小野妹子「遣隋使」特集!「妹子はなぜ有名?」「鑑真の渡航はなぜ苦労した?」「聖徳太子の失礼な国書」

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はじめに

9月11日は小野妹子(おののいもこ)、二度目の遣隋使(けんずいし)旅立ちの日。608年のこの日、再び隋(ずい、当時の中国)へと向かった妹子でしたが、国は隋から唐(とう)へ変わっていました。妹子は唐の優れた文化を数多く日本へ持ち帰り、それが後の大化改新の原動力となりました。OKWAVEでの小野妹子についてのQ&Aをまとめました。


  • 妹子はなぜ教科書に載るほど有名?
  • なぜ妹子は渡航してすぐに皇帝や重臣に会えた?
  • 僧侶・鑑真の渡航が苦労した理由
  • 聖徳太子はなぜ失礼な国書を出した?

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小野妹子はなぜ有名なのでですか?

小野妹子はなぜ有名なのか

小野妹子は使者として隋に行ったとして有名ですが、もし妹子が日本の全権大使みたいだったとしても、隋や唐には何回も遣唐使や遣隋使を送ってるので大使はいっぱいいたし、隋に行った人は南淵請安などたくさんいたし、日いずる国~の書にしても書いたのは聖徳太子で妹子は持ってっただけだし・・・妹子が特に何をしたという人ではないのになぜ教科書に載るほどなんですか?

日本書紀に最初に記された遣隋使の国書持参係でしかも聖徳太子が派遣したからでしょう。聖徳太子の神聖視は特に戦前すさまじいものが有った様で。今も余韻残ってますが。

ま、国書に例の隋に対して対等であらんとする内容がかかれてなければここまで有名になったかは疑問ありますけどね。

No.1さんのいう通りです。  戦前の教科書では聖徳太子の高名によるもので、いまの教科書では、最初に国書を渡した大使という事でしょう。  隋の煬帝が日本の国書を見て不快になったり、小野妹子が隋からの国書を奪われたといって、破棄したりの付随する話もいくらか寄与していますが。
小野妹子は帰国後の業績は不明ですが、遣隋使の時の冠位12階の5位が没時は1位になっていたそうで、能吏であった事は確かなようです。 

なぜ妹子は渡航してすぐに皇帝や主要人物に会えたのでしょうか?

遣隋使、小野妹子

名前は女っぽいけど、男なのは知ってますが。それはさておき、聖徳太子から派遣を任じられて中国へ渡った訳ですよね?言葉も分らない。中国の地理も分らないであろう使者が、どうやって時の皇帝もしくは主要と会えたのでしょうか?アポなしで行ったら、上陸した時点で異人扱い(異人だけど)で殺されたりするんじゃないでしょうか?詳しく教えてくださいm(__)m 。

>言葉もわからない、中国の地理も分からない
最近出版された 「漢字伝来」岩波新書 によると当時は漢字、漢文習熟がブームでした。  教師は渡来人たちです。  遣隋使となれば容易に中国語、中国の地理に精通できた筈です。
ただその頃は家庭教師教育みたいで、教室教育になるのは後世だそうです。

最初の遣隋使は隋書の記録しかないので、二回目の小野妹子の場合についていうと、渡来人の通訳など数十人が同行し、多くの土産(貢物)を持参しました。  まあ朝貢とも見られます。   上陸し隋の役人に会い案内されました。   国書に問題があっても歓迎されるわけです。  のちに返礼の使者が日本に来ています。
どんな物を持参したか、のちの遣唐使の例では、銀500両、絹、木綿、麻の織物、瑪瑙、金漆、甘葛汁、椿油などの貴重品です。
これらは、留学生の滞在費のほか、持ち帰った貴重な仏典などの帰りの土産の代価とも見られ、一種の貿易で朝貢とはとけしからんと、目くじら立てることもないようです。
人数も733年の真人広成の時は総数590人、通訳、医師もおり相当する貢物は多額の費用になったでしょう。  海難で水没することも多く国の負担大でした。
砂金も贈られましたが、後期の遣唐使の話です。

妹子に比べて鑑真の渡航はなぜ苦労したのですか?

小野妹子と鑑真

遣隋使の小野妹子は、同じ時期くらいに海を渡った鑑真のようにやはり海を渡るのに苦労したのでしょうか??
鑑真は失明するほどの苦労をしたと習いましたが、遣隋使の海を渡る苦労はあまり聞きません。

よろしくお願いします。

まず, 遣隋使は「正式な使者」であったのに対し鑑真は「国法に反した」渡海であったはずです. そのため, 鑑真はほとんど支援を受けられなかったと思います.
また, 遣隋使や遣唐使でもやはり苦労していたはずです. もちろんこちらは正式な使者なので国の支援は受けられますが, それでも「嵐で行方不明になった」とか「全然違う場所に流された」ということはありました. 実際, そのようなことを前提として「正使と副使は同じ船に乗らない」というきまりになったいたはず.

同じくらいの時期じゃないんです。現代と幕末くらい離れているんです。その間に、国際情勢が大きく変ったのです。

小野妹子が遣隋使に行ったのは、飛鳥時代の607年。この時は、九州北部から朝鮮半島西部を北上し、渤海湾から山東半島に渡ったようです。これなら、陸伝いなので楽でした。

ところで、この時代は朝鮮半島が百済,新羅,高句麗に分かれて争っていました。百済が現在の韓国西部、新羅が韓国東部、高句麗が北朝鮮と中国東北部に相当しました。この三国で、百済は日本と友好的でした。だから、遣隋使や、630年の最初の遣唐使の時は、韓国西部を通ることが出来ました。

ところが、三国の中で新羅だけが強くなりました。隋を倒した唐も、朝鮮半島を獲ろうとしました。詳しくは、「白村江の戦」で検索すると出てきます。結論を言うと、百済が滅びて新羅が朝鮮半島を統一し、日本船が韓国西部を通ることは政治的に危険になりました。
それ以降、遣唐使船は現在の長崎県の五島列島から、長江河口まで東シナ海を横断するルートを通るようになりました。

鑑真が初めて来日しようとしたのは、奈良時代の743年です。東大寺の大仏開眼は752年で、鑑真がやっと奈良に来たのは753年です。遣隋使から146年経っています。

聖徳太子が隋の皇帝にやや失礼な国書を出していますが、どのような心境だったのでしょうか?

聖徳太子の親書について

聖徳太子は、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)なきや・・・」と書かれた国書を隋の煬帝に出していますが、これは心境としてはどんな感じだったのでしょうか?
つまり、

・日本と隋は対等の国だよと言う自尊心の表れ
・隋の脅威を知らない(もしくは甘く考えてる)世間知らず

のどちらだったのでしょうか?

※聖徳太子は天子では無い、聖徳太子は実在しないなどの説はこの際無視します。

・日本と隋は対等の国だよと言う自尊心の表れ
・隋の脅威を知らない(もしくは甘く考えてる)世間知らず

どちらでもありませんよ(^-^)
聖徳太子は、留学こそしませんでしたが、漢籍に通じ
また漢詩なども、嗜んでいたそうです。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」
これは、詩的な表現です。聖徳太子は、
三国志などに描写された倭国(日本)の記述なども読んでいたので、
「中原の方々は、私たちを野蛮な東夷と思っているかもしれませんが、
私たちは、すでに中華の文化に敬意を払い、その一員に加えてほしいと
使節を送るので、君子の交わりをしていきましょう。」
と詩的に述べたのです。
煬帝も、詩人としても評価される器量の方だったので、
一読して真意を察し、大げさに怒る演技をしたのち、
破顔一笑して、
「皇帝、倭王に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、徳をひろめて、全てのものに及ぼしたいと思っている。人びとを愛育したいという情に、遠い近いの区別はない。倭王は海のかなたにいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗はおだやかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろなこころを、朕はうれしく思う」
と返書を与えました。

どちらでもありません。以下、私の説を書きます。

589年、大陸では隋が天下統一を果たした。
満州地区にあった高句麗は強大な隋と隣接することになった。

593年、日本では推古天皇が即位。
厩戸皇子が皇太子になり、同時に摂政に就任。天皇から国政の多くを委任された。
大臣には蘇我馬子が留任した。

蘇我馬子の配下には渡来系の氏族が多く、日本の朝廷はその人脈を利用して
高句麗政府に対して仏僧の派遣を要請した。

高句麗王は、隋帝の朝貢要求に応じなかったため、二国の関係が険悪になっていた。
高句麗王は、この際、日本に近づき、同盟関係を結ぶ方が髄への牽制にもなり有利であると
考え、
595年、政治にも仏典にも強い僧、慧慈を派遣した。

朝廷の馬子は、慧慈を朝廷の外交顧問に就かせると同時に、皇太子の家庭教師をも務めさせた。

600年、日本の朝廷は隋の朝廷の動きを偵察するため遣隋使を派遣した。

日本の朝廷では、慧慈ら高句麗関係の人脈を通じて得られる大陸の政治情報や、遣隋使の帰国報告をもとに対隋外交政策を練った。隋と高句麗は国境で数度、武力衝突したがいずれも高句麗側の優勢で終わった。今ならば、日本は隋に対して強い態度で臨んでも、隋が日本を武力で攻めることはあり得ないと判断した。だから、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す・・」と事実上の独立宣言をしたのである。

607年、小野妹子を団長とする訪中団を送り込み、前記の天皇親書(国書)を持たせたのだが、果たして日本側の読みは当たった。

隋の煬帝は、日本の天皇親書には腹が立つけれども、ここで対日関係を悪化させるのはまずい。高句麗だけでも手ごわいのに、高句麗-日本連合軍と戦うわけにはいかない。ここは我慢して、答礼使節を日本へ派遣し、日本の天皇のご機嫌をとろうと、小野妹子の帰国に合わせて訪日団を送ってきたのです。

日本の朝廷は国際社会の情勢を的確に読んで、チャンスをうまく利用しました。見事な駆け引きだったと思います。

なお例の国書は、天皇に代わって皇太子が代筆したと思います。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

※聖徳太子は実在しました。
上宮聖徳法王帝説では、厩戸豊聰耳聖徳法王、
法隆寺釈迦三尊像光背銘文では上宮法皇、
法隆寺薬師如来像光背銘文では東宮聖王、
古事記では上宮之厩戸豐聡耳命、
日本書紀では廐戸皇子、法主王などと呼ばれています。

まとめ

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