源頼朝ガイド!「結局は北条氏の操り人形だった?」「島流しの身で、なぜ挙兵できた?」

  • ガイド ( How to )
  • 閲覧数:1687
  • ありがとう数:0

はじめに

Photo by photo AC

8月17日は源頼朝、挙兵の日。1180年のこの日、源頼朝が伊豆で挙兵し、源氏再興への戦いが始まりました。

源頼朝って弟殺しでイメージが悪いですが、何か功績はあるのでしょうか? また、冷酷な人物だったのでしょうか?

ざっくり説明すると、
平氏を滅亡させ(源平合戦や壇ノ浦の戦いが有名)、
征夷大将軍となり鎌倉幕府を開府しました。
弟は有名な義経です。
正室は、女将軍といわれた北条政子です。

頼朝自身は実は義経のことをよく知らなかったのです。第一母親が違う。頼朝自身が3男であることは有名ですが、彼の母親が一番、身分が高かったようです。
つまり、彼は源氏の棟梁であるから、義経は弟であっても彼の部下であるべきなのです。そのルールを破った以上、出来上がったばかりの幕府体制が壊れてしまう。だから、殺したというしかないですね。
700年間も以後続く、武家政権を作りました。これは承久の乱以降、院政を含む朝廷勢力を退け、源家将軍以降の執権政治体制で、日本の完全支配が完成するまで、完全なものではありませんでしたが…
源頼朝
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D


源義経
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%BE%A9%E7%B5%8C

坂東武者をまとめあげ、日本全国の支配権を得、京から離れた場所で武士政権を作りあげた功績があります。

冷酷というより小心というか・・・

冷酷はどちらかと言うと舅の北条時政の方かと。
頼朝は舅の言いなりまではいかないけど、結局操られていた様な部分がありますね。。。


最近の歴史研究ではあまり鎌倉の公式歴史書である吾妻鏡の記述はアテにならないそうで・・・
頼朝より北条氏ヨイショに書かれています。

頼朝と義経などの弟との関係も実はそんなに悪くはなくて、義経の無断任官事件は捏造だったとか。
また頼朝自身は後継者に義経を考えていたそうですが、時政が外孫である頼家を後継者にし鎌倉での発言権を強めたいがために義経排除の動きをしたそうです。

平家のは武士政権ではないのか?と疑問に思うでしょうが、平家のはどちらかと言うと公家や皇室との婚姻関係でのし上がってきた貴族政権と考えられます。

鎌倉の方は義経の失脚を利用して全国掌握と反鎌倉の貴族を関白諸共一掃しちゃいます。
そこが凄いところですね。。。

一説には、単なる北条氏の「あやつり人形」だったという説もありますが、日本史の「通説」においては、彼自身に対してどのような評価がなされているのでしょうか。 「鎌倉(北条)幕府」政権事態は、それまで省みられなっかった「庶民」に対しても、ある程度目を向ける体制になった点で評価はしているのですが。

通説はどうかは分かりませんが、一説では、北条氏からいろいろは言われながらも政治の中心を自分で最後までやりきったとなっています。
その証拠として頼朝は暗殺されずにその後の頼朝の子供の将軍達は暗殺されました。

操り人形説ですが、関東を制圧したころから、頼朝のもとには多くの御家人が集まっています。そのころになると、北条氏の力より頼朝の力のほうが優越し、操り人形ではなくなったのではないでしょうか?そのご武家政権としての政治機構を着々と作っていったわけですが、侍所、問注所、公文所といった諸機関を作り北条氏でない御家人を長官に任命していったところを見ると、北条氏の操り人形どころか、北条氏の専横を防ぐような体制を着々と作っているように見えます。
 
 頼朝の評価といった点ですが、それまで曖昧だった在地武士の統治体制を、きちんと政権組織としての統治機構を作り上げ、その後の武家政権による支配の礎を作ったわけですから、その政治力は卓越したものがあると思います。また源氏は幕府を北条氏にのっとられるわけですが、そもそも頼朝固有の戦力や、代々の直臣や信頼できる一族郎党がいない状態からのスタートなので、個人的には彼の行動がベストであり、また限界でもあったのだと思います。

まず、鎌倉幕府ですが、頼朝は当初東国に幕府を作る気はありませんでした。
と、いうのも頼朝の目的はあくまでも中央政府、つまり京都内での地位を高めることにあったからです。
しかし、傘下にあったのは東国の武士だったので彼らの意向を無視しては自らが滅びかねませんでした。
そこで、仕方なく作ったのが鎌倉幕府だったのです。

因みに東国武士の目的ですが、自分たちの土地が中央(平家)に搾取されていた事に対する不満から、中央から独立することでした。そこで、当初は罪人として流刑にあった源頼朝の元に集ったわけです。
つまり、父の汚名をそそぎ平家に立ち向かうための兵力がほしかった頼朝と、自分たちの独立を守りたい東国武士との間で利害が一致したわけです。
故に、この利害を無視して頼朝が京都に行くことは出来なかったわけです。

「北条氏の操り人形」だったというよりは、「東国の武士の意向を無視できなかった」というのが昨今主流になりつつある説なようです。

鎌倉幕府成立以前は、「利害」のため頼朝と東国武士の立場はあくまでも「対等」でした。
そして、「東国武士」たちは「独立国としての鎌倉」を望んでいました。
しかし、頼朝は「朝廷国家内での鎌倉幕府」という位置づけに持って行きました。と、いうのも頼朝の目的が「朝廷国家内での地位の向上」にあったからです。
そして、「朝廷国家内での地位の向上」を目指すには東国武士の暴走はなんとしても阻止しなければなりませんでした。
そこで、「論功行賞」を行い敵方(平家勢力)から奪取した土地を与え東国武士を手なづけていきました。
そして、平家打倒後に「父・義朝」の名誉回復を行い、また「奥州合戦」を「前九年の役」の再現として行い源氏の後継者であることを内外に印象づけていきました。

ここにいたって、「鎌倉幕府内での頼朝」の地位は揺るぎないモノになっていきました。
このときの北条氏ですが、頼朝と北条政子とが婚姻していたので「血の繋がり」で他の武家よりは有利な立場を得ていました。
頼朝の死後も、この「血の繋がり」を利用して幕府内での有利を保っていきました。
その事は、「承久の乱」の時、京方の挙兵に動揺する御家人を前に、頼朝以来の恩を説いた事で、いかに「源氏」の威光を利用してたかが分かります。

頼朝個人の評価についてですが、「平家政権と後白河法皇の争い」という機会を利用して名誉回復を図り、またその後に「東国武士の暴走」を抑えつつ、「鎌倉幕府を朝廷勢力に組み込むように持って行った政治力は流石というべきでしょう。

頼朝が挙兵した時に頼朝が兵を引き連れていますが、所領もないの頼朝がどうして兵を持っているのですか?

一番最初の兵は北条氏の兵ですよ。
政子と婚姻しましたからね。

ただ頼朝は源氏の御曹司ですからね、ひとたび挙兵すると反(京都)平氏・反体制派の関東の武士団が続々と頼朝の元に集まってきたんです。

「頼朝が兵を率いて挙兵した」のでは無く「頼朝は兵達に頭領として担ぎ出された」と言うのが正しいからです

前者の場合は確かに自分で兵隊を調達する必要があるので
配流中の頼朝にはほぼ不可能です
しかし兵隊達が数百人の仲間を引き連れて頼朝の所に集まり、頼朝を大将に挙兵させれば
兵は最初から集まっているので頼朝は兵を持って挙兵出来ます
実際はそういう事です

頼朝が挙兵したとされていることから、頼朝傘下の家臣団が挙兵したような印象を受けますが、実際は伊勢平氏に反感を持つ関東の平氏や源氏の不満分子の集団です。
この連中が三々五々自分の領地の兵を連れて出来上がった兵団でした。
伯父の行家がもたらした以仁王の令旨が切っ掛けとされていますが、令旨を受け取った時点では動く気はありませんでした。
行家も届けただけで特に説得などはせずに直ぐに立ち去っています。
頼朝は清和源氏の直系でしたので、不満分子の集団にとっては格好の旗頭だっただけです。
この連中に説得されてその気になったということです。
以仁王の令旨が説得には好都合でした。
完全にその気になったのは安房へ逃れた以降のことです。
負けて散々な目に会って頭へきたというところでしょう。

蛇足
頼朝の挙兵以来壇ノ浦の戦いまでの一連の戦を源平合戦と平家対源氏の氏族間の争いのような印象を受けますが、内実は坂東兵士と伊勢平氏との争いです。

平家物語などの影響で平氏は西国、源氏は東国という印象を受けますが、発祥は逆です。
平氏の発祥は上総で武家源氏の発祥は摂津です。
京都で繁栄を謳歌したのは坂東平氏から分かれた伊勢平氏です。
清盛以下伊勢平氏は坂東平氏には冷淡でした。
坂東平氏は都での繁栄に取り残された状態でした。
これが源平合戦の最大の原因です
坂東平氏だけで挙兵したのでは一族の内紛ですが、頼朝を担ぎ出すことで大義名分が立ち、なおかつ都で不遇をかこっていた源氏も引き入れることができます。

当時は領地名を名乗りとして後に苗字としていましたので分かり難いかと思います。
下総で頼朝が軍勢を整えることが出来たのも平良文の末裔である千葉常胤が参陣したことによって可能となったものです。
この千葉氏や北条氏をはじめ和田、三浦、梶原など初期鎌倉幕府の重臣は大半が平氏一族の末裔です。
頼朝がウッカリ鎌倉を動くことができなかったのも幕府が平氏一族によって固められていたためだとされています。
頼朝もいろいろな経緯から義経をはじめ木曾義仲など源氏の血族を抹殺していまっていたことも災いしました。
このような史実から頼朝は極めて猜疑心の強い人物だったという説もあります

関連するタグ

特集


感謝指数をマイページで確認!

ピックアップ

ページ先頭へ