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昔はお金の代わりに米で支払い
ですけど、では「これが欲しいからこれだけの量の米で交換してくれ」と言っていたという意味ですか? それが適正な量なのかわからない気もしますが…
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時代によっても違いますが、江戸時代には武士の給料は米で支払われていました。それを米問屋に売って現金に換えていたのです。当然ながら米の値段は上下しますから常に同じ値段で売れるとは限りません。江戸時代は農民から取り立てた年貢が領主の主な収入源になっていて、それを家臣に与えていたのです。ですから年貢の割合は今で言えば高額で、「五公五民」(半分は年貢として納め、残りが農民の収入になる)、「四公六民」が普通でしたが、水戸藩のように「八公二民」などというところもありました。水戸家は「大日本史」を編纂するなど支出が多かったからで、徳川光圀は庶民にとっては決して良い殿様とは言い難い存在でした。
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- staratras
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大正の終わりから昭和の初めころの話です。九州の田舎の小地主だった祖父母の家に時々物乞いの人が来ていたそうですが、曾祖母は「米で良かかな、米で良かかな」と言いながら、米びつからかなりの量の米を掬って与え、物乞いは「米で良うございます。ありがとうございます。」とお礼を言いながら受け取って帰っていったとか。 この話を私にしてくれた祖父は、「そら、ホントはその頃でんコメよりカネのほうが良かったろうバッテン、もらう方からはそぎゃんコツは言われんタイ」と笑っていました。田舎でもこのころになればすでに「お米の経済」から「お金の経済」に変わっていたものの、明治以前(万延元年)生まれの曾祖母は昔ながらの考えかただったということでしょうね。 逆に言えば「米がお金のように使われていた時代」が完全に終焉したのはかなり最近のことだとも言えそうです。
- 5555www
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ですけど、では「これが欲しいからこれだけの量の米で交換してくれ」と言っていたという意味ですか?……そういうことだと思います。「生きる」ためには、「食べる」ことが大切で、それを保証してくれるのが「お米」だったのだと思います。 そして、その交換を成立させるのは、それぞれの「今、一番大切なもの」という価値観に基づく、お互いの合意で成り立つのだと思います。 それが適正な量なのかわからない気もしますが………それは、誰にも分りません。交換するお互いが、「満足する」とか「これで仕方ないか」とか、その時の状況によって、決まるし、それは常に変化するのだと思います。 例えば、幼い子供が、私たちから見たら、つまらないものでも、「ゆきちゃん、これあげる」、「じゃ、さっちゃんにこれあげる」みたいな、そこには、うまく表現できませんが、「お互いに良かった、儲かった」と思わせる世界があるように思います。 もちろん、大人の世界にも、男女の世界にも、世界中の国々の関係にも、今のウクライナ戦争にも。このご質問は、世の中を動かす原理だと思いますが、無茶苦茶複雑なような気がします。
- watanabe04
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米1合を1000円と考えれば、 10000円のものは10合=1升を渡せば買えるということです。 5000円のものは5合ですね。
- eroero4649
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戦国時代あたり以降と、それ以前ではちょっと違います。 戦国時代あたりから、貨幣が一般的に出回るようになります。この貨幣は中国の銅銭で、今でいうならUSドルみたいなもんですね。中国の銅銭だと信用があったのです。 貨幣経済は戦国時代に日本全国に広まるようになりますが、それ以降はお米を米屋に持っていって米を売ってお金に換えて、そのお金で他のものを買っていました。 貨幣経済が広まる以前は、基本物々交換です。そんだけの米と何かを交換しようとなるのです。 もちろん一部では銭が使われるようになりましたけど、全国にまでは普及していませんでした。 貨幣が普及する以前では、貝殻や金銀などの貴金属なんかが貨幣代わりに物々交換の仲介物として利用されることもありましたね。 貨幣が普及していない時代は、それだけ交易(商売)というのもそんなに大きくなかったのです。交易、とりわけ国際交易が行われる場合は昔から貨幣が使われますね。 なお、米の値段はそのときの食糧事情によって変動します。江戸時代の大阪では、米の先物市場がありました。世界初の先物市場だったそうです。 貨幣と金融の歴史も、面白いですよ。