歴史と芸術の都「ローマ」ガイド!「見どころ」「王政、共和制、帝政のちがい」「ローマの下にローマ?」

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はじめに

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4月20日は「ローマ」の日。753年のこの日、ロムルスがローマを建国し、初代の王となりました。


その他のQAはこちら

ローマ

https://okwave.jp/searchkeyword?word=%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E

ローマの見どころや魅力はどこですか

人気ランキングだとこんな感じです 
http://4travel.jp/overseas/area/europe/italy/roma/kankospot/

さすがに豊富ですね

歴史のある街なので見どころばかりですね。
バスツアーがあるようなので、それを利用するのがいいみたいです
https://wondertrip.jp/europe/italy/92452.html

イタリア旅行ですかぁ! 良いですねぇ~! 滞在期間は何日ですか? ホテルはテルミニ駅に近いですか? 見所は駅を中心(主に南西側)3km以内に世界遺産がゴロゴロしています。 テルミニ駅から十字に伸びる地下鉄を利用されると便利です。(最寄のタバックで回数券が購入できます。) また、日本で事前に「コロッセオ内部入場券」「バチカン市国美術館入場券」を購入されることをお勧めします。(日時単位なので、其々午前中をお勧めします。 何故かというと、当日ヨーロッパ諸国から見学バスツアーが押し寄せるので昼近く着が多く込み合いますのでその前に観覧された方が良いと思います。)
また、閉館される時間も調べておいた方が良いと思います。 真実の口なんかは夕方4時?ぐらいに鉄格子が締り、すぐそこに見えているのに口に手を入れた写真が撮れません。
エリザベス二世議事堂前やスペイン広場、トレビの泉等は行く時間帯によって、違った雰囲気が楽しめます。 日中は観光客でごった返しますけど、夕方になるとどこからともなくカップルが現れ、たたずむ雰囲気も見所です。あー序でにコロッセオの外観をライトアップしているサマもお勧めです。 日中は双子教会の真ん中を走る道路沿いでウィンドショッピング。 フォロロマーノは入場料を払って下に下りなくても、周りの道から眼下に見渡すことが出来ますので、見ながらコロッセオに向っても良いと思います。

食事は、どの店もお勧めです。極端なことを言えば昼食に駅中のホールにある売店で3Lサイズ級のピザ一切れ(4~5百円ぐらい)とコーラーで満足出来ます。 朝はどのホテルもビュッフェスタイルですが、イタリアン何とかみたいなドレッシングが無く、サラダはプレーンヨーグルトを掛けるのが支流なので、苦手な方はプチドレッシングを持参ください。
夜は市電沿いの小さな店でも夜になれば市電ギリギリまでイス、テーブルが外にはみ出し、おもてなしをしてくれます。 ツアー会社の高いディナーに参加しなくても、ちょっとした店先にバイオリン、チェロ等の演奏者がタムロし路上演奏をしていますし、そこへ酔っ払った地元のお姉さんがボーカルで加わったりと、雰囲気は最高です!
後はジェラード! 300~500m間隔にありますので、カプチーノとともに味わってみてください。

ローマ字ってなぜ「ローマ」?

ローマ字は、かつてローマ帝国で使用された文字に起源をもつことからその名がつきました。
ほんとうはローマ時代の公用語はラテン語で、現在のアルファベット26文字セットとは少し違うんですけどね。
英語のalphabetは、ローマ時代のAとBの読み(アルファ、ベータ)に由来しています。

日本語を外国人が読めるように書くためにどの書体(どこの国の文字)を使うか、日本では欧米諸国で使用されている一文字が一音を表すローマ式文字、すなわち今日我々がローマ字と呼ぶアルファベットが使用されました。約2000年ほど前にローマで完成(発明ではない)された文字です。日本にローマ字が入ってきたのは、1591年ポルトガル人がキリシタンの本や日本語ーポルトガル語の辞典を印刷した時です。その後、オランダ式やドイツ式、フランス式に書き表しましたが、1867年ヘボン式が導入され、また、1885年田中館愛橘(たなかだてあいきつ)によって<日本式>ローマ字が作られ、この二つをあわせて1937年に訓令式ローマ字が文部省から発表されました。さらに1954年(昭和29年)に訓令式新表が発表され今日に至っています。

なおアルファベット(alphabet)はギリシャ語のアルファ(A)とベータ(B)が語源です。アルファベットの数は言語によって異なります。(英語26、スペイン語28など)

ローマはなぜ共和制から帝政(帝国)に移行したのですか? これは民主主義の後退だったのでしょうか

共和制が機能しなくなったため、「内乱の一世紀」に至ったわけです。
混乱を収拾するには、絶対的な権力者の出現が必要不可欠だったのです。
民主主義を養護する立場で言えば、後退です。
しかしプラトンは、最も理想とする政治体制を哲人による独裁政治だと言っています。
この後、五賢帝の時代にかけて最盛期を迎えるわけですから、その意味ではローマにとって前進かもしれません。

一応ローマ帝国では「元老院と市民集会の支持によって皇帝の地位が認められる」ことになっているので, 共和制から帝政への移行を「民主主義の後退」といっていいかどうかはよくわかりませんが....
もともと共和制も完璧なシステムではなく, 「緊急時に即応できない」という問題を持っています. これに対処するため, 共和制ローマでは必要に応じて独裁官 (dictator) を任命するという「共和制を守るために共和制とは相容れないもの」を準備していました. こちらから考えると「独裁官 ⇒ 終身独裁官 ⇒ 皇帝」と変化したと考えることもできるかと.

現代でもそうですが、「民主主義」はもともと非常に欠点の多い政治システムです。唯、他の政治システムに比べて、致命的な欠点がないことが多くの国で採用されている理由です。

 その特徴を具体的にいいますと、
1.唯一ボトムアップを基本とする政治システムであること。
2.他の政治システムに比べて、経費が恐ろしく掛かること。
3.意思決定に時間が掛かりすぎること。
4.政治的リーダーの取替えが容易であること。
5.政治的決定の最終責任を、市民全体で取ること。

 つまり民主主義は、みんなの意見を集約し政治決定をし、「政治的失敗」が起こるのは当たり前であることを前提として、その失敗の責任を全員で取ることによって成り立っています。

 そして、政治決定の遅さと費用の多さに対しては、市民一人一人の活動と負担によって、致命的問題にならないように、常に気を配らなければなりません。
 この日常的な努力がなければ、民主主義は衆愚政治に直結します。

 このように、市民一人一人が費用と時間を負担することが前提となっているため、人口が多くなり、領土が広くなると、それに完全に比例して経費もかかるようになります。

 人口・国土が増大し、単なる意思決定のためだけでも膨大な費用が掛かり、その経費が他の政治システムをとることによる損失より大きくなれば、「民主主義は有効ではない。」ことになります。

 過去の歴史において、「民主主義が上手くいった」事例を考えると、次の2つのケースが考えられます。

1.その政治母体が、比較的小さな運命共同体であること。
2.その母体である共同体が、順調な経済成長をしていた。

 特に、母体となる共同体が相当大きな共同体となった場合でも、経済成長を続けている場合は、民主主義を維持する負担に耐えられたのでしょう。(人間は、成功している間は、社会システムを変えようとしませんから。)

 No2の方の回答でも分かるように、当時のローマの領域は、古代としては最高度に組織された、道路・通信システムを使っても限界となるほど、広大となっていました。
 つまり、民主主義の後退というより、民主主義の限界という考え方の方が妥当と思います。

参考:現代と民主主義
 歴史的に見ると、人口減少社会で経済成長が止まると、民主主義が機能不全を起こし、民主主義の継続が難しくなっています。
 さて、現代社会では、ヨーロッパ・日本が人口減少社会に突入しつつあります。
 インターネット・携帯電話などの情報革新で民主主義の経費の相当の低減と質の確保が可能であれば、今後も民主主義の維持は可能であると考えているのですが、実際の所はどうなるでしょうか。(^^)

王政ローマ、共和制ローマ、ローマ帝国って別のものなのですか?

王政ローマ
歴史 伝承では紀元前753年に初代ローマ王ロムルスが建国し、紀元前510年(または紀元前509年)に第7代目の王タルクィニウス・スペルブスが追放されるまで続いたことになっている。

共和政ローマ
共和政ローマは、紀元前509年の王政打倒から、紀元前27年の帝政の開始までの期間の古代ローマのことである。この時期のローマは、イタリア中部の一都市国家から、地中海世界の全域を支配 した。


ローマ帝国
西洋古代最大の帝国。前8世紀ごろ、ラテン人がテベレ川下流域に建てた都市国家に始まり、王政、のち共和政(前509~前27)を経て、前27年、内乱を収拾したオクタビアヌスの即位により帝政に移行。最盛期の五賢帝時代(96~180)その版図は最大となり、東は小アジア、西はイベリア半島、南はアフリカの地中海沿岸、北はブリテン島に及ぶ大帝国となった。2世紀末から衰退し、395年東西に分裂。東ローマ帝国は1453年まで続くが、西ローマ帝国は476年、オドアケルに滅ぼされた。学術・芸術ではギリシアの模倣の域を出なかったが、法制・軍事・土木面にすぐれ、後世に大きな影響を与えた。

以上は大辞苑より抜粋

王政ローマ
歴史 伝承では紀元前753年に初代ローマ王ロムルスが建国し、紀元前510年(または紀元前509年)に第7代目の王タルクィニウス・スペルブスが追放されるまで続いたことになっている。

共和政ローマ
共和政ローマは、紀元前509年の王政打倒から、紀元前27年の帝政の開始までの期間の古代ローマのことである。この時期のローマは、イタリア中部の一都市国家から、地中海世界の全域を支配 した。


ローマ帝国
西洋古代最大の帝国。前8世紀ごろ、ラテン人がテベレ川下流域に建てた都市国家に始まり、王政、のち共和政(前509~前27)を経て、前27年、内乱を収拾したオクタビアヌスの即位により帝政に移行。最盛期の五賢帝時代(96~180)その版図は最大となり、東は小アジア、西はイベリア半島、南はアフリカの地中海沿岸、北はブリテン島に及ぶ大帝国となった。2世紀末から衰退し、395年東西に分裂。東ローマ帝国は1453年まで続くが、西ローマ帝国は476年、オドアケルに滅ぼされた。学術・芸術ではギリシアの模倣の域を出なかったが、法制・軍事・土木面にすぐれ、後世に大きな影響を与えた。

以上は大辞苑より抜粋

古代ローマは王制からスタートしました。当時は今のローマ市内の7つの丘と周辺の湿地帯を中心とした本当に小さい都市で、王といっても周辺部族や城壁都市からのあぶれ者が参加した、半分暴力団みたいな集団のリーダーだったようです。それがローマを拠点して、周辺部族との戦争や和解などによって、徐々に力を蓄え、ひとつの国になっていきました。

すでに王制ローマ時代に7つの丘のひとつ、カピトリーノには神殿が作られ、パラティーノには王宮がたち政治の中心となっていました。

少し時代が下がり第七代王のタルクィニウス・スペルブスの時代になるまでにローマは近隣の中では目だって大きな国に成長していたのですが、内紛が絶えずまた政変が相次いだり王族の横暴などもあり、タルクィニウス・スペルブスを追放し王制を廃して共和制に移行することになりました。

これによりローマは王制から共和制になるのですが、その政治体系は執政官を2人選挙で選出し、毎年交代しながら首相のような役職を勤めました。
ちなみに、ローマには王制時代から民会があり、王であっても市民集会の投票を得ないでは王に選出されることはなく、戦争を行うにも(相手から攻めてきた時は別ですが)市民集会の議決が必要でした。またこれとは別に王制時代に元老院という助言機関があり、これもそのまま共和制ローマに残ります。この二つが共和制ローマの発展と、ローマ帝国への変貌のきっかけになっていきます。

これには少し説明が必要だと思います。
さきにローマの始まりは暴力団みたいなもの、と書きましたが、当時は自分の出身地を追放されたり、土地を借金などで失って食い詰める人々がたくさんいました。初代の王とされるロムルスとレムルスの兄弟は、もともと高貴な出てあったようで、このような者を引き連れてローマを建国しました。
その頃には先進国のギリシャが近隣にあり、民主的な政治体系があったため、かなり初期のころから市民集会の原型はあったようです。これは戦争になれば「死」を覚悟して戦う義務があるゆえに、権利として獲得したものでありました。

これが共和制になっても引き続き有効とされ、市民には市民集会のほかに護民官(按察官)という役職も与えられ、今でも「拒否権」と呼ばれるVETOを持つ強大な権力を有していました。これに対して貴族とか富裕者のサロンでもある元老院は、執政官を排出できる人材が集まる集団として隠然たる権力を保持していました。(執政官は戦争時に指揮官になるため、高度な教育を受けられる貴族などに限定されていたため)

この二つの勢力が、ローマ自体が段々強力になり勢力と国土を広げていく間に何度もぶつかり合います。理由のひとつとして、国土が広がるとその土地に住んでいる部族をローマ市民にするため、平民も増えること、もうひとつは国土が広がると富裕者はさらに富裕になることで、平民格差が広がったからです。富の再分配に対して国内紛争がなんども起きました。

これを最終的に解決する方法を考え出したのが、かの有名なユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)です。彼は地中海全体に広がったローマ共和国の版図を統治するには元老院と市民集会の対立が邪魔になるとして、終身執政官+終身護民官+最高神祇官(これは元々終身)になる役職を考え出します。それも市民集会も元老院もどちらも賛成多数で、カエサルに与えるはずでした・・
と、ここで起こったのが元老院によるカエサル暗殺です。

これによりカエサルが筋道をつけた「皇帝(エンペラー)」にカエサルの養子であったアウグストスが着任することになります。
これにより内政問題がほぼ片付いたため、ローマは帝国としてますます発展するのですが、王とは成り立ちが違っても、所詮は独裁権力であることは同じであるため、代を重ねるごとに皇帝も腐敗し、ローマ帝国の滅亡に至るのです。

最後にエンペラーについて
もともとインペリアルと呼ばれたもので、軍の指揮権を意味します。つまり最高軍司令官です。
こうしてみると、皇帝とは、最高軍司令官・最高行政長官(内閣総理大臣みたいなもの)・護民官(拒否権を持つ平民の長)・元老院第一人者(結果として元老院の議長のようなものになる)・最高神祇官という大国ローマの最高の権力者であり、現在の世界情勢とローマの覇権・周辺国への影響を比較してみれば、アメリカ大統領とローマ法王と安全保障理事会をひとりで行っているようなものでしょう。

このようにして王制ローマからローマ帝国までは一連の流れがあるのです。

ローマの下には昔のローマ都市があって何層にも積み重なっているそうです。これはわざと埋めたものですか、それとも火山の噴火などで埋まってしまったのでしょうか

遺跡が何層にもわたって積み重なっている例は少なくありません。もっとも有名なのはシュリーマンが発見したトロイの遺跡で、紀元前3000年頃の第1層から、紀元前300年の第9層まで、9つの都市遺跡が確認されています。

 ポンペイは火山灰に埋もれているだけで、重層的な遺跡とは言えません。また、場所もナポリの近くで、ローマは火山に灰埋もれたことはなさそうです。

 ご存じのように、ローマは7つの丘の麓に発達した都市で、市街地の主要部はイタリー第3の大河テヴェレの氾濫原上にあります。テヴェレ川は何度も氾濫を繰り返したので、古い遺跡は地下5メートルのところに埋もれています。

 また、建築用の石材を切り出したあとを、地下の貯水池、あるいは墓地として利用することもありました。初期のキリスト教徒が隠れた場所でもあります。

 簡単なローマの地図と解説を添付します。現在の市街地の中心は、マルスの野と呼ばれているあたりです。
http://www.vdgatta.com/note_rmap_geography.html

ローマの街全体を焼き尽くすような火事が何度かあったはず

そんな状況になれば、大きな瓦礫なんぞは取り除いたとしても細かいモノはそのままにして、その上に新しい街区を再建しませんか?
今の様な大がかりな建設機械でもあれば別だが、全ては手作業だからササッと均して終わり
そう言う発掘の話なのかな?


後は、ローマ時代には上下水道が完備していたから、そう言った地下水道とか地下の下水道のトンネルを掘っている話なのか?

どういう発掘、地下遺構なのかによって話は変わる

http://nationalgeographic.jp/nng/feature/0607/index2.shtml

多くは紀元前3~4世紀のものだった。

東西ローマ帝国の分裂という時に、イメージとしてローマを離れてコンスタンティノープルへという感じですが、その段階ですでに、西ローマ皇帝は主にラヴェンナやミラノに常駐しています。つまりその前にローマは破棄されていた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%8A
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%8E

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%AB%E4%BA%BA
ヴァンダル人の征服とか

現在のローマは中世以降にカソリックの門前町みたいな形で再興したものです

まとめ


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