絶されているものの、山は繋がっていて厳密な飛び地ではないとなります。 皆村重村の記されてる位置は真田上田領の北なので現長野市、信濃川中島ですね。 慶長5年(1600年)3月森忠政信濃川中島入領で、ご提示いただいた地図は1600年の物なので正しいのですが、質問にあげた地図は1597~1600年なので森忠正入寮前の領主は誰なんだろう?ということになるかと思います。