新撰組副長「土方歳三」特集!「剣の実力は何番目?」「一番、活躍した戦い」「なぜ人気がある?」

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はじめに

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5月11日は新撰組副長・土方歳三の命日。近藤、沖田らと別れても新撰組として戦い続け、最後は北海道の五稜郭で奮戦し、命を落としました。

土方の剣術は新撰組の中ではどのくらいの強さだった?

隊士で生き残った人の語ったところによると、沖田、永倉、斉藤がトップ3だったそうです。また、二刀流の服部という隊士もめっぽう強く、服部が一番という説もあります。

そういうところを考えるとトップ5~10位あたりの強さだったかと思われます。

剣術の強さはそれほどでもなかったようです。
ただ、砂目潰しをしたり、羽織で絞め殺すなど、実戦では喧嘩殺法を加えた戦いでかなり強かったそうです。

剣術も天然理心流だけでなく、薬の行商をしながらあちこちで学んだらしく土方流喧嘩剣術とでもいうものになっていたのかもしれませんね

土方歳三は新撰組の中でも人気ナンバーワンといっても良い人物ですが、なぜここまで人気があるのでしょうか

本人の意地だったのか幕府への義だったのか分かりませんが、最期まで侍として戦って散ったのが、ある種、男の理想的な姿だからでしょうね

司馬 遼太郎の名作「燃えよ剣」でとにかくカッコ良く書かれているし、幕府に殉じた最後の武士というのも日本人の魂をゆさぶるものがあるのでしょう。

あと、本人がやっぱり男前ですよね(笑)
http://bakumatsu.org/blog/2014/02/ikemen_ranking.html
ちょっとディーン・フジオカさん風かも

「残された写真が、抜群にイケメン」だからだと思いますよ。幕末の志士には写真が残っている人が数多くいますが、坂本龍馬などに比べても抜群にイケメンですよね。イケメンというか、モテる雰囲気をたたえています。実際、多摩でジモピーをやっていた頃からモテてた伝説を持っていました。新選組時代に京都から日野の実家に芸者衆からのラブレターの束を送ってきたことがあって、実家の人たちは「歳三さんらしいや」といって笑ったというのですからまあモテていたのでしょう。
また、「志半ばで斃れた」というのも日本人の判官贔屓心をくすぐるところもあると思います。勝海舟は生き残ってしまったので人気は落ちますよね。坂本龍馬が伝説なのも、志半ばにして斃れたという悲劇性があるからです。源義経とか織田信長とか、そういう人って人気じゃないですか。

やっぱりあの函館で撮影された最後の写真ですよ。洋装ブーツ(!)を粋に着こなして、まだ新政府側でもちょんまげが多かった(岩倉具視がまげを切ったのはずっと後です)時代にいち早く総髪にしています。女子の心をグッと掴みますよね。おまけに戦場ではカリスマ的な指導力で頼りがいがあるときたら、そりゃーモテますわ。私が女だったら抱いてって思いますもん・笑。

土方の洋装について

土方歳三のあの写真

新撰組の土方歳三といえば、幕末の志士でも1、2を争うほどの人気を持っています。その原因となっているのがあの五稜郭戦の直前に撮影されたというあの有名な写真のせいなのは異論の余地はないでしょう。
しかしあの写真、かなり「おかしな」写真であります。服装は洋装でさらに当時の日本人ではほとんどはいていないブーツまで身につけています。さらに髪型はざんばらです。さらに驚くべきはその洋装を「完全に着こなしている」ことです。普通、着慣れないものというのは着こなせないものです。みなさんも、友人知人あるいは自分自身が結婚式などで着慣れない衣装を身につけたらお笑い芸人みたいになってしまった経験があると思います。しかし、歳三さんのあの姿はまるでモデルのように着こなしており、はっきりいえば現代の目で見てもかっこいいものです。きっとあと300年たってファッションが変わってもずっとかっこよく見えると思います(坂本竜馬のブーツ姿がある種のお笑い芸人テイストを持っているのとは対照的です)。
さて、それの何が「おかしい」というと、彼は元々「武士になること」を熱望した男です。つまり、当時においては相当保守的であったことに他なりません。彼の思想を伺える資料はほとんどありませんが、開明的な開国論者ではなく保守的な攘夷論者に近かったことは間違いないでしょう。
その彼がなぜ「洋装」を選びさらに「ざんばら髪」までやったのか。当時一般庶民ですら明治になってもなかなかちょんまげを切ることが出来ませんでした。その「モダンさ」は一体何処から来たと思いますか。

負け続けたからです。
鳥羽伏見の戦いから、函館まで、ずっと負け続け。徹底的に負け続け。

軍国主義日本が、戦後、平和教徒と言えるほど、平和主義になったのは、徹底的に負けたからです。

中途半端に負けたのでは、もともとの自分の信念を曲げるのは大変。けど徹底的に負けたので、勝つためにはどうしたらいいかというのが、あの外見の変化だと思います。

写真の真偽は別として当時(五稜郭時代)には既に榎本武陽など西洋風の風俗はかなり浸透していたはずです。
しかも土方は政府軍の新式装備に完敗してきた人物ですから装備や訓練の洋式化の必要を痛感していた筈です。

頭の「ちょんまげ」は戦闘時は鉢巻をしなければ戦闘に不向きな事は経験ずみでその点「ザンギリ頭」は便利至極です。  靴も同様。
洋装による戦闘の有利さも痛感していたでしょう。
従っていかなる保守主義者であってもこれらの利点に目をつぶる事は実戦主義の土方でも許されなかったと考えます。

このように考えると理解出来るのでは・・・

1. 土方歳三は、僅かな期間(1年程度)に洋式銃を主装備とする戦術をマスターし、蝦夷地での戦闘では優れた指揮を行ったと言われています。かなり柔軟な頭脳と知力を持った人物であったことは、新撰組時代の記録からも確かでしょう。要するに「つまらないことに拘らない」人だったと思われます。

2. 蝦夷地は、江戸や京都で暮らしていた歳三には想像がつかないほど寒い所だったでしょう。詳しくは分かりませんが、蝦夷共和国の幹部は西洋式に作った家で1869年の冬を越したと思います。氷雪の中でも平氏の訓練は行ったでしょうが、洋装でなければ出来るわけがありません。そして、「洋装に髷を結う」様な格好悪いことを、洒落者であったらしい歳三がやるとは思えません。洋装なら当然頭も洋式にするでしょう。

3. 服についてですが、当時は既製服など存在しません。函館に洋服職人(外人か日本人かは不明)がいて、その人が採寸して歳三の洋服を作ったはずです。革長靴も同じです。フルオーダーの洋服や靴を着こなすのは、歳三のように「柔軟な発想を持った人」なら十分可能だったのでは。

4. 私は、土方歳三は近代軍の最優秀の将校になれた人だと思います。函館戦争では、蝦夷共和国の最高責任者であり「賊軍の首魁」である榎本武揚さえが助命されました。新撰組の副長であったとはいえ、別に罪人でもなんでもない歳三が助命されることはありえたと考えます。
仮に歳三が助命され、後に明治の陸軍か海軍に身を投じていれば、同じく賊軍側で最後まで抵抗し、許された後に日露戦争で偉功を建て、陸軍大将まで昇進した立見尚文のように日清戦争あたりで活躍出来たのでは、と考えます。日露戦争の時は既に70歳ですから、現役軍人として戦うには遅すぎますが。

※私は別に「新撰組ファン」ではないので誤解なきよう願います。

土方が一番活躍した戦いは?

土方歳三について質問です。

土方歳三について質問です。

土方が生きている間に、

池田屋事件
禁門の変
油小路の変
鳥羽伏見の戦い
函館戦争

とありますが、土方が一番活躍した出来事はこのうちどれでしょうか?
教えてください!

もしよかったら、その活躍した出来事についても教えてください。

「一番活躍した」との定義は難しいですが、個人的には函館戦争を
挙げたいと思います。では、それぞれの戦いについて、振り返って
みましょう。

池田屋事件
「八月十八日の政変」の後、劣勢に立たされていた長州を中心と
する尊皇攘夷派が、京都でテロを計画。御所に火を放ち、孝明天皇
を拉致って、長州に連れ出すという作戦。それに感づいた新撰組。
しかし会合している場所は、四国屋か池田屋か判断つかなかった。
新撰組はこの当時、立場が弱く知名度も低かった。会津藩、桑名藩
の準備が整ってから乗り込もうとしたが、土方はしびれを切らし、
新撰組だけで乗り込むことを決意。本命の四国屋には土方を筆頭に
多くの隊士が向かい、池田屋には近藤・沖田などたった4名で向かう。
予想は外れ池田屋で会合していることが分かると、土方等は急いで
近藤等の救援にかけつける。近藤等もたった4名で乗り込み、すでに
戦闘中だった。新撰組だけで鎮圧できると判断した土方は、後から
やってきた会津藩・桑名藩の大藩に向かって、「この戦場では、新
撰組の羽織を着てない輩は全て切れ!と命じております」との啖呵
を切り、会津・桑名藩には一切手出しさせなかった。その結果、
新撰組という小隊だけで、本当に鎮圧してしまい、京はおろか、
全国にその名を轟かせることになった。

禁門の変
池田屋事変で更に劣勢に立たされた長州は、武力蜂起に打って出た。
軍を編成し、京都御所に向かって孝明天皇奪回に向かった。そので
立ちふさがったのは、徳川軍の筆頭である、会津・桑名、そして
薩摩藩。さらには、会津藩あずかりである新撰組も徴兵された。
土方および新撰組は、ここではそこまで活躍はしない。幕府軍の
圧倒的な兵力に、長州は多くの幹部を亡くし、逃げ帰るしかなかった。

油小路の変
これは完全に身内の事件なので、世の中的には大きな事件ではない。
新撰組の参謀だった伊東甲子太郎が、佐幕派の新撰組の意向に合わず
離脱し、御陵衛士を結成した。その実、薩摩と結び、近藤の暗殺を
企んでいた。土方は、伊東が新撰組を離脱する際に、斉藤一も供に
離脱させ、御陵衛士の内部の情報を得ていた。近藤は、相談があると
言い、伊東をおびき寄せ、酔わせた上で伊東を暗殺した。
この伊東は非常にカリスマ性があり、多くの隊士を心酔させた。
新撰組結成依頼の盟友であった、八番隊長の藤堂平助も彼に
心酔し、御陵衛士に入隊してしまう。伊東の亡骸を引き取る
ように、残りの御陵衛士7名を呼び寄せ、その際にまとめて
粛清する。近藤の心情を察して、土方の命令によって、永倉・
原田も粛清メンバーに加わり、藤堂を逃がそうとするが、他の
隊士によって討ち取られてしまう。
後日談だが、この後生き残った御陵衛士の隊士が近藤を狙撃。
重症を負わせる。また、戊辰戦争が始まり、徐々に劣勢に
なってきた際に、近藤は「大久保大和」と変名を使い、投降
するが、御陵衛士の生き残りに正体を見破られ、斬首となる。

鳥羽伏見の戦い
薩摩と手を結んだ長州が勢力を盛り返し、ついに倒幕を成し
「王政復古の大号令」をかけます。徳川慶喜はこれを受ける
ものの、部下の幕臣が暴走しそうになり、たまらず慶喜は
大阪城を逃げ出す。これに対し、新政府軍は旧幕府軍を挑発
し続けた結果、江戸の薩摩藩邸が焼かれる事件が起きる。
慶喜は荒れる幕臣を収めきれず、ついに討薩を発し、戊辰
戦争へと突入する。鳥羽伏見の戦いは、戊辰戦争の緒戦で
あって、圧倒的な兵器を扱う新政府軍に旧幕府軍はほぼ
壊滅。新撰組も伏見街道へと進むが、薩摩小銃隊の前に
あっけなく破れた。この戦いでは新撰組はいいとこなし。
結成時からの幹部である井上源三郎は戦死。新撰組諸士調役
兼監察の山崎烝も重傷、この傷によって紀州湾沖で死亡。
ちなみに、鳥羽伏見の戦い前には148名いた隊士は、江戸に
帰還するまでに116名まで数を減らし、仙台につく頃には
48名にまで減少した。



文字数足りないんで、続きます。。。

No2です。


函館戦争
戊辰戦争の最後の戦いでもある。この頃には事実上新撰組は
解散しており、生き残りの数名が函館に渡った。五稜郭に
立てこもった旧幕府軍は、榎本を総裁とする「蝦夷共和国」
を成立。土方は陸軍奉行となる。土方は蝦夷の地においても、
鬼の副長のままで、箱館政府を樹立し、祝賀会においても、
「浮かれてる場合ではない」とクギをさし、新政府軍が攻めて
きて、自軍を包囲したさいにも、冷静な対処でそれを退けた。
また、蝦夷での内陸戦においても土方が守る二股口は常に連戦
連勝。しかし、新政府軍の箱館総攻撃が開始さて、新撰組の隊士
であった島田魁らが守備していた弁天台場が、包囲され孤立した
ため、歳三は籠城戦を嫌って僅かな兵を率いて出陣。箱館一本木
関門にて、敗走してくる仲間を率いて進軍させ、「我この柵にあり
て、退く者を斬る!」と発した。土方は一本木関門を守備し、
七重浜より攻め来る新政府軍に応戦、馬上で指揮を執った。
その乱戦の中、銃弾に腹部を貫かれて落馬、絶命。


新撰組の局長である近藤をたたせ、嫌なことは全て受け入れ
嫌われものになり、鬼の副長という人物になり、隊の規制・
結束を固めた男です。函館戦争においても、その心意気は
変わらず、圧倒的な采配で新政府軍を脅かしていました。
彼の集大成が、この戦に全て現れていたのではないかと
思います。

また、敵からも味方からも恐れられてた土方でしたが、和歌や
俳諧などの趣味を持っていました。が、決して上手い方では
ありませんw
鬼と呼ばれた土方が
「しれば迷い しらねば迷ふ 法の道」
などの愛くるしい詩を残しているのがなんとも微笑ましいです。
ちなみに、「法の道」とは「恋の道」のことです。ちなみに
生涯独身で通しました。
本当に魅力のある人物だと思います。

まとめ

Photo by photo AC

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