織田信長ガイド!「魅力・功績」「なぜ魔王と呼ばれた?」「信長が日本から宗教戦争をなくした?」

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はじめに

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    今日は織田信長、命拾いの日。
    1557年11月2日、織田信長の弟・信行が信長の暗殺を計画し、生母まで信行の側についていました。しかし、事前にこれを察知した信長が信行を返り討ちにし、織田家の跡継ぎとしての地位を磐石のものとしました。

  織田信長QA

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織田信長の人物的な魅力や歴史的な功績はどんなものがありますか?

雨鉄砲を開発したのは信長です
それまで雨では使い物にならなかった鉄砲を改良し 雨でも使えるようにした
それによって鉄砲の使い勝手が飛躍的に向上しました
これは現在の鉄砲やピストルの技術にも応用されています

織田信長の戦術面で傑出したことは,1575年の長篠の戦いにおいて,鉄砲を大量(1000丁?3000丁?)に生産して実戦使用したことです。

鉄砲伝来は1543年とされますので,30余年の開きしかありません。かつ,伝来した鉄砲の構造を調べて,刀鍛冶が「国産」してしまった。ふつうなら外国から輸入して金(きん)が国外流出するところです。当時の日本の軍事力は,ヨーロッパ人をして「この連中にけんかを売るのはやばい」と思わせるだけの水準がありました。「劣った有色人種」がこれだけのことをしたのは,世界史上も希有なことです。

信長は「南蛮かぶれ」だったと伝えられますが,軍事的侵略をあきらめたヨーロッパ人の「文化的侵略」にうかうかとだまされ,国を売りかねない危険性があったと思います。その後のキリスト教禁教や,オランダとしかつきあわなかったことは,正しい政策でした。

不完全ながら兵農分離、常備軍を目指した事でしょう。足軽は農民が領主の求めに応じて召集されましたので、農繁期には収穫に影響がでたりしましたが、出来るだけ専業軍人化しようとしたのは当時としては画期的な考えでした。
古い権威(秩序)の否定。当時の寺社は信仰という権威で武力も持っていたのですが、真っ向から否定しました。当然形骸化した足利幕府などは気にもとめなかったと思います。上杉謙信も武田信玄もさすがにそこまでの考えに至らなかった。
人物的な魅力としては躊躇してしまう殻を破る事を簡単にしてのけること。おごりとは違った感じ。休みなく他人や自分と競争し続け、時には時間との競争や自分の運命にさえ挑戦し慢性的に闘争的な反応を続ける印象。心理学的に人格障害A型行動パターンの典型に見えるがどうしても人に裏切られる不安にかなりの恐怖を感じるので信じない様な線の細い青年にも見える点も魅力。

織田信長の功績は数々ありますが、

(1) 鉄砲を武器として実用化し、戦術面で大きく発展させている。
(2) 15世紀に始まった応仁の乱で乱れに乱れた戦国の世に天下平定の道筋を開いた。
(3) 当時渡来してい来たキリスト教宣教師とも交流を持ち、広く世界の情報に接していた。
(4) 未だ尾張の小大名に過ぎなかった頃より、大阪の堺に頻繁に足を運び、重商主義の可能性の大きさに着目、市場経済性にも目が開かれ、すぐれた指導者だった。

(1) 鉄砲を武器として実用化し、戦術面で大きく発展させている。
1543年、九州の種子島に漂着したポルトガルの商人が齎した二丁の鉄砲でしたが、薩摩藩より本土に伝えられ、 大阪の堺で分業制により大量生産が始まります。 戦乱の世、実力主義で淘汰され、戦国大名が台頭する時代に鉄砲は格好の武器となります。  

信長は尾張の熱田港を発展させ、堺-熱田のホットラインを築きます。 鉄砲戦術の名手と目されていた雑賀衆(さいかしゅう)とも早いうちから接触。 彼らの編み出した少数部隊によるゲリラ戦法にも精通し、採用にも積極的でした。 戦乱の世を平定させ、天下布武を実現させるのは鉄砲だと見抜いていたのです。 時代を見抜く洞察力。 織田一門には他の戦国大名にない優れた洞察力が備わっていたのです。 

(2) 15世紀に始まった応仁の乱で乱れに乱れた戦国の世に天下平定の道筋を開いた。
若いうちから『天下布武』を標ぼうし、宣言してもいます。 天下を治めるにはライバルたちを倒さなければなりません。 そのためには経済を発展させ、軍事費用を捻出する手腕が不可欠。 そのための人材も育成し、 日本国統一の道筋を開きます。 先ず、副将軍で関東管領だった上杉謙信とも親交を深め、明智光秀を通して足利義昭を迎え、上洛。 室町幕府を再興し、その後、義昭を失脚させています。 この次は自分が将軍の座に就くのだと予告編を天下に示したのです。

天下統一後の新しい日本の未来像にもビジョンを見せています。 今は跡形もありませんが、安土桃山城には新時代のイメージが満載されています。 彼が統一していたら、南蛮貿易だけでなく、蝦夷、樺太、千島列島まで海洋交易ルートの開発をしていたに違いありません。 彼は船乗りでもある雑賀衆の起用も上手でした。 この雑賀衆は秀吉に疎まれ日本の歴史から姿を消してしまいます。 信長が生きていたら、雑賀の時代になっていたと思われます。 

(3) 当時渡来してい来たキリスト教宣教師とも交流を持ち、広く世界の情報に接していた。
マントを羽織り、ブーツを履いた信長像を見たことがあります。 広く宣教師たちとも交流。 知識習得にも熱意があったと宣教師たちも本国への通信で報告。 彼の世界観は他の戦国大名とは一味も二味も違っていた。 当時、ヨーロッパは国の垣根を越えて広く交易し、富を蓄えて実力を伸ばす。 その広大な世界観に共鳴していたと思われます。

その世界観と相入れない石山本願寺を総とする仏教勢力でした。 元々、織田一門は福井県の織田の庄に端を置く浄土真宗門徒が源になっています。 本願寺が何者かは知り過ぎていたのです。 熟知していたから、滅ぼすのは今しかない。 

その後、信長の野望は秀吉-家康へと伝えられます。 徳川幕府は仏教勢力を手先に五人組制度を敷き、国民を統制して治める方法を取ります。 これが本当に良かったと言えるのかはこれからの歴史が証明することになります。 

(4) 未だ尾張の小大名に過ぎなかった頃より、大阪の堺に頻繁に足を運び、重商主義の可能性の大きさに着目、市場経済性にも目が開かれ、すぐれた指導者だった。

信長と言えば『楽市楽座』 商人たちを積極的に招き入れ、市場経済の導入と発展にこころを砕いた指導者でした。 熱田と言う優れた港があり、交易の重要さに幼くして目覚めていた。 農業より商業の重要性に目覚めた指導者だった。

彼が日本国を統一していたら重商主義は300年早く実現し、日本は早くから海洋国家として発展していた。 その後の指導者の視野の狭さが浮き彫りになるだけに残念でもあります。 

信長

戦国武将として有名な織田信長ですが、なぜ魔王と呼ばれているのでしょうか?

イエスズ会宣教師ルイス・フロイスが日本布教長であったフランシス・ガブリエルに宛てた日本の情勢などを記した書簡の中に

「信玄が遠江と三河に来襲する前に面白いことがありました。信玄が信長に書状をしたためた際に、調子に乗って自分の名をテンダイノザス・シャモン・シンゲン(天台座主沙門信玄)と署名したのです。これに対して信長は、ドイロクテンノ・マオウ・ノブナガ(第六天魔王信長)、つまり仏教に反対する悪魔の王と署名して返しました」

と言う記述があります。

信長が「つい、ノリでそういう署名をしちゃった」のを、ルイス・フロイスが偶然に知って、それを上司に報告しちゃって、報告書簡が現代まで残ってしまって、現代で「信長は魔王」と呼ばれる結果になったのです。

1番さんの回答の他にも
「神を否定する意味で自ら魔王を名乗った」と言う説もあります

信長

信長はよく「で、あるか」と「是非に及ばず」と言っている印象がありますが口癖だったのでしょうか?

そのセリフは反町隆史さんが演じた織田信長ですね。
本来の信長は名古屋弁丸出しでした。
羽柴秀吉も名古屋弁丸出しでした。
しかし明智光秀は美濃の生まれですが、京弁を使っていました。
京弁の美しさに信長は大層明智光秀の事を可愛がっていたそうです。

美濃の斎藤道三との会見の時、道三を紹介された信長は立ったまま柱に寄り掛かって「…であるか」と答えた~と。後の信長家臣であった太田牛一が残した『信長公記』の一節に記されています。

マムシ道三と信長の会見は一つの歴史の有名事件ですので。今のところ唯一と言って良い信長に関する歴史書である『信長公記』の記述を頼りに、後の歴史作家たちが書き表した会見場面を、さらに映画やドラマ化する際に一つのキャラ付けとして誇張して使ってるのだと思います。

その後の『信長公記』記述や、他の書簡(手紙)などに、特に信長が「であるか」と言う口癖があった様にはことさら記述が無いので。たまに言う事はあったけど、口癖というほどでは無かったと思われます。

またポルトガル人宣教師のルイス・フロイスの書簡に由れば。信長は日頃から言葉を良く省略して短く言う癖があったと記されています。「であるか」は正式には「そうであるか(分った)」という事になります。

もう一つの「是非に及ばず」若しくは「是非も無し」は、やはり『信長公記』によれば、信長が本能寺で明智光秀の謀反を聞かされた時に言ったとされる言葉です。現代語訳で「仕方が無い」というニュアンスになります。諦めというよりは、じたばたしても仕方が無いのでやるだけやってやれ~的な、どちらかと言うと前向きな意味合いが強いと思われます。

ドラマや小説の影響でしょうか。どちらも『信長公記』の記述に見えますね。
実際のところ、すでに回答にあがっていますが、斎藤道三との会見の時に「こちらが山城殿(斎藤道三)です」と紹介され「であるか」と言ったという記事のみです。それが名シーンとして小説・ドラマで何度も取り上げられたので、大河ドラマ「利家とまつ」の信長のように口癖だと思われるようになったのでしょう。
「是非に及ばず」は、本能寺の変の誰の謀叛か確認したところ、明智勢と聞かされて「是非に及ばず」と言ったものがよく知られていて、これまた小説・ドラマで取り上げられてますので印象が強いものですね。もっとも「是非に及ばず」という言葉は、信長に限らず東西南北いろいろな武将が、当時の史料で使っている事例が山のようにあります。全国的によく使われていた言葉ですから、信長の口癖というわけではないでしょう。

余談ですが、「是非に及ばず」という言葉はいろいろな意味を持っていて、その事例やそれまでの信長の行動から最近は本能寺の「是非に及ばず」も「光秀なら仕方ない」という諦めを表わしたものではなく、「事態は把握した。とりあえず防戦する」という前向きな意味であったと評価が見直されています。藤本正行『本能寺の変』(洋泉社 歴史新書y 2010年)に詳しく書かれていますので、興味があれば一読をお勧めします。

信長

ある歴史学者が「日本に宗教戦争がないのは信長のおかげ」と言っていました。これは本当でしょうか?

信長が一向宗を掃討するまでは、一向宗VS大名、日蓮宗(+細川)VS一向宗、宗教がらみの大きな戦がいくつかありますので、信長のおかげで間違いないと思いますよ。

信長というより島津家ですね。

キリスト教布教団体イエズス会は
九州の大大名・大友氏や有馬氏に取り入って
布教や最新の大砲の融通、アヘンの密売をしていました。
日本を乗っ取ろうとしていたのです。

島津氏が滅ぼしてくれたのと
&徳川氏の鎖国、キリシタン狩りがあったので
清国のように半植民地化されずにすみました。

宗教戦争という概念はキリスト教文化圏であるヨーロッパの歴史で生まれた概念です。
日本ではこの概念に相当する戦争はありませんでした。
このような意味であれば「ある歴史学者」が言っていることは当たっています。
ただし「信長のおかげ」という訳ではありませんのでこの点は承服しかねます。
信長は確かに石山本願寺や加賀の一向宗の集団と戦闘を繰り広げました。
一向宗を信奉する集団からすれば宗教教義の違う信長の軍勢と戦争をしていますので一種の宗教戦争と考えることもできます。
信長の側から見れば一向宗や比叡山延暦寺が持っていた政治的な権力を排除しようとしただけで一向宗や天台宗を潰そうという考えに基づいてやった戦闘ではありませんでした。
特定の宗教を信奉する集団との戦争と言う意味では江戸時代初期の島原の乱も相当します。
このような意味からすれば信長亡き後も起きていますので信長が宗教集団との戦争を終わらせたとは言えません。

ヨーロッパ史での宗教戦争の概念に相当する戦争が無かったのは日本だけではなく中国を含めた東アジア一帯でもありませんでした。
東アジア一帯では常に仏教、儒教、道教などが複合して広まっていたために元来ヨーロッパ史にみられるような宗教戦争が起きる素地がありませんでした。
信長がいてもいなくてもヨーロッパ史でいう宗教戦争は起きなかったと考えられます。
言い換えれば信長のおかげではなくヨーロッパとの文化の違いのおかげです。

日本の一神教って、日蓮宗と浄土真宗がそうですよね。

日蓮宗は「蓮華経」を唯一絶対の経典としてあがめ、
それに従っていないものを排除・・・と言えば聞こえは
いいですけど、要は「殺してしまう」んです。その辺は
「立正安国論」を読めばよく分かるかと。

浄土真宗も「阿弥陀仏」に「絶対他力」で帰依するん
ですから、明らかに一神教です。一向一揆を見れば、
かなりの暴力を伴った宗教であったことは明らかです。

同様に、叡山の天台宗も僧兵が暴れまわっていましたし、
そもそも、荘園などの「既得権益の巣窟」だった面が
あります。中世までの宗教勢力はそういう「既得権」を
保護することを名目にした、戦闘力を伴っていることを
考慮する必要があります。

なので、これらの宗教勢力の「戦闘力」を排除した
信長の功績は大だと思いますよ。

信長は宗教勢力が武力を喪失する過程で重要な働きをした人物と言えます。
最終的に秀吉による、太閤検地と刀狩により財力と武力を失い宗教戦争などということが起こせなくなりますので、教科書には豊臣秀吉の功績として紹介されています。

信長は、比叡山焼き討ちや一向一揆の鎮圧で宗教勢力から武力を奪っていて、秀吉はそれを引き継いで完成させただけと見ることもできます。
ただ、他の戦国大名も同様に宗教勢力から財力と武力を奪っていて、中世の荘園解体の流れに沿った自然な出来事であると考えることもできます。
検地や刀狩を制度化した秀吉の功績と考えるのが一般的なように思えまが、信長のおかげと言えば、そうなのでしょうね。

参考
僧兵 - Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%83%A7%E5%85%B5
検地 - Wikipedia
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%9C%E5%9C%B0

ご存知の様に、日本は(某反日国家と異なって)信条・思想・教育の自由がありますよね。
「国が決めた(国内にでのみ通用する)正しい歴史を、国民・他国民に強制する」事は、ありません。
A博士が「信長のおかげで・・・」
B博士は「信長は無関係で・・・」
どちらも、正しいのです。
が、他にも回答がありますが「日本にも、宗教戦争は存在」しています。
法然の浄土宗は、比叡山延暦寺(天台宗)から、徹底的に攻撃を受けています。
親鸞の浄土真宗も、他宗派から弾圧を受けています。
宗派同士の戦いでなくても、「三河一向一揆」は有名ですよね。
薩摩・島津藩は、(明治維新まで)領内での「一向宗」を禁止している程。
そもそも、信長は「宗教を批判していない」のです。
宗教と言う名をかたった武装集団・お経も理解していない僧侶を排除したに過ぎません。
「比叡山焼き討ち」と言っても、実際は教科書と異なります。
発掘調査・古文書解読では、信長は比叡山全山を焼き討ちにしていません。
まぁ、信長時代の僧侶は堕落していましたからね。
合理主義・完璧主義の信長としては、軍事訓練に力を入れる宗教団体が許せなかったのでしようね。
まぁ、歴史は「勝者がつくる」ものです。
正しい歴史は、誰にも分かりません。
質問者さまも、自由に考えた方が面白いですよ。^^;
余談ですが・・・。
安土城が完成した時、信長は「入場料を徴収」して領民の見学を許しています。
こんな事は、教科書には載っていませんよね。

まとめ

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