松尾芭蕉ガイド!「わびさびとは?」「元は建設業だった?」「なぜ「池」ではなく「古池」だった?」

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はじめに

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10月12日は俳人・松尾芭蕉(まつおばしょう)の命日。1694年のこの日、50歳で亡くなりました。しかし、芭蕉が残した多くの名句は今も人々を楽しませています。

辞世の句は「旅に病んで夢は枯野をかけ巡る」。

松尾芭蕉QA

https://okwave.jp/searchkeyword?word=%E6%9D%BE%E5%B0%BE%E8%8A%AD%E8%95%89

松尾芭蕉について調べています。 するとどこのサイトを見ても芭蕉はわびさびを重んじ俳句を作ったと書いてあるがわびさびが何なのかが書いてありません。わびさび、とは何ですか?

世の人の見附けぬ花や軒の栗
夏草や兵どもが夢の跡
この道や行く人なしに秋の暮れ

僕の好きな芭蕉の句を三つほど例示してみました。

芭蕉の思いがある程度理解できれば、「わび・さび」の概念が少しはつかめるかもしれません。

あなたなりに、鑑賞してみてください。

わびさび、というのは「侘びし、寂し」のことではないかな。そう聞いたことがある気がする、という極めて曖昧な話ですが。

見渡せば花も紅葉も無かりけり 浦の苫屋の秋の夕暮(藤原定家)なんかを千利休は本意とした、何て話も聞いたことが・・・(岡倉覚三(天心)『茶の本』)。定家、あるいはその一世代前の西行あたりから始まる日本中世美が、「わびさび」の源流ではないかしらん。

現代語で「これだ!」って説明は難しいのですよね、こういう感性に訴えかける美学って。あえて言うなら、欠如の美学・・・ちょっと違うな。絢爛豪華な彩りがそこに存在しない、という発見を美とする感覚、というか。

松尾芭蕉は、詩人になる前は建設業だったのでしょうか? 工事に携わったという記述を読みました

幕府の役人で土木工事を担当する役職だったらしい と言う説はあります
しかし芭蕉は実は謎の人物なのです

・単なる浮浪者(但し俳句が抜群に上手かったので行く先々で施しを受けられた)
・公儀隠密(幕府のスパイとして諸国を放浪していた)
・架空の人物
・水戸光圀と混同説

など色んな説があるのです

松尾芭蕉は詩人ではなく俳諧師です。(まあ、俳諧師が詠む連歌や俳句も詩の一形式ではありますから、詩人の一種と言えない事もありませんが、一般的な意味での詩を嗜む人とは異なります)
 松尾芭蕉が生まれた家は平氏の末流を名乗ってはいたものの農民でした。
 但し、苗字・帯刀は許されていたそうですので、階級だけは武士に準じる待遇の農民といったところでしょうか。
 つまり、松尾芭蕉は最初は農民でした。
 そして、数えで19歳の時になると、伊賀国上野の城代付の侍大将の藤堂新七郎良清の養子で、俳人でもあった良忠(俳号は蝉吟)に料理人として仕える様になったという事です。
 その後、主の良忠が師事していた京都にいた北村季吟の門下に入り、俳諧の道に進んだのだそうです。

私は、自称「歴史作家」です。

まずは、あなたへの回答から先に述べますと、「土木工事」の知識はあったようです。

芭蕉のことはすでにWikiなどでお読みになったとは思いますが、私の知る範囲で付け加えてみましょう。
★寛永21年(正保元年・1644)伊賀国に生まれました。
父は松尾与左衛門。伊賀国を治める藤堂家に仕える武士の身分ではあったが、身分が軽く、生計は主に野良仕事(百姓)で、いわゆる、没落武士でした。しかし、一応は武士の身分でしたので、「松尾」の姓を名乗ることができたのです。
母は伊賀流忍者の祖と言われる伊賀の豪族「百地」(ももち)氏一族の娘。
こうした血筋から生まれたため、また、生まれた土地柄から、芭蕉は後に「隠密」ではないか?と言われるようになりました。

★芭蕉(宗房)には「半左衛門」という兄がいました。
次男でしたので、家を継ぐわけもなく、17歳の時、父の「つて」で津藩伊賀付侍大将であった藤堂良精(よしきよ)家の嫡男「良忠」(よしただ)の世話掛りとして奉公に出されました。しかし、現実的には料理人のような仕事や小間使いでした。

★藤堂良忠は多少なりとも文才があり、京都の俳諧師である貞門派・北村季吟(きぎん)に師事していました。
それにより、宗房も共に俳句を学ぶようになり、次第にその才能を開花させていきました。
"春やこし 年や行けん 小晦日(こつごもり)"
19歳の時初めて詠んだ句です。
藤堂家の嫡男良忠に仕えていれば、いずれは出世の道も開ける。と考えていました。

★ところが、宗房23歳の時に、主人の良忠が急死してしまったのです。
しかたなく、実家に帰り、両親や兄と共に野良仕事などをしていましたが、
==どうも仕事が合わない==
と考えるようになり、思い切って兄の半左衛門に話したところ、
「好きなようにしてもいいよ」
と優しく言われ、寛文12年(1672)29歳で江戸へ出てきました。

★日本橋に住まいを借りて、亡き主人であった良忠が師事していた北村季吟などの人脈で、盛んに句会などに参加をし、宗房自身も人脈を広げていき34歳で「宗匠」にまで登り詰めました。

★宗匠としての仕事は、句会、門人、弟子などの句を添削して、わずかな銭を貰うくらいで、到底、生活は成り立ちませんでした。

★そんな折、人脈により、神田上水懸桶(かけひ=現代で言えば、水道管の架け替え)工事の現場監督の仕事が舞い込んだのです。
人脈の中には町人だけではなく、御家人、旗本などもおり、大きく言えば「幕府」との接点もできていたのです。
では、どこでそのような知識を身に着けたのでしょうか。

★実は、宗房が仕えていた藤堂家は、戦国時代、城造りの名手と言われた藤堂高虎の家柄だったのです。
おそらく、藤堂家でも嫡男良忠へそうした城造り、土木工事などの技術や手法が教えられたと思いますが、その時、主人と一緒になって宗房もそうした知識を身に着けていったと考えられます。

★こうした知識を買われ、また、幕府とのつながりにより、神田上水懸桶工事の現場監督。そして、江戸の街もまだまだ開発途上でしたので、そうした土木工事の責任者などとヘッドハンティングされていったのです。

★延宝8年(1680)、宗房は日本橋から深川へ移り住みました。6畳1間という狭い小屋のような家でしたが、その庭に「芭蕉の木」が1本あり、枝振りが良かったため宗房は自分の住まいを「芭蕉庵」と名付け、そして、自らも「芭蕉」と名乗るようになったのです。
芭蕉は、この引っ越しに際して弟子に、
「江戸の街の喧騒に疲れたからだ」
と、言ったといわれています。

★46歳で、江戸から旅立ち「奥の細道紀行」が始まったのです。
「人生わずか50年」と言われた頃でしたので、随分と年齢がいってからの旅だったと言わなければなりません。
旅立ちに当たっては、門人、弟子からの「餞別」が届き、そして、伊賀に住む兄の半左衛門からも「餞別」が届いたとのこと。
芭蕉は兄に感謝の便りを送りました。

松尾芭蕉の有名な俳句、 『古池や 蛙飛び込む 水の音』ありますよね。 この意味って何ですか? カエルの鳴き声に焦点を当てるのでなく、 カエルが飛びこんだ時の水の音を感じているだけなのですか? なぜ、「池」でなく「古池」にしたのか教えてください

山間にある池。
長い間、人なども寄り付かないようで淵には雑草が生い茂り、表面は淀んで侘しい日の光が微かに射し込んでいる、周囲の景色と共に古びた感じがする池。
というような状況設定が、「古池」で表わされているということになるように思います。
表現されているのは静寂でしょう。

そこに蛙が一匹飛び込み、ポッチャン というようなはかない音を立てる。
音らしい音と言えばそれだけで、余韻を引くその音が消えた後には再びの静寂。
音の後だけになお一層その後の静寂が身に沁みて感じられる。

といったような印象を受けます。

という音感を強調するために、静寂の中で、一つの音を味わうために。
1:池より 古池とした方が、静寂になる。池では生活臭がして、それに伴う音をイメージさせてしまうが、古池というと、人も訪れない場所というイメージがされる。
2:飛び込む音として、鳴き声にしなかったのは、鳴き声では続く感じがする。また、鳴き返す可能性があるが、飛び込む音であれば、「ちゃぽん」の一音のみ。

そんな情感を伝えたかったのではないでしょうか?
鑑賞ですから、私はそう感じた。

面白い質問ですね。^^
昔、「静けさや 岩に染み入る せみの声」のセミの種類は何か?
という話をどこかで読んだことがありました。私は、ヒグラシのイメージだったんですが、どうやら、ヒグラシでは岩に染み入るのではなく、はじけるような声なので駄目だということでした。

さて、幾つか調べたところによりますと、松尾芭蕉は、まず、「蛙飛び込む 水の音」を先に作ったそうです。そして、弟子の宝井其角に聞いたところ、「山吹や」がいいのではないかと答えたそうですが、芭蕉は受け入れず、「古池や」にしたそうです。
では、なぜ、「池」でなく「古池」にしたのか、ということですが、こちらに詳しく書いてありました。
http://www66.tok2.com/home2/yahantei/kawazuawase.htm

ここも参考になりそうなのですが、「山吹や」と「古池や」のところの説明が芭蕉と其角が逆になっているんです。
http://www.01.246.ne.jp/~yo-fuse/bungaku/edohaiku/edohaiku.html

どちらが正しいかはわかりませんが、ここを読むと、句風から考えると、其角が「山吹や」のような視覚的な効果を利用するらしいです。
http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/haikusyu/huruike.htm

「古池」=死んだように静まりかえった池。
♯3さんのおっしゃる様に「山吹」提案説もあります。
「山吹といふ五文字は風流にしてはなやかなれど、古池といふ五文字は質素にして実也」の注釈されています。
「静けさや 岩に染み入る せみの声」のセミの種類は何か?
芭蕉が立石寺に立ち寄ったのは5月27日。新暦の7月20日ころに山寺付近で聞かれるセミの種類はニイニイゼミでけであることが分かっています。

芭蕉の俳句に「松島や ああ松島や 松島や」という句があったと思うのですが、この俳句の出典がわかる方はいらっしゃいませんでしょうか。 いらっしゃれば、ぜひ、教えていただきたいと思います

松尾芭蕉が『奥の細道』で松島を訪れた際に、あまりに絶景なので句が浮かばず、「松島やああ松島や松島や」と詠んだという逸話があるが、この川柳は後世の狂歌師田原坊の作で、芭蕉の作ではないとされる。ただし、実際にあまりに絶景で、その場で句が思い浮かばなかったのは事実らしく、『奥の細道』には、同行した弟子の曾良の句が掲載されている。また別の説では、句は詠んだが景色に釣り合うよいものができなかったともいう。

とのことです。 それでは

まとめ

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