室町幕府をひらいた「足利尊氏」特集!「優柔不断な性格だった?」「京都に幕府を置いた理由」

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はじめに

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5月7日は、南北朝時代武将であり室町幕府の初代征夷大将軍「足利尊氏」の日。

1333年のこの日、京都を攻撃し、公家を監視・統制していた六波羅探題を滅ぼしました。

足利尊氏

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足利尊氏は優柔不断な性格だったのでしょうか

足利尊氏の性格

足利尊氏は優柔不断な性格だったのでしょうか?
それともただ信心深いだけだったのでしょうか(天竜寺の建立)?
それとも頼朝のように辛抱強く待てる性格だったのでしょうか?

既に制度疲労を起こしていた鎌倉幕府を新田義貞等と共に潰したのは良いのですが、その後後醍醐天皇が始めた「建武の新政」は鎌倉幕府以上に時代錯誤でメチャクチャなものでした。少なくとも、当時の日本の「有権者」である諸国の武士はそう感じました。誰かが建武の新政を止めさせて武家政権を再建しなければならず、それができるのは足利家だけでした。

尊氏はもとの名前「高氏」を後醍醐天皇(尊治親王)から一字を頂いて「尊氏」と変えました。後醍醐天皇と正面から敵対し、彼を京都から追い出して自分の傀儡である北朝を立てた後も、後醍醐天皇から拝領した名前を変えていません。尊氏は、終生「本当の天皇は後醍醐天皇。無茶苦茶な建武の新政を終わらせるために止むを得なかったとはいえ、後醍醐天皇を京都から追放したのは臣下の道に反する」といった意識を持っていたのでしょう。

そもそも、南朝が拠る大和の吉野は、足利軍が全力で攻撃すれば攻略可能な場所と考えます。その場合、南朝関係者を全て捕らえて京都に戻り、身分の低い者は処刑、処刑できない皇族は脱出不可能な場所に分散して流刑し、適当に死んで頂くという、承久の変の事後処理のようなことも可能だったでしょう。尊氏はそれをしませんでした。

全国の武士の人望を一身に集め、とりあえず建武の新政の混乱を収拾して武家政権を再建したのですから、一流の人物であったことは間違いありません。ただし、No1さんの言われるように「良い人だが、政治家向きではなかった」と評価されても仕方ないでしょう。

IFの話になりますが、尊氏・直義兄弟の生まれる順序が逆で、直義が足利家の当主であれば、歴史はよほど単純な形になったでしょう。

* 建武の新政は短期間で終了
* 南朝は根絶やし
* 家来への恩賞は控えめで室町幕府の直轄領を増やす
と言った形で。直義は、尊氏よりよほど「実務的」、No1さんの言われる「政治家として必要な冷酷で粘着質の性格」を備えていたように思いますし、能力も十分にあったはずです。

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足利尊氏はなぜ京都に幕府を置いたのですか?

足利尊氏は

足利尊氏は何故鎌倉じゃなく
京都に幕府をおいたのですか??

教えてください。

単純に言うと、京都が政治の中心の1つであったからです。

鎌倉時代は中学校程度ですと「武士の世の中」と習い、鎌倉が政治の中心地と習いますが、実はその頃も京都にある朝廷も国司を任命して税を集めたり、各地の荘園から上納金を取ったりして政治の中心の1つでした。ですから、鎌倉幕府も六波羅探題というのを設置して朝廷の動きを監視していたのです。

後醍醐天皇による「建武の新政」は幕府を倒して権力をふたたび京都に一元化しようとする試みと考えることもできますし、実際、幕府を倒してそうなったわけです。ただ、鎌倉将軍府や陸奥将軍府を置くなどして地方の武士を抑えようともしています。

だからこそ、この後、天皇方から京都を奪取した足利尊氏は京都に幕府を置き朝廷(天皇や公家)の動向を抑える必要があったわけです。ただし、鎌倉が武士政権の根拠地であったことを考慮して鎌倉府を設置して弟の足利直義をその長として周辺を治めさせました。

つまり、この頃には京都と鎌倉と二つの政治の中心があったが、後醍醐天皇により、政治的中心としての京都が復活し、足利尊氏もその流れの中で京都の方が重要性が高いと判断して政権をおいたのです。

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足利尊氏と源頼朝の人気がないのは何故ですか?

足利尊氏と源頼朝の人気がないのは何故ですか?

 私は、歴史上の人物の中でも、特に足利尊氏と源頼朝が好きなのですが、それぞれ室町幕府、鎌倉幕府を開いた人物であるにもかかわらず、世間一般からの人気が全くないような気がするのはなぜでしょうか?
初の武家による政権を開いたという点で、徳川家康より源頼朝の方が実績が上だと思いますし、武士としての能力や政治力において、足利尊氏は織田信長を上回ると思います。
 両者とも後世の歴史家から非難されている部分もありますが、それは信長・秀吉・家康にもあてはまることですし、幕末の志士も多々やっています。でも、戦乱を終わらせて政権を開いたということはそれにも遥かに勝る功績ですし、もっと人気が出てもいいように思います。
 あと、私以外にも尊氏か頼朝が好きな人は結構いるのでしょうか?

どちらも、自分の弟を殺したからです。
作り上げた政権を保つためには、時には非情にならねばならないこともある。
源頼朝は、武士の棟梁として、「武士である以上は、自分の部下である。
自分の許しなく朝廷から勝手に官位を受けてはいけない」としました。
ですが、弟の義経は身内であるという感情に甘え、かつ朝廷のほうが
権威は上だからと勝手に解釈して官位を受けてしまいました。
兄とはいえ、将軍の決めたことをその身内が平気で破る…これでは、
争いの耐えない当時、政権を維持していけません。第二の義経が現れない
ためにも、涙を呑んでそうするしか無かったのでしょう。政治的に必要だった
ことだとしても、戦争に功のあった弟を殺してしまう。この非情さが、彼の
人気の無い最大の原因ではないでしょうか。
そして足利尊氏。彼の場合も、弟が尊氏の執事であった高師直が気に食わない
あまり、なんと政敵である南朝側へ下ってしまいました。その結果、尊氏も
一時的に南朝に下ることを余儀なくされますが、のちに朝廷から弟、直義の
追討令を貰い受けて直義を毒殺さえしています。尊氏の場合、特に政権が
不安定で、武士だって南朝、北朝のどちらにつくか分からない状態だったのに、
身内がさらに土台をぐらつかせるようなことをすれば、それに習う人間が絶対に
出てきます。だから、弟を殺したのです。尊氏は、それに加えて「後醍醐天皇を
吉野へ追い落とした」という悪評がつきまといました。代わる北朝を立てても、
天皇を京から追い出したという事実は、当時としては大変重いです。
天皇といわば、「仲直りできないまま」政権を打ち立ててしまったので、明治
以降、太平洋戦争時代までは逆賊とも言われていたんですよ。
これが多分、今でも尾を引いているんだと思います。以上、二人に対する私的
意見ではありますが、述べさせていただきました。
ちなみに、歴史作家の山岡荘八さん、吉川英治さんは、二人へ同情的な立場です。
私も彼らにさほど悪感情は持っていません。

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まとめ

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