解体新書などで日本医学の発展に大貢献!江戸時代の医師「杉田玄白」ガイド

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はじめに

9月13日は江戸時代中・後期の蘭方医・蘭学者、杉田玄白(すぎたげんぱく)の生誕日(1733年)。蘭(オランダ)医書の研究や翻訳に尽力し、オランダ医学の訳書「解体新書」などを作成したほか、多くの弟子を残し、85歳で亡くなるまで日本の医学の発展に大きく貢献しました。


余談ですが将軍家御庭番であり、探検家でもあった間宮林蔵は玄白の親戚です。


  • 解体新書は本当に文法も分からず辞書もなく翻訳したのですか?
  • 解剖などが医学的に許されるようになったのはいつの時代からでしょうか
  • 幕末の漢方や西洋医のメッカ、三か所はどこ?


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解体新書ですが、本当に文法も分からず辞書もない状況で難しい専門書を訳せたのでしょうか?

解体新書は本当に辞書も何も無しで訳した?

 前野良沢,杉田玄白,中川淳庵らが、江戸時代の中期にオランダの医書「ターヘルアナトミア」を翻訳し、「解体新書」と題して出版したとのことです。
 前野良沢らは、文法もわからず、単語を数百かそこら書き留めたものがある程度で、手探り手探り翻訳を進めたと言われています。

 私、あらためて考えてみて、信じられないんですけれども。
 どんなに良沢,玄白らの「執念」「克己心」「根性」が超人的であろうとも、文法もろくにわからず、辞書もなくて本当に難しい専門書を訳せるのでしょうか。
 しかも、その時点では良沢らもオランダ医学のことはほんの断片的にしか知らないはずです(シーボルトが長崎に来たのはずっと後のこと)。自分達が「知らない」分野に関する専門書を、文法も知らない人達が、何人かかろうが何年がかりであろうが、訳せるものなのかなァァァ……。
 本当は、通辞を雇ってその人にほとんど訳させたんじゃないかなァァァ。
 真相はどうなのでしょうか?

この苦労話が書かれているのは「蘭学事始」です。

それによりますと、
良沢:「かねてより蘭書を読みたいと思っていたが、同志がいなかった。もしもみなさんが望むなら、前の年長崎に行って少々のオランダ語は記憶している」と発言。しかしこの時はアルファベット25文字を知らなかった。

で、その後「眉」の話などがあってから、この質問上重要な一文が。

「其頃『ウォールデンブック』といふものもなし。」

つまり訳辞書もなかったということですね。
さらに言うと、通辞(「蘭学事始」によると「通詞」)ですが、彼らはオランダ語の文章を読むことができませんでした。会話・通訳はできたのですが、書物を読むことはちょっと前まで禁じられていたのです。しかし、将軍吉宗に許しを得て、書物を読むことが許されたばかりです。
「ターヘル・アナトミア」というのは、人体図とそれに対応する名称が書かれたものがあったため、その部分だけでもわかることが大いに手助けになったのではないでしょうか。

信じられないほど気の遠くなるような話ですが、これが真実のようです。
「蘭学事始」を手許に回答しているので、自信ありということで。

問題は三人がどの程度人間の身体の知識を持っていたかではないでしょうか。

例えば日本語である程度の知識を持つ私が、ドイツ語の解剖学の本を入手し、翻訳を思い立った場合、頭、足、心臓、手、爪、髪などは容易に対訳が見つけられるでしょう。

静脈、動脈などは僅かな語彙を頼りに、その説明を翻訳し、日本語、中国語の知識を総動員して血の流れる管のことらしいと推測するに違いありません。
眉毛の翻訳に時間がかかったのは、顔を描いて眉毛の位置を示し、その横に眉毛と書いてなかったからでしょう。眉毛の様子と働きを文章で書かれたら、書いてあることが眉毛のことだと気がつくまでに時間がかかったのであり、眉毛が何かわからず訳語にてこずったのではない筈です。(もし当時の日本人が眉毛を違った呼び方をしていたとしても、それが訳語になります)数百の単語が分かれば、説明している文章の三分の一か半分近くは分かるでしょう。後は解体図を見ながらパズルを解くように判読していったものと思われます。哲学書等と違い、何が書かれてあるかは分かっているのです。即ち、人間の解剖図と細部の名称及びその働きです。

玄白の時代には解剖などは滅多にできなかったようですが、医学的に自由に許されるようになったのはいつごろですか?

解剖が許されるようになったのはいつ?

杉田玄白について調べていて思ったのですが、当時解剖はめったに出来なかったようです。(今でもそうあるものではないかもしれませんが…)
医学的に解剖が許されるようになったのは、いつ頃からなのでしょうか?

医学的に云々を除けば、人体解体(解剖)は江戸時代よりも古くから存在しました。
中国医学の影響を受けている「漢方」(東洋医学)に付随して解体教書があります。
今でも「五臓六腑」という言葉が残っていますよね。
御用御試切役人。別名「首切り朝衛門(山田朝衛門)」。
この朝衛門は、江戸初期から明治初期まで代々続きました。
(最後が、何代目かはド忘れしました)
罪人の打ち首、(生死を問わず)罪人試し切り、武士の介錯が生業でしたが、彼は「(人間の臓物を原料とした)漢方薬」も製造・販売していました。
東洋医学的には、人体の各臓物も「漢方薬」の材料となっています。
詳細は記述しませんが、この漢方の材料(臓物)が人体のどの部分に存在しているのか?を記述した「人体解剖図」が伝わっています。
(臓物を傷つけない用に、試し切りを行う必要があった)
この「漢方薬」製造を「医学的」と見なせば江戸初期には解剖が存在していた事になります。

幕末の漢方や西洋医のメッカ三か所はどこですか?

幕末の漢方や西洋医のメッカ3箇所はどこですか。一つは出島ですか。

幕末の古文書に、西洋や漢方の医法の先進地として「三ケの津」と出ていました。津は港の意味だと思いますが、三箇所はどこでしょうか。一つは出島だと思うのですが。ひょっとしたら候補地は色々有って、確定できないのかも知れないとも思います。

お答えします。
三ヶの津というのは、三つの都という意味で、江戸時代には広く使われていた言葉です。意味は江戸、大阪、京都という三つの都のことなのです。
医学においても、この三つの都市にいい医者が多かったため、先進地とされ、そこへ出て弟子入りすることが多かったのです。
西洋医学を学ぶために長崎へ修行に出るということが見られるようになるのは、杉田玄白や前野良沢が解体新書を書いてそれが長い年月と共に普及し、オランダ語が学べるようになっていってから、特にシーボルトの来日以後ですから江戸時代の中でも後期からです。
そこで修行した蘭方の医者も三都市に行った人が多いですね。地元の藩で重用された人もいますが。

No1のご回答のとうり、「津」には「港」の他に「都」という意味もあります。
従っ「三ケの津」はこの場合、京、大坂、江戸を指します。

医学はやはり人口の多い大都会で発達しました。
地方にも優れた医学者(一関藩医建部清庵など)がいましたが、多くは三都に学んだのです。

杉田玄白は「解体新書」で名高いですが江戸で活躍しましたがこれは江戸での出版業を利用した事が大いに役立っています。
大阪から京に移り住んだ小石元俊は漢方医と思われる三雲環善の解剖を指導し、究理堂という塾を開き多くの門人を育てました。

当時既に外国の学問はオランダのみならず、英、独、仏などのものの流入が盛んでした。
これらによる実証主義は漢方医にも広がり、そして科学全般に広がっていったのです。

まとめ

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