信長に翻弄された室町幕府・最後の将軍「足利義昭」特集!「なぜ大名が将軍を追放できたのですか?」

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はじめに

9月26日は織田信長が、足利義昭を奉じて入京した日。

1568年のこの日、上洛した信長は足利義昭を室町幕府15代将軍に据えました。義明はこれに感謝し、信長を「武勇天下第一」と称え、「御父」と慕いましたが、信長の目的が将軍の威光であり、自分は傀儡だと気づき、関係は悪化。その後敵対していくこととなります。


  • どうして信長ごときが幕府の将軍を追放できたのですか
  • 大名と将軍、大名と寺の関係を教えてください
  • 足利義昭の最期と子孫について


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なぜ信長ごときが時の将軍を追放できたのでしょうか

織田信長は天正元年(元亀四年、1573年)に

織田信長は天正元年(元亀四年、1573年)に
室町幕府将軍・足利義昭を京都から追放します。
織田信長ごときに時の将軍様を追放する権利があるのでしょうか。
それとも、この時の織田信長の官位は正四位下弾正大弼ですが、
これは将軍に命令できるほど偉い地位なのでしょうか
どうして将軍より偉いのでしょうか。どういう権限で将軍に命令したのでしょうか。

官位とかは関係ないです。

信長以前に、将軍の重臣である細川氏が、将軍を追放して別の将軍を擁立したり、細川氏の家臣の三好氏やまたその家臣の松永氏が将軍を殺したり、色々してます。

他にも、天皇・上皇を追放した貴族・武家や、天皇を暗殺した貴族もいますね。

今風に言うと軍事クーデターでしょう。
織田信長は伝統的な権威とか官位とかを認めていません。
「天下布武」とは軍事力で世の中を支配するということですので。

簡単な事です。

官位や役職、家格で考えて信長は将軍より偉くないですし、追放できる権限はありません。

じゃあ何故追放できるのか?
誰よりも経済面、軍事面で強いからです。
ただそれだけです。

また、将軍に命令して追放した訳ではないですよ。
殺されたくないから逃げたんですよ。
京都も御所も捨てて逃げたんですよ。将軍が。

ちなみに逃げた後、毛利氏の領地に庇護されている間も足利義昭は一応将軍でしたよ。
義昭が将軍で無くなったのは、信長が官位で義昭を上回ってからです。
信長や朝廷も一応建前を守ったのでしょうし義昭も観念したんでしょう。

他の回答者の方々も言われていますが、軍事クーデターです。
権限ではなく、自らの軍事力で追放しただけです。これは、もう少し小さな規模で考えれば、
大名が、有力な家臣によって追放されることとほとんど同じ構図です。
例:土岐頼芸を追放した齋藤道三〈長井規秀〉
  細川管領家を乗っ取った三好長慶、そして長慶の死後三好家を乗っ取った松永弾正久秀など

まあ、13代将軍足利義輝(義昭の兄)は、三好家の家臣に殺された(信長よりも下位の家臣)のです
から、織田信長が足利義昭を追放したとしても、何ら不思議はないと思います。それが、当時の世相
だったからです。
余談ですが、実は松永久秀は、義輝暗殺に関わっていなかったという説もあるみたいです。

>どういう権限で将軍に命令したのでしょうか
最初にも触れましたが、命令ではなく、武力で「追い出した」のです。「ここで死ぬか?それとも、
幕府の終わりを認めて出て行くか、それなら命を助けよう」というようなところだったのでしょう。
当時は、ほぼ「力あるものが全て」でしたから。
あと、推測ですが、朝廷が何か言ってこないように、根回しくらいはしていたかもしれません。
織田信長は、情報戦略と外交戦略にも長けていたのでそれくらいはやっていた可能性があります。

>では、簡単に言うと、時の将軍様に権威がないということになるのでしょうか。
>もし将軍に実権があったなら一大名が「出ていけ」と言っただけで
>出ていくなんてことないですよね。逆に幕府が返り討ちにしますよね。
>徳川幕府中期の将軍が出ていけと言われて出ていかないですよね。
>「幕府」が形骸だったことになるのでしょうか

そのとおりです。
そもそも義昭は信長に反逆して城に籠もり(すいません城の名前を忘れました)、織田軍に攻め立てられて降伏しています。いうまでもなく義昭は見込みのある反信長勢力に「信長を討て」と命令を出しまくっていましたが救助に行ける軍勢はどこもありませんでした。
ですから信長は殺そうと思えば義昭を殺すことなど造作もないことでしたが、殺してアイツは将軍を殺しやがったといわれるのも居心地が悪いし、かといって追放したところで後顧の憂いになるようなこともないということで、彼にしては穏便な追放という形をとりました。
なお、義昭の兄の足利義輝は、悪名高い松永久秀と三好三人衆によって殺されています。

大名と将軍の関係を教えてください

将軍と大名の関係

素人です。易しく教えて下さい。


織田信長が足利義昭と対立したとき、延暦寺は将軍側についた。武装解除するよう要請したが、延暦寺が拒否したため、1571年、信長は延暦寺を焼き討ちし、多くの僧侶が殺害したらしいですね。

信長は大名で、義昭は将軍ですね。
大名が将軍に楯突いていいんですか?
それで、切腹とかにならないんですか?
大名が寺に命令できたんですか?

教えて下さい。
よろしくお願いします。

延暦寺に限らず戦国時代の大寺院というのは
自ら傭兵(僧兵)を有して大名のように武装自治していました。
このため大名との勢力争いもあり、比叡山延暦寺には
信長の前にも足利6代将軍が侵攻していますし、
松永久秀が奈良の東大寺に侵攻してどちらも消失しています。
将軍ですら寺に命令しても聞いてもらえないほど
寺は力を持っていたということになります。
武将たちもそうで、松永久秀は将軍を攻め殺しています。
「大名」の定義も江戸時代とは違います。
江戸時代の大名のように将軍から与えられた地位ではなく、
戦国時代の大名は武将が勝手に官職を名乗った
(大名だと宣言した)ようなものです。
ですから信長を「大名」と言うのかどうかも疑問。
信長は将軍に命令されて天下を統一しようとしたわけではなく、
事実上、崩壊していた足利幕府大勢を完全に殲滅して
新しい武士の権力機構を作ろうとしたのです。
足利尊氏は元は鎌倉幕府の将軍の家来である執権職
北条高時の家来ですよ。足利尊氏は主筋である
北条氏を攻め滅ぼして天下を獲り、後に将軍職に
就きました。

信長が「天下統一した」っていいますね。かれ以前の人は全国に号令する力なかったわけです。のちの徳川幕府にしても長州や薩摩を排除する力はなかった。九州ほぼ勢力下の薩摩から長崎奪う(直轄地、実際は肥後(佐賀県)に任せた)程度。

信長は将軍(義昭)追放したわけです。失敗すれば反乱者で殺されたでしょう。

>寺

仏教の伝来以来、有力者と宗教は手を組みます。武士はもとは荘園の管理人、大統領警護隊(ご主人守る)みたいなものです。
武士が土地の支配者になると旧体制勢力と利害ぶつかります。

おおまかにはこういう流れ。一向宗以外は早期に武士と協定(和解とも屈服ともいえる)
http://sound.jp/unira/nobunaga/honganji.html

本来の上下関係で言えば将軍が上であって、大名はその下ということになります。
しかしながら、この時の信長と義昭では全く状況が異なります。

足利義昭は将軍家に生まれましたが、長男ではないため子供の頃からお寺に預けられて育った人です。
つまりは元々将軍を継ぐべき人ではなかったのですが、兄の将軍が暗殺されて自分自身も身の危険があった時に細川藤孝などに助けられて脱出して、各地の戦国大名を頼った揚句、最終的に信長を頼り、信長の後ろ盾によって朝廷から将軍の官位を授かった人です。
足利将軍家は義昭の兄である将軍が松永や三好に暗殺されるくらいですから、当時は既に足利将軍の威光はほとんどなく、将軍といっても有名無実という状態です。
足利将軍をトップにその下で各地を納める守護大名がいるという図式は既に崩壊しており、各地に戦国大名と呼ばれる新しい勢力が伸し上がった頃は足利将軍の威光よりも、戦国大名同士の力関係の方がものを言う時代になっています。

将軍義昭は、信長によって名目上の将軍にしてもらっただけの実際には全く力のない将軍であり、そのことは他の大名たちも皆解っているので誰も文句など言える状況ではなかった筈です。

つまりはこの二人の実際の力関係はあくまでも信長が上です。

大名が寺に命令できたかどうか?という疑問ですが、信長を他の大名たちと同列には語れません。
信長は日本国の王になろうとしていた人であり、信長にとっては戦国大名であろうと将軍であろうと巨大な寺であろうと、自分に歯向かうものは全てが抵抗勢力に過ぎないのです。
自分に歯向かうから叩き潰す、というそれだけのことです。
信長は本能寺で殺されなければ、どうやら朝廷まで滅ぼしかねない人でしたので、将軍や寺などどうでもいいレベルの話ですよ。

足利義昭の最期は? 子孫は健在?

足利義昭について

1・足利義昭は毛利氏の下で天寿を全うした?
2・足利義昭と豊臣秀吉が茶席を設けた(お伽衆的存在だった)?
3・足利氏の子孫の方はご健在でしょうか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD#.E5.86.8D.E3.81.B3.E3.81.AE.E6.B5.81.E6.B5.AA

江戸時代には喜連川氏と名乗り、明治になって足利氏に戻したはずです。

>3・足利氏の子孫の方はご健在でしょうか?

現在、京都に「足利尊氏直系27代当主・足利進悟」さんが住んでいます。
尊氏の系統は、江戸時代も「阿波公方」として続いていました。
徳島県那賀郡那賀町平島に「公方館跡」(現、那賀町歴史資料館)があります。
長宗我部元親の四国統一後も、脈々と「足利家」は独立した領地・家臣を維持していました。
秀吉の四国統一後、蜂須賀家政が阿波入場と同時に(強制的に)領地を没収。3000貫の知行から100石の茶湯料となります。
(当然、大規模な家臣のリストラが起こり、家臣は200余名に減少)
その後、支配地に足利本家が居住している事を嫌った蜂須賀家は「足利の姓を平島姓に強制的に変更」し、一家臣として処遇したのです。
幕末、赤飯を食べていた公方は、阿波を退去。紀伊徳川家を頼ります。
その後、京都に戻り(毎年、紀伊徳川家から200両の援助)ます。
紀伊徳川家からの援助は、明治30年まで続き(年200円)ました。

明治維新は、足利家を「国賊」(後醍醐天皇に弓を引いた)として爵位を認めませんでした。
新田義貞・楠木正成が英雄とされたのとは反対に(1945年まで)足利家は相当苦労したようです。

信長によって京を追放されたときは、本願寺顕如らの仲介もあって信長は助命し、河内若江の妹婿である三好義継を頼って落ち延びた。しかし信長によって義継が滅ぼされると、剃髪して恭順の意を示した。

しかし天正4年(1576年)、毛利領であった備後にある鞆の浦(足利尊氏再起の地で縁起が良い)に亡命し、そこから信長打倒を目指して諸大名に討伐令を下し続けた。しかし天正6年(1578年)に関東管領の上杉謙信が死去し、天正8年(1580年)に石山本願寺も信長に降伏したため、信長討伐は潰えた。

天正10年(1582年)に信長が本能寺の変で横死すると、毛利輝元の力を借りて再び上洛を目論む一方、羽柴秀吉や柴田勝家にも同じような働きかけを盛んに行った。しかし、親豊臣派であった小早川隆景らが反対したため、毛利輝元は動くことはなく、また義昭はいかなる成り行きで勝家を支持したため秀吉に接近しつつあった毛利氏との関係は冷却した。

その後、毛利氏が正式に秀吉の配下となった後の天正15年(1587年)、出家して秀吉の側近として仕え、京都填島において秀吉より1万石を与えられた。晩年には文禄・慶長の役に際し肥前名護屋まで参陣している。慶長2年(1597年)、大坂で死去。享年61。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%98%AD

足利氏は名門ですから、数々の支族がいます。
■御一家 (吉良氏、今川氏、渋川氏)
■三管領 (斯波氏、畠山氏、細川氏)
■四職  (一色氏、赤松氏、京極氏、山名氏、土岐氏)
■親類・一門(仁木氏、石橋氏、石塔氏)
■執事・探題(高氏、伊勢氏、上杉氏、桃井氏、諏訪氏、小笠原氏)
などなど、源氏の嫡流(徳川・松平氏を除く)ですので、今も日本各地に多く残っています。

まとめ

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