江戸時代の食文化

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はじめに

江戸時代の人って何を食べてたんでしょうね。

実に興味深いQAが寄せられてましたよ。

OKWAVEに寄せられたそんな質問と回答をまとめてみました。


STEP1近代文化のお菓子と江戸時代の食文化

近世文学とお菓子、江戸時代の食文化

大学で近世文学ゼミに所属している者です。
卒論で、江戸時代のお菓子、または庶民の食文化を扱いたいと考えているのですが、具体的な構想がなかなか固められません。
お菓子やその他の食べ物が登場する近世文学作品といえば、お菓子好きな十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や、井原西鶴の作品群を思いつくのですが…。
それらから、何をどう論じればいいのやら、困っています。
江戸時代には料理本などもたくさんありましたが、文学とは離れてしまうでしょうし…。

アドバイスやヒント、アイデアをお聞かせ願えれば幸いです。
よろしくお願いします。

 こんにちは。
 菓子の分野のみですが有力な研究拠点を一つ紹介しておきます。東京圏にいるのなら必ず訪問するべきかと思います。
http://www.toraya-group.co.jp/gallery/dat_index.html#gallery002
ここの担当者(女性)も大学で和菓子に付いて調べているうちに、とうとうこの有名な店に勤めることになり、その後も引き続き研究されているとのことです(記憶違いが含まれる可能性在り)。
 少なくとも、差し当たりどのような本や文献を読むのが良いか、という教示はしていただけるでしょう。

 ここで挙げられている『膝栗毛』の線で行くなら、諸国の名物菓子と江戸庶民の係わりに付いて調べてみるというのもあるでしょう。確か安倍川餅が出てくるのではないかと思います。あれも江戸の町民が似たようなものを市中で食べることが出来たのかどうか、質問されたら普通の人は答えられませんね。私も知りません。
 実は私の近所の東海道筋にこんな店が在ります。
http://www.wagashi.or.jp/tokyo/shop/1915.htm
大森は江戸の市中ではないのですが、そういう機会が絶無ではなかったことが判ります。川崎大師にお参りに行くのが当時の遊山の一つでしたが、その往還にここにも寄ったかもしれません。
 もっと探すと或いはほかにも類似の餅を出した店が見つかるかもしれません。ただしこの方面に付いて知るには当時の道中案内や、江戸に関する地誌、更には随筆もある程度渉猟する必要があるでしょう。
 目指しているものから少し離れる内容になってきたような気もします。さまざまな切り口が考えられるだけに、これも一つの見方と受け止めてください。うまくまとまりそうなテーマを見つけられると良いですね。

http://www.ruralnet.or.jp/zensyu/syoku.htm
http://www.ruralnet.or.jp/fdk/
http://www.ruralnet.or.jp/zensyu/byokasuchi/
江戸時代の儒学者、洋学者たちの藩政改革など面白そうです。
横井小楠は、熊本ですが、肥後では、私塾をひらいていますが、福井越前では、藩主の相談役になり、幕末の尊皇攘夷、開国など思想的なリーダーになります。
お住まいの地域の天保の改革を調べてみると、幕末の人物が見えてきます。

STEP2江戸時代の食生活について

江戸時代の食生活について

とある本を読んでいた所、江戸時代では「おやつ」に果物を食していたと書いてありました。

果物は主に「ブワ、林檎、桃、ミカン、柿」で果肉が肉や血を連想させる事から野蛮な食べ物とされ上流階級や女性はあまり食べなかったと書いてありました。

そこで、疑問に思ったのですが、「肉や血を連想させる」と言う事は江戸時代には肉は食べていなかったのでしょうか?

仏教では動物(特に四足歩行動物)の殺生を禁じていたため動物肉は都市部、海岸部では食べる習慣は無かったと思います。山間居住地域には猪、鹿、ウサギ等肉食の習慣はあったのではないでしょうか。
因みに、鳥類は二足なので卵を含め食用であったと考えています。

STEP3一日何食だった?何食べてた?

江戸時代の人たちって

江戸時代に関する質問です。

一日何食のご飯をたべていたか、ご存知ですか?
どこかで2食ときいた憶えはあるのですが……。

家の作りって、わらぶき屋根とかそういうのですかね??

一般庶民は何の仕事をしていたのでしょうか???


是非是非、教えて下さい。

一般庶民の仕事は、店を持っている八百屋、魚屋、水菓子(果物)屋、薬種屋、風呂屋、大工、かんざしなどを作る錺職(かざり職)、呉服屋、菓子屋、干鰯(ほしか)問屋、煮炊屋(今で言うオカズ屋さんですね)、髪結い床(店を持たない人を「まわり髪結」と言った)、廻船問屋(今で言う商社でしょうか)、下駄屋・・・もういろいろありますよ。今とあまり変わらないと思いますが、店を持たない人は棒手(ぼて)ふりといって、天秤棒をかついで野菜や魚、水などを売っていたようです。その他に、屋台の蕎麦屋、いなり寿司屋などもありました。

江戸時代には一生独身で終わる男性が多かったそうです。お店(たな)づとめをしていても、ある程度までは無給。手代や番頭になっても住み込みが多かったからです。

十手持ちや木戸番(昔は夜になると町内に怪しい人が出入りしないように門が閉まった)などは、それだけで食べていけないので、内職もしていたようですよ。

宮部みゆきさんや宇江佐真理さんの時代小説を読んでみると、たくさん出てきます。江戸の人の息遣いまで聞こえてきそうで、すっかり時代小説にハマっています。

2食から3食になったのが江戸時代という話は聞きますがそれがいつかは地域差もありわかりません。しかし3食と言っても内容は粗末なものだと想像出来ます。栄養的に満たされているならば有史以来江戸時代の平均身長が最低という事はないはずです。(江戸末期の平均身長は成人男性でも157センチ程です)

屋根は農村部を除けば板葺きが多かったようです。

仕事に関しては東京・大阪などの都市部を除き農業・漁業・林業などの第一次産業従事者が圧倒的に多かったでしょう。

江戸時代は既に3食になっていました。
但し吉原と牢屋は2食でした。

労働者はそれでもお腹が空くので間食しましたから屋台の食べ物屋、行商人が流行りました。

家の造りは江戸市内は最初板葺きに石を重りとして置くののが多かったのですが度々の大火が続いたので、幕府は板葺きを禁止、瓦葺きに移行させました。
農村では瓦は高価なので藁葺きのままでしたが財力のある地主などの家は瓦葺きでした。

一般庶民は都会では通常生活に必要なあらゆる職業に就いていました。
勿論娯楽や趣味に属する職業にも(芝居、著述、出版など)就いていました。

真の江戸っ子は、働かない奴らだったようです(笑)

杉浦日名子先生の江戸学エッセイ
「一日江戸人」
「お江戸風流さんぽ道」
等、お読みになってはいかがでしょう?

三田村鳶魚全集を読んでみることをおすすめします。

STEP4江戸時代の米飯食

江戸時代の庶民の米食

江戸時代の一般庶民はどのくらいの頻度で米の飯を食べられたのでしょうか?
年に何度かしか食べられないような話も聞きますが、時代劇とか見ると普通の町民でも飯屋とかで日常的に食べてるようでもあります。
都市部と農村でも違うと思いますが実際のところどうだったのでしょうか?

 米の飯は食べていました。しかし白米のみの飯ではなく、米に麦・粟・稗などを混ぜた雑穀食が一般的でした(日本全体が毎日白米食をするようになったのも昭和30年代以降からです)。
 まず江戸など都市部の生活は資料が多く残っているため、江戸の生活を持って「江戸期の一般的生活」と思いがちですが、当時日本の人口の8割をしめる農民層こそが、江戸期の一般的生活です。

 先の回答にもあるように当時、江戸では脚気が流行していました。原因は白米のみを大量に食べる食生活ですが、参勤交代で江戸に訪れる地方武士ですら脚気を恐れていました。このことは地方では都市部、それも武士層でも白米のみの食生活は一般的でなかったのでしょう。

 農民層も年貢(土地を持つ本百姓)や小作料(土地を持たない水呑百姓)、また種籾以外の米は、貴重な現金収入であるため、自分で消費する分は雑穀を混ぜるのも合理的ですし、保存や脱穀の手間を考えると白米よりも玄米に比重がかかるでしょう。

 米の飯は食べてはいたが、白米飯はハレの日の食事で、通常は雑穀飯だったのでしょう。

都市の居住者はかなり米食をしていました。
田舎から奉公に出てきて米ばかりで脚気になって田舎に返されると治癒したという例もよくあります。
また農村でも年に数回というようなことはなく、かなりの頻度で米食をしていました。

 時代劇などで貧しい農民や町民の姿が描かれることが多いので、つい昔は庶民はお米は食べられなかったのでは? と思いがちですが、江戸時代の人は都市でも農村部でもたいていはお米を食べていたようですよ。お米を食べられないのは不作の時、飢饉の時です。
 ちなみに脚気は江戸患いなどとも言って、江戸などの都市部ではお米を精米して白米にして食べていたため(栄養不足で)、脚気にかかる人が多かったようです。昔はお米は食べてもおかずは漬物だけ、といった粗食が多かったようですから。

江戸時代の農民

江戸時代の平均的な農民は、年に何回くらいお米のご飯を食べる事が出来たのでしょうか?

イメージでは盆と正月以外は食べられず、普段は粟・稗が気持ち程度に入った雑炊で餓えを凌いでいた感じなのですが、これは時代劇の観過ぎでしょうか?

たとえ五公五民であったとしても収穫の半分は農民の処分可能なものです
この一部を売って必要品を購入したわけです
米以外の収穫と年貢に納め必要品を購入するために売却した残りが自分の使用分です

ある意味明治大正の方が江戸時代より高税率でもあったようです

近年、江戸時代に関する研究の成果が刊行されています

判りやすいのは石川英輔の著作です
大江戸生活体験事情 などがよろしいかと

小中学校の歴史の授業は何だっだのだろうか です

なお、ひとつの原典だけでは一方的になりますので多くの著作をご覧になりますよう

今でも、大勢は二公八民です、江戸時代は公式には、農民以外は納税義務はありませんでした

郷土史が好きな者です。
私が生まれた村を調べていますが、江戸時代はホンネとタテマエに物凄い差があった時代と感じています。
つまり市町村史などに記してある「公式記録」はタテマエであつて、ホンネとは随分かけ離れていると感じています。
私の村は村高250石、年貢200石(税率8割)という恐ろしい記録になっていますが、実生産量は少なくとも1000石はあったと推定されます(夏作のみで)。更に綿なども多く作っていたので実際の税率は10~15%だったでしょう。
米は常食だったと思います。いや農民は米相場を見ながら少しでも有利な売り方をしていたようです。
このことは全国的にそして全村人が普遍的にそうではなかったとは思いますが、毎日ヒエやアワばかり食べていたというのは米作に適さない地域でのことで、一般的には米が常食だったと思います。もしヒエやアワが主食なのでしたら稲田よりはるかに広いアワ畑が必要だったでしょうから。
私の村で記録と実際になぜ4倍もの差ができたのか理由は定かでありませんが、帳面に記された田畑の面積は実面積のほぼ半分しかありません。更に石盛が他村の半分ほどしかなく併せて4倍の差を生じています。

少し訂正です。白米が常食だったと書きましたが、米は年貢と売却を優先していたと思われ、商品価値の低い麦を多く食べていたようです。ただ当地では雑穀はほぼ食べていなかったように思われます。(記録に出てきません)
小作は割が悪いのですが、想像している程ではなかったように思われます。古記録を十分解析していないのですが、小作料は年間合計生産量の3割程度ではなかったかと思います。その半分程度が年貢で、これは地主が小作料の中から払います。
私も農民の生活がどうだったのか興味があり、古記録などを調べていますが、少し面白いことに気づきました。
村高を村人の数で割って「一人あたりの村高」を求めます。すると当地方の多くの村では8斗程度にしかなりません。(最小約5斗、最大約3石)
当時は食糧として1石必要でした。年貢は納米量を人数で割るとほぼどの村でも5斗程度になります。さらに最小限の出費が5斗必要とすると人間一人が生きるためには約2石の収入がなくてはなりません。(この2石という数値は全国どの村でもほぼ差がなかったでしょう)
つまり村のようすが記録の通りであれば生きていけるはずがないのです。記録はウソと言わざるをえないのです。
さらに「一人あたりの村高」が少ない村ほど免(税率)が高い傾向にあるようです。
 一人あたりの村高が5斗---免8割
 同1石前後--4~5割
 同2石前後--2~3割 といった具合です。
2石の村の記録はほぼ実態に合っていると考えられます。
5斗の村(私の村)は4倍作為しています。とすると1石の村は2倍作為していた???ことになります。
これを裏付けるのに史料を集めていますが、いい史料がなくて苦労しています。特に人数を記した資料がありませんね。

>もしかしたら250石というのは太閤検地くらいの話で、1000石というのは生産性が向上した江戸後期くらいの生産量なのでしょうか?

小生の生まれた村は江戸初期で160余石(この数値が幕末まで「村高」として公称されている)、幕末では新田高を加えて250石ほどです。
面積あたりの生産性が時代と共に向上しているはずですが、公称の村高は変わっていません。増加した新田の面積あたりの生産量は古田のそれほぼ同じになっています。
このあたりも大きな疑問で、これからも調べます。
この件については小生の疑問点も含め色々と書かせていただきました。ありがとうございました。
これからも御教授をお願いします。
なお、小生が書きましたことは幕末(文政頃以降)のことです。

TVや映画の時代劇というのは“ちょんまげや侍の姿をして、過去を舞台とした「現代劇」”だと思えばいいでしょう。そこに歴史的リアリティーというものは追求されませんから(実は歌舞伎も同じで『仮名手本忠臣蔵』などは、赤穂事件を主題としながらも、舞台は鎌倉時代という、当時としたら「過去を舞台とした現代劇」であったのです)。
 あと、大きな誤解は江戸の生活の情報が目に付きやすいから、江戸の生活、つまり大都市で暮らす武士・職人・商人の生活が「平均的な江戸時代の生活」と考えることです。しかしそれは日本全体からすればごく一部であり、人口の8割を占めた農民層の生活こそが、「平均的な江戸期の日本人の生活」です。それと農民というと現在では「農業従事者」と考えますが、当時は武士・職人・商人以外の一般階層というぐらいの意味です。
 ですから、「江戸では毎日のように白米を食べていた」のは当時ではごく一部で行われていた食生活です。また籾のほうが長期保存が可能ですが、そうなると常時、白米食をするためには精米するために時間と労力が取られます。であれば日々の食事は白米よりも玄米に比重がかかるでしょう。さらには米は現金収入を得るための貴重な商品でもあるため、家で大量に消費するという無駄なことはしません(副食が少ないので飯で腹を膨らませるという食生活です)。そうなれば雑穀を混ぜて飯の量を増やすのも合理的な判断です。
「日本人は白米を主食としていた」というのも最近になって生まれた、いわゆる「作られた古典」です。その感覚で捉えるので、「農民は米を食べていなかった」と誤解するのでしょう。

 年貢についてはまずそれぞれの村の中から基準田を決め、その基準田の収穫高を量ることでその年の率を調整していたようです。その各過程で役人と農民の駆け引きが有り、基準田は中くらいの実りの田んぼを選んで貰い、収穫高を量るときは刈り入れ時に籾を地面にわざとこぼして高を数パーセント少なくするなど、それぞれが円く収まるよう知恵を使って生きてた模様です。
 他にも農民の中には開発した新田を届け出ずに隠し持っている者もいたようですから、農民の暮らしは時代劇に描かれているほど悲惨ではなかったんじゃないでしょうか。
 ただ、だから農民は米をいつも食べてたかというとそうでは無かったと思います。自然災害による凶作に対して備えは当然していたはずですから。日頃から農民は習慣的に粗食であって、やはり銀シャリを食べるのは年に数回だったと思います。
 米は武士にとっての収入源ですが、大坂で換金され江戸に運ばれていきます。それは大坂の米蔵と江戸以外に余分な米が殆ど無いということを示しているわけで、やはり米に対しては慢性的な不安感が皆にあったと思います。
  

地域差が激しいので.地域が異なるとまったく異なる回答になります。

「農民」をどの程度の生活水準といるかで答えが大きく変わります。たとえば.祖父の実家。ここは毎日米(注意.すべての食事ではない。)を食べていました。一方.隣家。こちらは.盆正月等の祭りを除くと米が食べられません。
違いは.隠し田の有無と蔵の保存の関係です。3年ぐらい保存はできますが.蔵に入りきれなくなる(腐り始める・カビが生えたコメ)と食べ始めますから。

隠しだは.山の中・沼地の中のちょっとした小高い場所の畳1-2畳くらいの水が入る場所を見つけて.ここに少し植えます。そして.秋に穂だけ収穫に行きます。明治の地租改正で共有林としてこのような使い方をしていた場所が国有地に鳴ったために.大幅な増税となりました。
山の中には役人が入ってきません。だからこのような作付けが可能でした。

 まず江戸時代といっても初期・中期・後期・幕末期では時代様相や生活・風俗も異なりますから、単純に江戸時代と一律に考えてはいけません(昭和時代といっても戦前・戦後・成長期・バブル期ではまったく異なるように)
 それと現代でこそ白米食が普通に思えますが、昭和30年代ごろまで都市部をのぞいて、平均的には雑穀食が主流です。江戸では元禄以降に脚気が流行し、参勤交代で江戸に向かった藩士ですら脚気を気にしたといいます。裏返せば、江戸などのごく一部の都市でしか白米食ではなかった証です。現在のように副食が多くある時代ではないため、飯(めし)によって腹を満たす。それが雑穀と白米では栄養価が異なるでしょう。明治時代に日本軍では脚気予防に麦飯やパンに切り替えようとしたとき、「軍隊では毎日、白米が食える」と聞いたのに麦飯を食わされたといって、多くに兵士が抗議・暴動を起こしたといいます。白米だけを食べるのは当時では贅沢な食事だったのでしょう。
 ですから米に麦・粟・稗などの雑穀を混ぜて食べるのは貧しいからではなく、当時としては普通の食事であったに過ぎません。
 

「米」は食べていました。ただし「白米」だけを食べることは「ハレの日」などをのぞいてはほとんどなく、雑穀を混ぜて食べていたのです。

STEP5江戸時代の動物性蛋白質の摂取

江戸時代の動物性蛋白質の摂取

江戸時代の農民の食生活についてお聞きします。
動物性蛋白質の不足は筋力などの衰えに繋がります。
穀物中心の農民が困らなかったのか。

それに対してウサギや猪、鹿などの獣の肉を食べていたので
意外と取れていたのではないかとの意見もあります。
歴史のカテでご意見を聞いてみたいと思います。

江戸時代には食品の流通機構も冷蔵庫も何もありません。だから保存加工技術が発達したわけです。流通機構が無いだけに全国同じものを食べていたわけではありません。地域によって極端に食文化が異なるのです。まず、そういう基礎知識を確認しておきたい。比較的新鮮なものを食べることができたのは江戸だけでした。だから江戸前寿司が開発可能だった訳です。寿司だけでも地域の食文化の違いが想像できると思います。

猟師は食べる為に猟をしていたわけではありません。村の田畑を獣の被害から守る為に猟をしていたのです。もちろん獲物は食べますよ、そりゃ。飢饉の時は犬だって食べるぐらいですから。たんぱく質とか関係なく腹が空くから食べるのです。動物性たんぱく質というならスズメの唐揚げ、バッタ、イナゴ、タニシ、ドジョウの佃煮だって動物性ですわな。江戸時代の農業は農薬を使ってないから、何でも食べられる訳です。要は食べられるものは食べられる時に食べておかないと生きていけないってだけです。不作だろうと凶作だろうと関係なく、毎年同じ量の年貢を納めにゃならんのですから。
農民が穀物中心という味方が偏見なのです。じゃ将軍は米を食べなかったのか。とんでもない。将軍だって穀物中心です。武士が米を食べている時、農民は玄米、雑穀、大根飯を食べていたってだけの違いです。カロリーが足りないから何でも食べる。肉体労働なんだから消費カロリーが多い。
穀類、豆類、魚類、魚介類、海藻類、木の実類、キノコ類、芋類、野菜類、果物類。とにかく、その地域で入手できる食物はなんでも食べるというだけのことなんです。

日本人は天武天皇の肉食禁止令以来1000年間肉は食べられなかった。それは建前に過ぎなかったけど、すくなくとも牧畜はしていないし、肉の加工食品も無かった。

江戸前期の武蔵の国の貧しい農民は、正月とか祭りの米飯
を除き普段は日に一度の稗、粟、麦の雑穀飯、他は野菜に
これらをまぜた雑炊だったと言われます。
時代差、地域差はあるでしょうが粗末な食事と推定されます。
蛋白質は植物性の大豆が主でしょう。
動物性蛋白質は鳥、兎、猪、鹿などたまにしか採れません。
魚が主でしょう。
「干しか」という鰯をほしたものは、肥料として大量に使われて
おり、当時鰯は豊漁でこれと川魚(鯉、鮒)が主な動物性蛋白源
と考えられます。
鰤街道、鯖街道などの言葉はありますが、これらは富裕層の
食品で一般農民の口にはごくたまに入ったもの。
地域により虫食(専門書あり)も盛んで有力な蛋白源でした。
蝗、蜂の子など多種。
総じて有る程度は取れていましたが不充分であったことは
確かです。

肉ってのは独特の臭みがあります。肉にコショウを使うのは、臭みを消すためです。魚を煮るときもお酒やみりんを入れないと臭みが残りますよね。コショウや調理用酒がなかなか手に入らなかった江戸時代には肉類は「臭いから嫌い」って人も多かったんじゃないかと思いますよ。

そもそも仏教で肉食は制限されていましたから
全体的に、動物性タンパク質の摂取は不十分だ
ったと思われます。

魚、イノシシ、鳥などがメインですが、庶民や
貧乏武士の食卓には滅多に出ませんでした。
犬の肉も食べられていましたが、これも
生類憐れみの令により、食べなくなりました。
ちなみに、イノシシの肉を食べるのは仏教と
抵触しますので、山鯨と称して食べていました。
鯨も少し食べられていたようです。

だから、日本人は小柄になったのです。
肉食に禁忌が無かった中国人などは、日本人よりも
体が大きかったといいます。
現代でも、2cmほど背が高いという話があります。

肉食禁止は天領中心で、基本他藩は関係ないです。
そもそもの起こりは牛馬の不足で軍事輸送能力の低下がみられたため獣食禁止したのがきっかけです。
彦根藩は将軍への献上品に肉の味噌漬けがあったくらいで、江戸の文化において獣食が忌み嫌われていたかどうかは、多分に地方色次第と言えます。

では動物性たんぱくをどこから摂取していたかと言うと、やはり不足していたと言うのが答えになるかと思います。
基本的に海沿いの地域は魚を食べています。
内陸部では、鯖街道や甲府ではマグロの輸送など魚を運ぶ努力は行われますが、やはり駆け足で運んできた魚を食べられるのは裕福な人間だけです。

もちろん鳥、川魚など手に入るものは積極的に食べますが、これらも皆が十分食べられるほど取れるものではありません。
信州などの山国で蝗や蜂の子などの虫を食べる文化が進んだのも、動物性たんぱく不足の裏返しだと思います。

江戸時代にタブー視されていたのは肉食、卵、牛乳です。それは天武天皇による肉食禁止令に基づくもので生物学・栄養学的議論を経たものではありません。天武天皇は奈良時代に神道と仏教を国家基盤として確立することに勤められた天皇といえると思います。宗教的にその道を究められたという意味ではなくて、あくまで国家基盤に位置づけるという意味で保護・推進されたという意味です。だから肉食禁止は仏教に由来する価値観だといえます。

だから公然と肉を食べるのは憚られました。店を出したり、肉食を公言することも遠慮されました。内緒で食べる時でも、これは肉食禁止令には違反していませんよと表向き取り繕う必要があったわけです。猪肉を食べる時は、ぼたん鍋ですけど、何か?と言い張る訳です。

キリシタンが弾圧されたのは、彼らが公然と肉食を推進したからでもある。キリスト教を最優先の判断基準に置けば、肉食をタブー視する理由はないからです。しかし、それは日本のルールを踏みにじることになった。天皇の権威を侵すことになった。ゆえに幕府はキリシタンを弾圧した。現代感覚で見ると人権侵害以外の何者でもない。

というわけで日本では肉食は限定的なものでした。ただし、肉食の議論と動物性食材の議論を混同してはならない。魚類、魚介類、爬虫類、昆虫類、鯨肉は当然のように肉食禁止令には反しないとされました。鳥類は、家畜食としては許されなかったが肉食自体は問題視されなかった。農家は「食べる為に飼っているのではない。目覚まし時計代わりに飼っているのです。」と言い張って鶏を飼っていた。鶏肉を食べる機会はあったということです。「キジも鳴かずば撃たれまい。」

食肉禁止令の主眼は、食べることそのものを禁止するという意味より、食べることを目的として家畜にすることが禁止されたのだと思うのです。

まとめ






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