伊達政宗ガイド!「武将としてどのくらい強かった?」「もっと早く生まれていたら歴史は変わった?」

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はじめに

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8月3日は独眼竜といわれた戦国武将・伊達政宗の生誕日。

幼少のころに片目を失い、実母に暗殺されそうになるといった逆境を乗り越えて伊達家を継ぎ、名将・名君として名を挙げました。

伊達政宗の功績

・5年ほどで南奥州を制覇
・秀吉は伊達家をつぶそうとしたが、うまく立ち回って家を残した
・徳川家を支える名家としての基礎をつくった

やっぱりあの眼帯みたいなやつですかね
あれはカッコつけてるんだ って人がいますが
疱瘡で目を失ったから付けてるわけですね

功績は存在そのものですかね?
特に関ヶ原の時
政宗が仙台に居たから上杉と佐竹は関東から動けなかった
もし 政宗が居なかったら 前述の2人は関ヶ原に馳せ参じて戦いの結果は変わってたかも知れません

政宗ってどのくらい強かったんでしょうか?

天下統一をしたからと言って必ずしも強かったと言われないことが多々あります。伊達政宗が有名なのは東北地方においてもっとも勢力を持ったことに由来します。そして、その最たる例が「人取橋の戦い」にあります。伊達氏は芦名・佐竹・相馬・二階堂の連合軍と東北の支配権をかけて、東北の覇者を決めるといった東北の関が原の戦いのような戦を行います。このとき、伊達8000(8千)に対し敵の連合軍は30000(3万)でした。しかし、政宗は、この激戦を制し、東北の覇者となりその名を残しました。このことからいっても伊達政宗という人物がいかに強かったということがわかるのではないでしょうか。

伊達政宗はもちろん強いです。
どのくらい強いかという質問の直接の答えにはなりませんが、ではなぜ、その強い正宗が天下人になれなかったのかについての答えではいかがでしょう?

政宗が伊達家の頭領となったのは十八歳のときです。
この頃、中央では秀吉が柴田勝家を賤ヶ岳に破り、日本で覇権を確立していました。つまり、すでに戦国の動乱はほぼ沈静化し、全国統一に向かって歩みを始めたところでした。
政宗にとってこれが最大の不運であったと思います。
奥羽(東北地方)はまだ動乱期の只中であったので、この地方だけで考えるならそこの王者になることも、政宗の能力からすれば可能だったでしょう。しかし日本人は古来より、日本国内にそのような完全独立国を認めるほど寛容ではありません。かつて平将門の立てた東国独立国家も、平泉の藤原秀衡らの奥州国家も、共に中央政権によって攻め滅ぼされています。
伊達家を継いだ政宗が、畠山氏、二階堂氏らを倒し、芦名氏や佐竹氏を圧し、大崎氏を攻め、相馬氏の領内に押し出すというように、激しく領地を拡大し、勢力を伸ばし始めると、全国平定を進める秀吉はさっそく奥羽地方の「惣無事令」を発し、政宗らのこれ以上の戦闘を禁止することによって、彼の出鼻をくじきました。

しかしまだまだ動乱の地にあって、戦いに明け暮れていた政宗ら奥羽地方の大名たちにとっては、中央での秀吉の覇権確立の動きは、情報として伝わってはいましたが、その実態は実感として理解できるほどではなかったようです。したがって、まもなく秀吉が小田原征伐の兵を起こし、奥羽の諸大名に参陣を命じたときなども、秀吉の力を侮り、命に服しない小大名たちがかなりおり、彼らはみなその後、領地を没収されて取り潰しにあっています。
この時は、政宗もしばらく戦況をうかがっていたようですが、秀吉ならびに秀吉政権の強大さが次々と伝わってくるに及んで、目を開かれた政宗は、すぐさま小田原に急行しました。そこで政宗が見たものは、20万人以上の大軍団と、居並ぶ諸大名を従えて君臨する秀吉の姿でした。
もはや秀吉の力には抗すべきもなしと覚った政宗は、以後、隠忍自重の生活に入ります。とはいっても、本当におとなしくなったのではありません。戦国の世に育った政宗には、とてもこのまま戦乱が収まり、安定してしまうなどとは思えなかったのでしょう。とてつもない強大な奴が現れたから、ひとまずここは恭順の意を表したが、いずれチャンスがあれば・・・・、という気持ちだったろうと思われます。
 だから、大崎、葛西地区に一揆が起これば、ひそかにこれをバックアップしたり、周辺の小大名と小競り合いをしたりと、じっとしてはいませんでした。
しかし、このような政宗の動きは、いずれも秀吉の知るところとなり、何度か伊達家滅亡の危機にさらされました。しかし、政宗も才気煥発、たとえば白装束、つまり死に装束に金張りのはりつけ柱を押し立てて、詫びるために秀吉の前に乗り込むなど、豪傑好みの秀吉の性格をたくみに突いだ演出で何とか難を逃れたのは有名な話ですね。
正宗の機知を称える話ではありますが、政宗はこんな演技までしなければならない我が身の不運をおそらく嘆いていたのではないでしょうか。あと20年早く生まれていれば天下を取れたという悔しさでいっぱいだったかもしれません。

五月人形はなぜ政宗が多い?

端午の節句で鎧兜を飾るのは、子供に災いがふりかからず、逞しく成長するようにとの願いを込めて飾られます。
鎧兜も本来の武具としての意味ではなく、美意識をもった衣装として捉えられており、伊達政宗は「伊達男」の語源にもなった、美々しい衣装感覚で知られる上に、出世して長寿を保ちましたから、それにあやかると言うことで人気があります。
徳川家康は源義経など、他の武将のモデルもありますよ。

政宗が10~15年早く生まれていたら戦国の歴史は変わっていた?

まぁ奥州を統一するぐらいは出来てたと思います
運が良ければ関東も手に入れてたでしょうね

秀吉さんの家来が信長さんの家来になるだけかなあ?領土は広いけど、結局、信長がそんなに領土を保持させてくれるわけはないと思うので、おそらく、転封は確実ですね。おそらく、同じように欧州の奥の方へ追いやられていたでしょう。

10~15年早く生まれたと仮定すると、政宗の初陣が天正9年になるので、元亀2年から永禄9年くらいに初陣になるということになります。
で、政宗の父である輝宗が家督を相続したのが永禄7年ですから、ほぼ輝宗の治世とかぶることとなります。

この当時の伊達家が置かれた状況がどのようなものであったのかというと、まず輝宗が家督を相続した後に真っ先に取り掛かったのが家中の権力の掌握でした。当時の伊達家は中野宗時・牧野久仲親子が実権を握る下剋上の状態で、輝宗は中野宗時に謀反の疑いありということで中野親子を追放し権力の掌握に成功しています。政宗も同じ立場であれば同じことをしたでしょう。
当時の伊達家を取り巻く環境を見ると、まず越後にはあの上杉謙信が存命です。蘆名はどうかというと、永禄から天正8年までは蘆名盛氏の治世で、この時期は会津蘆名氏の最盛期です。当時の伊達家は蘆名より勢力が小さいですから、まともに対抗はできません。また相馬氏には相当に手こずらされています。
政宗だけ早く生ませると、戦さの猛者の伊達成実と、知恵者の片倉景綱はいないことになるので、人取橋の合戦で猛烈な戦死を遂げた鬼庭左月を抜擢したことは変わりなかったでしょう。

結局、蘆名家が弱体化しないと伊達家の飛躍もなかったわけですし、輝宗が愚将であったのかというとそんなことはなかったと思うので、どのみちあまり変わらなかったのではないかなと思います。
戦国合戦の武将としての伊達政宗の絶頂期は摺上原の合戦だったと思いますが、このとき政宗は23歳です。10~15年足しても33~38歳なので、そんなに変わらないですよね。輝宗の治世が政宗に変わっただけだったのではないでしょうか。

伊達政宗の辞世の句の意味 わかる方いましたら教えてください 「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」 曇りのない自分の心を道しるべに 闇を進んでゆく そのままですがこんな感じなのでしょうか?

自分を信じて生きて来た一生だったが
 1.最終的には満足している。
 2.思う存分生きたので悔いはない。
 3.満足は出来ないがまあこんなものか。
 4.悔いの多い人生だった。
2の心境でしょう。
政宗の性格からすると、本心は4かも知れませんが、戦国武将の辞世には強気のものが多いようです。
この歌からは4は感じられません。

何も見えない真っ暗闇の中で、
月の光を頼りに道を進むように、
戦国の先の見えない時代の趨勢を
自分が信じた道を頼りに
ただひたすら歩いてきた一生であったなあ。



http://www.geocities.jp/hagimanjuu/masamune.htm
「辞世の句・言葉集」より

まとめ

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