歴史の大火はなぜ起きた?「火災ガイド」。「日本の歴史上の大火」「吉原はなぜ何度も全焼した?」

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はじめに

9月5日は「火災」の日。

1666年のこの日、ロンドン大火が発生。プディング通りのパン屋から発生した火事は東からの風にあおられて3日間燃え続け、ロンドン市内及び周辺部は焦土となりました。焼失家屋は1万3200軒、89の協会が焼け落ちるという大惨事でしたが、当時ロンドンで流行していたペスト菌が大火で死滅したほか、1681年にロンドンで世界初の火災保険ができるきっかけにもなりました。また、死者数も数名だったということは不幸中の幸いでした。


  • ヨーロッパの教会が石造りの理由
  • 日本の歴史上の大火
  • 吉原はなぜ23回も炎上した?

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ヨーロッパの教会はなぜ石造りなのですか?

ヨーロッパの教会はなんで石造りなのか

ヨーロッパの教会はなんで石造りなんですか?
まわりにいくらでも木があったと思うんですが。

ヨーロッパの教会は、一般的に都市では石造りで、地方農村では、木造りになります。

都市部では、戦闘の際に火をかけられ、焼失、火災の拡大の危険性があるため、木造りの建造物は、禁止されていました。
そのため、ヨーロッパ都市の個人の家々も、石造りになっています。

元々は木造建築が主流でしたが、次第に石造建築へと移っていきました
より頑丈なものを作ろうとすれば石造建築になると思います。
戦争が多かったのもひとつの要因のような気がします。

現在でも木造教会は残っています、ルーマニアは木造建築が主流だそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E9%80%A0%E6%95%99%E4%BC%9A
ロンドンでは1666年におこった、大火(ロンドン大火)で都市の85%が焼失、其の後1667年に「再建法(クリストファー・レンが尽力 建築家)」ができ、家屋は全て煉瓦造または石造とされ、木造建築は禁止、また道路の幅員についても規定されました。

火事

日本の歴史上の大火はどんなものがありますか?

応仁の乱並みの戦火

応仁の乱並みに、京都(あるいは奈良など都)が焼け野原になった出来事は何かありますか?
応仁の乱並みでもなくても、かなりダメージを受けた出来事なら、それでいいです。
教えて下さい。
お願いします。

京都は長い歴史もあり、政治の中心でもあったために記録も多く、災害についても多くの記録が残っていますが、平安時代は内裏の焼亡などもあったのですが、どのぐらいの広がりがあったのかはっきりしないので、平安も最終期からわかる範囲で。

安元・治承の大火。安元3年-1177-と治承2年-1178-におこった大火。方丈記にも記載された大火。
治承の大火
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%BB%E6%89%BF%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%81%AB

養和の飢饉。これも方丈記に記載された飢饉。治承5年改元して養和元年―1181-の飢饉。源平の争乱中におこった飢饉で、対木曽義仲戦の前にして平家側は兵糧・兵員調達に苦しみ、敗因となったとの説がある。
養和の飢饉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E5%92%8C%E3%81%AE%E9%A3%A2%E9%A5%89

応仁の乱に勝る被害と言われているのは、天文年間、特に天文5年―1536-の天文法華の乱で、日蓮宗に対する宗教戦争の過程での日蓮宗寺院焼き打ちからの大火で、京都の大半が類焼。
天文法華の乱(法華一揆)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%96%87%E6%B3%95%E8%8F%AF%E3%81%AE%E4%B9%B1

信長による上京焼き打ち(元亀3年-1572)、室町幕府滅亡直前の対足利義昭戦で、義昭支持の上京地区を信長が焼き打ち。上京のほとんどが焼け落ちる。

宝永の大火。宝永5年-1708年-の大火。
宝永の大火
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E6%B0%B8%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%81%AB

天明の大火。天明8年-1788-の大火。京都の8割消失。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%98%8E%E3%81%AE%E5%A4%A7%E7%81%AB


禁門の変。蛤御門の変とも。元治元年-1864-失地回復のために上京し、御所に迫った長州軍に対して、薩摩・会津藩を中心とする幕府軍が応戦、その過程で火が放たれ、延焼し、大火となる。この大火をどんどん焼けともいうそうです。
禁門の変
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E9%96%80%E3%81%AE%E5%A4%89

以上、参考まで。

吉原はなぜ23回も全焼したのですか?

吉原の火事

明暦の大火以来、吉原は23回も全焼していると聞きました。

火事が多かったとは言え、何故そんなに何度も燃えたのでしょうか?

その度に場所が変わったりはしたのですか?

1。>>火事が多かったとは言え、何故そんなに何度も燃えたのでしょうか?

 明暦2年(1656年)10月、吉原が日本橋から移転を命じられた時、浅草寺裏の日本堤への移転に決り北町奉行・石谷貞清が図った便宜の中に「周辺の火事・祭への対応を免除する、という一条があります。
 周辺火事への対応免除は、逆に吉原で火事が発生した場合に周りから応援が得られず、吉原が全焼する場合が多かったという皮肉な結果をもたらした、と下記にあります。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%8E%9F%E9%81%8A%E5%BB%93

2。その度に場所が変わったりはしたのですか?

 いえ、日本堤からは変っていないと思います。

防火上効果のある瓦屋根が許可されず、板葺き屋根だったからですね。
一旦火が出たら、木材ですからアッというまに燃え広がります。
それで、被害が大きくなったと言えると思います。

瓦屋根が許されなかったのは、一段下がった商売だという政府の見解を示すためです。
どんな大店(大きな遊女屋)でも、絶対に瓦を載せることは出来ませんでした。
板の屋根に防火桶を置き、道路にも置き、焼芋屋の煙にさえ気を立てるほど住民(?)は用心していたのですが、それでも火事は出ました。

場所は、変わりません。
これも政府の命令で、あの場所でしか営業出来ませんでしたので。

燃えてしまっても、今でいうバラックのようなものを建てて、間髪入れず営業を再開しました。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>火事が多かったとは言え、何故そんなに何度も燃えたのでしょうか?

これは、NO1.の方のWikiの通りです。


>>その度に場所が変わったりはしたのですか?

吉原が火事で焼けた時には、再建の期間に限り、吉原周辺の農家を借り切ったり、茶屋や料理屋を借り切ったりしての仮宅営業が認められました。
ところが物珍しさもあって、かえってこちらの方が人気が集まった。
日頃は郭の外へ一歩も出られぬ遊女たちも、馴染み客と散歩ができたりしたので仮宅気分を喜んだ。
仮宅での営業は、かたぐるしい仕来りも省略され、酒食の接待も簡略化されており、料金も安かったのでこちらの方が人気でした。

さらに幕末には吉原の仕来りもルーズとなり、仮宅のあとをそのまま遊女屋にするところも現れ、深川の岡場所は私娼とも公娼ともつかぬものになってしまいました。

まとめ

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