江戸幕府・初代将軍「徳川家康」ガイド!「どのくらい戦上手だった?」「東照宮を日光にした理由」

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はじめに

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12月26日は江戸幕府の初代将軍・徳川家康の誕生日。家康は戦国の世を終わらせ、265年に及ぶ徳川家の長期政権を築きました。


徳川家康QA

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徳川家康の大きな功績はどのようなものがありますか?

豊臣政権から天下を奪取し、征夷大将軍となる。天下の覇者になったこと。豊臣政権を隠居後、滅亡させ、そのあと250年に及ぶ天下泰平の基礎を築いたことですかね?
徳川家康
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/徳川家康

一番の功績は、関東地方を開拓(開発)したことかなぁ。

二番目の功績は、家康が天下を獲った事で、
質素倹約・質実剛健・文武奨励という方針が、日本全国に行き渡ったことでしょうか。
そのおかげで、日本人の真面目で勤勉な性質がより濃縮されたような気がします。
ちなみに、寺子屋も、江戸時代になり急増したそうです。

徳川家康の功績

(1) 150年余続いた戦乱の世を終わらせて平和な世の中を造った。

(2) 殆ど原野に近かった江戸を開発し、巨大な近代都市にする糸口を造った。

(3) 天皇と公家を武士の下に置くことに成功した。

(1) 150年余続いた戦乱の世を終わらせて平和な世の中を造った。

先ず、1467年の応仁の乱に始まる戦乱の世を終わらせ、平和な世の中にしてくれたのが最大の功績と言えるでしょう。 三河の国の小大名でしたが、織田信長に仕えてから運が開けました。 本能寺の変で秀吉に運が向きましたが、辛抱強く秀吉の下に就き時節を待つ。 そして17世紀に入り二度の大坂の陣で豊臣家を滅亡させ、徳川幕府を強固なものにします。

平和な日本を造った偉大な指導者と言えるでしょう。

(2) 殆ど原野に近かった江戸を開発し、巨大な近代都市にする糸口を造った。

三河を中心に勢力を伸ばした家康でしたが、秀吉の天下では彼に恭順し、関東へ領地を移されても不平を言わず従います。 ここらが彼の偉大なところ。 原野に毛の生えた程度だった地を根気よく開発する。 先ず、利根川を今の銚子沖に流れを変え、度重なる江戸の洪水を劇的に減らす。 彼の開発能力は武田家の家臣を数多く登用したことによります。 信玄の治水事業のノウハウを担当者丸ごと抱え込んだ手腕は見事。

彼は優れた能力を持つ在野の逸材を見つけて来て登用する。 スカウティングの名人でした。 

(3) 天皇と公家を武士の下に置くことに成功した。

武家諸法度で武士を公家諸法度で天皇家と公家を配下に置くことに成功。 武士の偉大な権限を確立した偉大な指導者となりました。 

特に二代将軍秀忠の娘を後水尾天皇の皇后として宮中に送り込むことに成功し、天皇の権威を完全にはぎ取ることに成功しました。 さらに彼は薬師として隠密を送り込み天皇家を意の如くコントロールするシステムを構築し、徳川政権を永続させる土台を築き上げたのでした。 

● 家康の武士としての戦争の手腕は正直たいしたことはない。 武将としては二流の中。 しかし武運に恵まれ勝ち残った。 運が八分に実力が二分。 それを地で行く幸運な武将と言えるでしょう。 

戦国時代にはさまざまな名将がいましたが、合戦の采配に限定すると家康は当代の武将の中で何位ぐらいでしょうか?

上杉謙信や武田信玄には及びませんが、彼は彼らに学んでいるんです。だから、三方ヶ原で武田軍に負けた後も生き延び、信長、秀吉、前田利家と並んで戦上手となったんです。10位中5位か6位でしょう。

4番目か5番目ぐらいでしょうか?
やはり一番うまかったのは武田信玄か上杉謙信でしょう。
織田信長もこの二人にはあまり勝てないと思っていたみたいで、考えたら常時動ける軍隊をと思ったみたいです。
(この当時兵隊は農民だから出稼ぎという意味合いで農閑期にやっていて給料は出ていないから乱取りや奴隷狩りなんかやってました。)
徳川家康も戦の師匠は武田信玄と言ってますし武田が滅んだあたりから負けなしになっています。
やはり武田家臣団も召し抱えたこととその軍略を勉強したという事が大きかったと思います。

関ヶ原の合戦では圧勝し、三方ヶ原の合戦ではあの武田信玄を相手に大敗北を喫しながら主な武将を誰も失わなかったのですから、野戦の鬼だと思います。

ただ、最新の研究でどーも関ヶ原の合戦は巷間でいわれているのとは大分違ってショボい戦いだったのではないかという説が出てきました。その説が正しいなら、関ヶ原の合戦は家康が強かったというより、それ以上に石田三成の戦さ下手にも程があったという感じになりそうです。

また三方ヶ原の合戦に対しても、私は世間でいわれるような大合戦ではなく、実際はほんの小競り合い程度のものに大敗北を喫した程度のものではなかったかなという気がしてならないのです。

とはいえあの長篠の合戦では、武田軍主力を正面からほぼ一手に引き受けてその打撃を跳ね返しているのですから、やっぱり強かったと思いますよ。

10番目くらいにはなっちゃうかな。。。

上杉謙信
武田信玄
黒田官兵衛
竹中半兵衛
羽柴秀吉
明智光秀
織田信長
真田昌幸
毛利元就
徳川家康

徳川家康より上の順位は、人によって様々ですが
もっと名高い名将もその中にいたら、徳川家康はもっと順位低いかな。

徳川家康は、立地、運の良さ、人脈、家臣が良くてだいぶ生き残れた方でしょう。
大勝利をしたのは、関ヶ原くらいなものでほとんど負け戦、けど、運良く死ななかった。
祖父も父も暗殺された経緯があるから、そのあたりの経験も生かされたのかも知れません。

織田信長、徳川家康は、立地条件がすこぶる良かったんでしょう。
飢えることも少なくて、貿易もしやすい。
京都にも近い。

家康はなぜ、三河から遠く離れた日光に自分のお墓をつくったんでしょうか?

家康は、臨終に臨んで「亡骸は、(駿河国)久能山に」と遺言しています。
現在の、駿河・久能山東照宮です。
日光にあるのは、「秀忠が、将軍の威光を示す為」に「改葬」したのですね。
※現在の日光東照宮は、三代家光が大規模に改修したもの。
日光の地は、神道・仏教でも「聖地」だと天海が強硬に主張したとの事です。
余談ですが・・・。
天海は、明智光秀本人との説も多いですよ。
質問者さまも、色々調べると大変興味を持つかも?

家康が死んだ頃は まだ豊臣の残党が残っていた
いつまた戦乱が起こらないとも限らなかった
そのため家康は 死後に自分の墓が荒らされない事、また
万一変事が起こった場合は 日光に立て篭もって戦う事 を想定していました

行ったことあればわかると思いますが
日光東照宮は山奥にあって 墓なのにまるで要塞の様です
家康は自分の死後に何かあるかもしれない事を見越して
日光の山奥に墓を作らせたのです

幕府の政治顧問だった金地院崇伝が残した『本光国師日記』によるとお墓を設けさせたのではなく守護神として祀れと言い残したとされています。
遺体はそれまで大御所として政務を執っていた駿府の久能山大樹寺に埋葬されました。
日光は家康以前の頼朝の時代からから関東の宗教的な権威でした。
この地に祀られることで八州(やしま)=日本の守護神になることを願っていたと言われています。

江戸時代は大きな戦乱もなくとても長く続きましたが、その要因は何だったのでしょうか?

はっきり言うと戦いにつかれた大名や市民という感じがします。豊臣家が滅び、天下人が決まったのにいまだに争いを続けることは無意味です。そこで幕府は大名の監視や決まりである武家諸法度を作って統制しました。

元和偃武

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/元和偃武
武家諸法度
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/武家諸法度

秩序というのは、威嚇の力と納得の力で形成されます。

威嚇の力が強く、納得の力が弱いと、秩序は
不安定になります。
その反対だと、安定します。

江戸時代は、大名や庶民がそれなりに満足していた
ので、長く続くことが出来たのです。

当初は威嚇の力でやっていました。
それで改易される大名が多くなり、社会が不安定になり
由井正雪の乱が勃発したりしました。

それ以降、幕府は納得の力で統治をするように
なり、合理的な大名統制をやりました。

また、庶民もそれなりに豊かになりました。

以前はマルクス史観の影響で、百姓は悲惨だと
信じられていましたが、実証研究が進むと、百姓は
結構豊かな生活をしていたことが判ってきました。

最大の理由は、他国からの侵略を受けなかったことでしょう。いくら自国では平和に過ごしたいと思っても、他国や異民族から侵略を受ければ平和ではいられません。

ではなぜ国内で戦乱が起きなかったかですが、「平和であったほうが人々にとってメリットが大きかったから」だと思います。
今の日本は格差社会とか様々な問題が起きていますが、さりとて政府に対してテロを起こそうとか、独立運動をしようとか、そういうことは一切ありません。なぜ格差で苦しんでいる人たちが日本政府に対して戦争をしないのかというと、そんなことやってもメリットが少ないからです。
また現代の自民党は「最大多数の最大幸福」を目指しています。江戸幕府の政策も基本的に同じです。最大多数の最大幸福。その政策が概ね行えている間は国内で反乱が起きることはないのです。

また戊辰戦争と明治維新によって体制は大きく変わりましたが、明治維新というのは人民革命というより徳川幕府と反徳川勢力(薩長・朝廷)の権力争いといったほうが正確だと思います。ほとんど無血革命みたいなものですよ、あれは。

地理的には、日本が島国だった事です。
そして、形式的に「天皇を中心として政治」を行っていた事。
征夷大将軍は、武家の棟梁という職務とは別に「天皇から統治権を任された」事になっています。
結果、各藩主は「幕府に逆らう事は、天皇に弓を引く」と考えたので内乱が起きなかった事。
※幕末は、天皇側は「幕府を通さず、直接統治」を目指します。
また、長幼の序・目上の者を敬う事が常識だった事。
身分制度・認識が、しっかり保たれていたのです。
どこかの法人の様に「理事長以下多くの理事が着席していても、一人だけ両肘を肘掛けに置いて+背中を背もたれに持たせてふんぞり返っている理事」がいましたよね。
誰が理事長なのか、理解していない様です。(笑)
当時は、組織を大事にした時代だったのです。
「この将軍は嫌いだ。だから、お辞儀はしない。命令にも、従わない」という旗本・大名は存在しませんでした。
秩序が、保たれていたのです。
また、国民の民度が高かった事。
信長・秀吉・家康時代の外国人の見聞録を読むと、分かります。
多くの国民が、「読み書きそろばん」が出来たのです。
外敵がいない+統治者(天皇)が一人+民度が高い=江戸時代が長く続いた。
そうそう、「歴代将軍が、正室の子供でない」事も重要かもね。
側室の子供だと、外戚が大きな力を持つ事は出来ません。
※もちろん、将軍の母親の一族という若干の利益は得ています。
正室の子供が将軍になれば、外戚が大きな力を得る事になりますよね。
最悪な場合、将軍家と外戚の権力争いが起きる可能性もあります。

権威と政治的な権力と経済的な財力を完全に分離した社会制度を設けていたのが長続きした最大の理由です。

中央政府としての権威は朝廷に持たせ、政治的な権力は幕府が朝廷から委託された形式にしていました。
幕末に大政奉還という儀式が行われたのも江戸幕府が朝廷から委託されていた諸大名の統制権を返還するという意味の儀式でした。
大名の格も石高だけではなく朝廷から下賜される官位が権威の象徴でした。
宗教的な権威も本末制度という制度を設けて宗派ごとにピラミッド構造にして組織全体を統制していました。
宗派の最上位の寺院とは別に僧録司という幕府との窓口になる寺院を定め本山に政治的な権力を認めませんでした。
大名階級の権力と財力の分離も徹底していました。
政治に参画できない外様大名には広い領地と高い石高を認め政治に参画できる譜代大名には狭い領地と低い石高を与えていました。
外様大名が財力は持っていても政治的な権力を持つことを阻止する一方で政治的な権力を持つ譜代大名には乏しい財力しか認めないという制度でした。
幕府内の組織では南北江戸町奉行のように同じ権力を持つ人を複数任命する組織形態を採って権力が集中しないようにしていました。
現在で言えば二重行政ということで極めて無駄が多い行政機構ですが敢えてこのような制度を設けていました。
例外が将軍ですが、これも権力を行使するためには複数の人で構成される老中による同意が必要でした。
時には必要に応じて大老という最高権力者も設けていました。
町人階級や百姓階級を政治に関与させない一方で武士階級の人間が農耕や商業などの職業に従事することを禁止していました。
更に身分や階級に応じて町人には町役人百姓には村役人という自治組織を設けていました。
幕府は現在で言う民政に関してはこの自治組織に一任していました。
租税である年貢も村落単位でした。
この村落単位の年貢を村落内のだれが負担するのかは村役人に一任していました
武士階級の人間が町人や百姓の民政には口出しができないようにしていました。

このように権威と政治権力、財力を完全に分離した制度は世界史上も日本固有のものでした。
結果的に歴史学の分野でも中世と近代の間に近世という時代区分を設けているのは日本史だけです。

蛇足
身分制度は明治政府も引き継いでいました。
江戸時代とは呼称が違っていただけです。
大日本帝国憲法では戸籍上も皇族、貴族(侯伯爵)士族、平民、新平民などが残っていました。
法文上身分制度が撤廃されたのは敗戦後に定められた日本国憲法が施行された以降のことです。

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