鎌倉幕府の創設者・源頼朝ガイド!「趣味・性格」「なぜ伊豆に島流しに?」「征夷大将軍になれた理由」

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はじめに

1月13日は源頼朝の命日。頼朝は平氏を倒し初めての武士による政権、鎌倉幕府を作りました。武士の偉人、源頼朝についてのQAをまとめました。

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源頼朝と平清盛の共通点と相違点を教えてください

平清盛についてはかなりよく分かっており、明確なビジョンに基いて日本をその方向を持って行こうとした立派な武士で、一方では情誼に厚い人物だったようです。これに対して頼朝はどんな人物だったかを書かれた記録が殆どないので、史実から推定するよりないのですが、たぶんよく言えば慎重な性格、悪く言えば猜疑心の塊のような人物だったのではないでしょうか。それも頼朝自身は兵力を持っていたわけでも何でもなく、北条時政の庇護を受けたお飾りでしかなかったのではないかと思われるので、その史実も頼朝の意志が反映されていたのかどうかが甚だ怪しいと思われます。
従ってその評価となると、紛れもなく自力で地位を築いた清盛に軍配が上がるのは当然の事だと思います。

人物としては、頼朝・義経の兄弟タッグで、はじめて、清盛と張り合えると思います。
ちょうど、上手い具合にお互いのないものを持っていたので、仲良くやれば、よかったんです。
機構として滅びたものは、後世、その要因は、推し量れますが、人物評としては、源氏の貴公子たちのことを伝える記録は、読み物に走りすぎたり、時代が後すぎたりで、客観性に欠けます。
(ざっくり読んで、おもしろかったですけど)
ゆくゆく、自分に仇を成す可能性がありながら、敵将の子の命を奪わなかった清盛・・・懐が深いです。

人情としては、平清盛ですが…。私は神戸出身なので、中学生時代から、源平特に平氏の史跡を見て回りましたから。神戸市民には平氏贔屓が多いし、そもそも、今の神戸市の元を築いたのは平清盛ですから(ただし、狭い地名としては、「神戸」ではなく、隣の「兵庫」ですが)。

しかし、客観的に見れば、源頼朝に軍配を上げざるを得ません。両者とも武士ですが、平清盛は武士を捨て、公家の枠組みの中で政権を握ったのに対し、源頼朝は独自の武家政権を樹立したのですから。しかも、「源氏の貴公子」でもないのですね。流人という最低の身分から這い上がったのです。

なお、源義経に対して、私は辛い評価しか与えることはできません。彼は、政治家としての能力に著しく欠けます。兄頼朝に疎まれた理由が全く分からないまま死んだのでしょう。後白河法皇から官位を授かって喜んでいたことは、独自政権を樹立しようとしていた頼朝の怒りを買うのは当然です。さらに、安徳天皇を入水させたのは、取り返しのつかない不手際です。彼は滅ぶべくして滅んだと思います。

頼朝は北条氏の操り人形だったという話もありますが、実際の評価はどうなのでしょうか

通説はどうかは分かりませんが、一説では、北条氏からいろいろは言われながらも政治の中心を自分で最後までやりきったとなっています。
その証拠として頼朝は暗殺されずにその後の頼朝の子供の将軍達は暗殺されました。

まず操り人形説ですが、関東を制圧したころから、頼朝のもとには多くの御家人が集まっています。そのころになると、北条氏の力より頼朝の力のほうが優越し、操り人形ではなくなったのではないでしょうか?そのご武家政権としての政治機構を着々と作っていったわけですが、侍所、問注所、公文所といった諸機関を作り北条氏でない御家人を長官に任命していったところを見ると、北条氏の操り人形どころか、北条氏の専横を防ぐような体制を着々と作っているように見えます。
 
 頼朝の評価といった点ですが、それまで曖昧だった在地武士の統治体制を、きちんと政権組織としての統治機構を作り上げ、その後の武家政権による支配の礎を作ったわけですから、その政治力は卓越したものがあると思います。また源氏は幕府を北条氏にのっとられるわけですが、そもそも頼朝固有の戦力や、代々の直臣や信頼できる一族郎党がいない状態からのスタートなので、個人的には彼の行動がベストであり、また限界でもあったのだと思います。

鎌倉幕府ですが、頼朝は当初東国に幕府を作る気はありませんでした。
と、いうのも頼朝の目的はあくまでも中央政府、つまり京都内での地位を高めることにあったからです。
しかし、傘下にあったのは東国の武士だったので彼らの意向を無視しては自らが滅びかねませんでした。
そこで、仕方なく作ったのが鎌倉幕府だったのです。

因みに東国武士の目的ですが、自分たちの土地が中央(平家)に搾取されていた事に対する不満から、中央から独立することでした。そこで、当初は罪人として流刑にあった源頼朝の元に集ったわけです。
つまり、父の汚名をそそぎ平家に立ち向かうための兵力がほしかった頼朝と、自分たちの独立を守りたい東国武士との間で利害が一致したわけです。
故に、この利害を無視して頼朝が京都に行くことは出来なかったわけです。

「北条氏の操り人形」だったというよりは、「東国の武士の意向を無視できなかった」というのが昨今主流になりつつある説なようです。

頼朝の趣味・性格、家族への接し方はどのようなものだったのですか

冷静で、政治家としての判断や朝廷との交渉には慎重、果たすべき義務には
果断でしたが、猜疑心がつよくて人を容易に信頼しない性格でした。
慎重な性格の背景には、13歳で父兄を亡くして流人となってから、
千鶴という息子との仲を平家の目を恐れた祐親によって裂かれ
殺されたという過去が関っているようです。
性格については、下のURLの「性格」という欄に詳しく載っています。
家族についても少しだけ下のURLに載っているのでご参考ください。
趣味についてはあまりわからないのですが、相撲を奨励し、
度々、大会を催していたそうです。

頼朝は、なぜ伊豆に島流しになったのですか?

父・兄と共に天皇vs上皇の戦いに参戦し、負けて島流しの刑を受けたのです。
以下URLウィキペディア
http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E6%9C%9D/?from=websearch

頼朝が流刑になるまでの経緯(保元の乱・平治の乱)は複雑ですので
簡単なURLを参考にしてください
http://www.os-bell.jp/history/07.php
平治の乱の後
頼朝の母が幼子を連れ清盛に命ごいに行ったとき
母、「常磐御前」のあまりの美しさに清盛は「側室」にする引き換え
に子供の処刑を見逃した、そして自分の子供と一緒に育てた
といわれています、のちに頼朝は流刑義経は鞍馬山へ、清盛は側室のもとに通いつめついに子供まで
作らせてしまいました、しかしこのことが後に平氏の滅亡になるとは
歴史は皮肉ですね

源頼朝はなぜ征夷大将軍として力を持ったのですか?

貴族や貴族化した平家の政権では
全国の武士階級の不満(主に土地の帰属争いの調停)を
納めることができなかったため、

それらの武士階級の後押しもあって、
源平の争いを制した頼朝が政権を樹立した。ということです。

征夷大将軍は、軍政を敷く権限が与えられます

征夷大将軍が出征している場所が幕府です(現地の役所)、これは坂上田村麻呂の頃から変わってはいません

それを効果的に利用したのが頼朝であるだけです

源頼朝は,反平氏の挙兵をした当初から,朝廷と距離を置いた独自の政権構想を描いており,平氏を追討した1185年には,全国に守護・地頭の設置を始めていることから,近年の歴史学では,1185年を実質的な鎌倉幕府の成立時期と考える見解が有力になっています。
 その後,日本は朝廷と幕府という曖昧な二重政権が存在したことになりますが,1192年,源頼朝が征夷大将軍に任じられることにより,源頼朝の開いた鎌倉幕府は,朝廷からも合法的な政権としてのお墨付きを得ることになりました。
 頼朝以前の「征夷大将軍」は,もちろん相当の権威はあったものの,単に朝廷配下の軍事総司令官を意味する役職に過ぎなかったのですが,鎌倉殿と呼ばれ既に東国で独立政権を築いていた源頼朝が,その地位を公認してもらうために「征夷大将軍」の官職を得たことで,「征夷大将軍」の実質的な意味も大きく変わったわけです。

まとめ

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