「明治天皇」特集!「明治神宮はなぜ人気がある?」「なぜ京都から東京に移った?」

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はじめに

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1月9日は明治天皇即位の日。1875年のこの日、明治天皇陛下が16歳で即位をされました。


明治天皇QA

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毎年、初詣の参拝客ナンバーワンですが、明治神宮はなぜあんなに人気があるのでしょうか? 御利益あるのですかね

パワースポットだと思ってます。
人が集まるあの辺の土地自体が
そこにある神社は何かご利益ありそう
です。
来年の初詣も予定しています。

外人多くてびっくりしますよ。

なにせ原宿駅直結ですもの。それに加えてあれだけ壮大な神社なのですからほっといたってお客さんは次から次へとですよ。
靖国神社も九段下に近いですが、九段下はそれほど乗降客が多い駅ではないです。神田明神もお茶の水から近いけど、逆賊を祀った神社だからなあ。

やっぱり世界一の乗降客数を誇る新宿駅と、世界二の乗降客数を誇る渋谷駅の間にある駅直結の神社ってのはどう考えたって最強だと思いますよ。

本来「神宮」は三重県の「伊勢神宮」だけなのです。
昔は「御伊勢参り」など、日本中三重県にお参りに行きました。
しかし、それでは不便なので、大正時代から明治神宮に代理参詣するようになりました。
明治神宮は明治天皇の崩御後、大正9年に創建されました。そして100年後の自然林化を見据えて設計されました。2020年に100周年を迎えます。
まあ、なぜ人気があるのか、と言えば、「交通の便が非常に良い」「伊勢参り代理参拝のご利益」「人工的に設計されたイベント会場的要素」で人気があるようです。

明治天皇の時代というのは、日本や世界でどのようが出来事があった時代だったのでしょうか

欧米列強では、英独の関係がだんだん怪しくなってきました。
Victoria女王の死去。ドイツのウィルヘルム1世、フリードリッヒ賛成の死去。
いろんなえらい君主がいないくなりました。
日本で起きたことは下記のうrlを参照ください。


https://ja.wikipedia.org/wiki/明治

武力を背景に、他国を脅す、或いは侵略して奪う、帝国主義が
全盛の時代です。
大日本帝国もアジアで唯一つ帝国主義国として欧米列強に、対抗してました。
大日本帝国の末路は御存知の通りで、320万人の人が犠牲になりました。
大日本帝国の波が世界中の弱小国(大多数は植民地)に独立の気運の、
火付けとなりました。

大陸の大国は、帝国主義にやられた国ですが、一路一帯などと称して、
金と武力で推し進めていますが、危険な臭いがプンプンします、
侵略された仕返しをしようとしている様に思えます。

平成の時代は鉄砲玉の代りに、お金を武器としている新たな帝国主義
で争っていますね。
経済大国は御札をバンバン印刷してます、いぜれ破局が訪れ、大恐慌が
訪づれるのは必須でしょう。

日本は海の幸、山の幸が有り、一年中、何処かで野菜が採れます。
世界中を見ても、こんなに恵まれた国は有りません。
1億人が生きてゆく、食物は自前で賄える量が採れるそうです。
石油の代りには、メタンブレードがなりそうなのと、小笠原諸島の
海底には希少金属が有り、憲法を改正し、重武装して中立国宣言を行い
米国から独立する事が経済の大恐慌から、逃れる手だと思ってます。
場合によっては鎖国しても宜しいかと・・・
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おまけの余談。
家康の頃は、日本は世界最強の国で、鉄砲を何十万丁も所有していた
国はありませんでした、だから江戸時代は鎖国政策が出来たのです。

昭和天皇や今上天皇は、天皇としての仕事を毎日やっているメージがありますが 大正天皇や明治天皇も忙しかったのでしょうか?

大正天皇は生まれた時から体が弱く晩年、皇太子・裕仁親王(昭和天皇)が摂政に付き政務を行わせていたので、明治や昭和の両天皇に比べて負担が少なかったようです。

が、健康時は当時の総理大臣の言いなりになりつつも第一次世界大戦の混乱に巻き込まれないよう必死に舵取りをしてきたというイメージがあります。
摂政をつける直前に首相暗殺事件もあったのに・・・

「忙しさ」「大変さ」はそれぞれ対処する問題が異なるので、一概にこの天皇は暇だったとは言えないのでは?

明治天皇の日常生活は、お付きの者がたくさん居て、今生天皇と比べると、はるかに楽な部分もありました。
入浴時に身体を拭くだけの担当がいたそうだから。
拭くと言ってもゴシゴシではなく、入浴後の身体の水分をとるのに、絹の布地を一枚ずつ何十回も、水分が無くなるまであてがう方法だった。
それも毎日使い捨て。
このように、初期のまだまだ財政不安定な頃に緊縮財政を命じても、世間知らず明治天皇の暮らしは別世界だったようです。
公務は、今生天皇より行事は、はるかに多かったと思います。
宮中行事、太政官内閣だけでなく、陸軍、海軍も相手にしていたので、単純計算では2倍。
また陸軍海軍の組織も小さかったので、親補職だけでなく、少将以上を集め、会議+午餐会を陸海軍別に度々行なっています。
この頃は、変に神格化されず、正直に会議、報告ができていたようです。
また、ポスト以上に将軍が出来ると、日露戦の前の頃は無闇に予備役に入れないで、順番に休職になり、出仕義務を開放し自宅待機給与減額とされ、その者達の生活健康を良く気にかけて、特にお召し参内させたとの事です。
また、元老達の参内も多かった。
日清日露の大きな外征も経験しています。

大正天皇については、ゴメンナサイ。
あんまり知りません。

昭和天皇は、摂政で関東大震災を迎え、軍縮、事変、事件、軍拡、戦争、敗戦、象徴天皇と摂政以来実質在位は70年に及んだが、
開拓者であった明治天皇も、だいぶ忙しかったと思います。
かなり政治力を発揮したとの論文もあります。

平安遷都から千年以上御住いになられた京都を離れなぜ明治天皇は武士という身分の低いものの城中にお移りになられたのでしょう?お姫様がおひとりお移りになるだけで大騒ぎだったのと比べ、とてもあっさりとお移りになられた印象があります。

 和宮降嫁は「敵地にたった一人で、しかも可憐な女の子が乗りこんでゆく」「身分が下の者に嫁いでその家の人となる」、つまり半ば以上人質としての性格があります。明治の江戸御幸は「やっつけた相手の本丸に征服者が乗りこんでくる」、戊辰戦争に勝利したことの象徴的な儀式としての面があります。両者では事情がまったく違うわけです(遷都そのものに反対があったのはすでに他の回答で指摘されているとおり)。
 ちなみに千代田城の先の家主は徳川慶喜。朝廷自身が征夷大将軍兼従一位内大臣に任命した人物です。累代の将軍は最低でも正二位、左右内もしくは太政大臣を兼任しますので、これほどの身分を持つ者は公家でも五摂家くらいのものです。決して身分が低いなどとはいえません。それから言えば、天皇を取りまいていた薩長の連中は、藩主でさえ薩摩が正四位上薩摩守兼左近衛中将、長州が従四位下大膳大夫なのですから、よっぽどこっちのほうが身分が低い。

明治初年当時、明治天皇はまだ少年で、実権はことごとく
維新の志士たちに握られていました。

まあ明治維新という大革命の真っ最中で(本当に革命
と呼べるかどうかは議論が必要でしょうが)、明治新政府
は古い制度やしきたりを壊すのに懸命だったということ
を理解する必要があります。

明治維新までは日本の首都は京都だったのですが、
千年以上続いた京都では、新時代にふさわしい政治を
行うには向いていない場所でした。
そこで、明治政府の実力者であった大久保利通は、まず
大阪遷都計画を立案します。

しかしこの計画は、計画段階で公家たちの猛反対にあい、
あえなく立ち消えとなりました。
(大阪の皆さん、残念です。もし、この計画が実現したら、
 日本の首都は東京ではなく、大阪だったでしょう)


しかし不屈の男、大久保はくじけません。
次に江戸(東京)に遷都することを考えます。ちなみに
大久保に東京への遷都の計画をもちかけたのは、前島密
だったようです。

前回、公家の猛反対にあった大久保は、東京への遷都
を慎重に計画します。
そして、東国巡幸の名目で明治天皇を京都御所から連れ
出して、見事江戸城に住まいを移すことに成功しました。

遷都は、明治新政府ができるや、早くも話題として上り、議論が始まりました。京都の天皇をどうするかという問題だったのです。天皇には今のままで京都にいて頂きたいとする論と、移った方がよいとする論が戦わされたのです。その他にも移すべき場所として色々な候補地が上がりました。最初の候補地は、大阪でした。主唱したのは大久保利通で、大久保の言うところは、今の京都ではあまりに天皇が神格化され過ぎる。それよりも庶民的な土地として知られる大阪がいいというものでした。

 これに松平慶永ら諸侯クラス及び岩倉具視ら公卿が、大阪では権威が失われ「軽く」なってしまう、と反対しました。東征大総督府軍監の江藤新平は、徳川の本拠であった事、なお抵抗を続ける東北諸藩に対しての威圧の意味も含めて、江戸を候補地に上げました。
 
 この案に木戸孝允が乗り、次いで大久保利通も乗ったのです。しかし、諸侯や岩倉らの公卿にとっては、江戸も大阪も同じ事です。天皇は京都を離れるべきではない、と頑強に反対しました。しかし、大久保は何としても遷都したかった(大久保は薩摩出身だから、旧来から伝統のある京都が苦手でした)。

 そこで、大久保はある秘策を思いつきます。行幸です。なし崩し行幸=遷都としたのです。まず最初、慶応4年(1868)3月15日、天皇は大阪に行幸しました。次いで江藤新平の建策を容れて明治元年(1868年)9月20日、江戸に行幸します。これには岩倉らが強く反対したが、行幸だからと強行しました。そして10月13日、江戸城を東京城とします。ここは東の京都の城ですよ、とする京都向けのものでした(なお江戸が東京となったのは、これより後で10月17日の事ですから、この呼称もなし崩しと言う事になります)。

 この年の12月、東北諸藩の平定も終わると、天皇は京都に帰ります。行幸だからとして帰ったのです。岩倉達もホッとしました。が翌明治2年(1869)3月7日、またも天皇は東京に行幸しました。そして今度は帰りませんでした。
 
 岩倉らがほぞをかんだ時にはもう遅かったのです。

まとめ

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