室町時代の豆知識

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はじめに

ドラマや小説やマンガなどにはあまり登場しない室町時代。

なぜだろう?

そんな室町時代に関する質問と回答を見て行きましょう。

知ってるとクイズ番組や時代劇を見るときに楽しくなるかもしれませんね。

STEP1なぜ室町時代に戦国大名が出てきたのか

室町時代…

学校で日本史を勉強しています、高校2年生です。
ここ最近室町時代について習っているのですが、ふと疑問に思った事があります。
室町末期、各地に戦国大名が誕生し、領国の支配・経営・拡大に乗り出します。
何故、この頃から戦国大名が出てきたのでしょうか?
色々な方の説を聞きたいと思っています。

私なりの考えを言います。
室町末期明石家で相続問題が発生した時に、明石宗全(字を覚えていないので、間違っているかも)は、一度負けたが足軽隊を編成して、盛り返しています。

この足軽隊がどこから出てきたのかを考えると、どうも、京のホームレスみたいです。

この頃の武士は一所懸命の言葉のように、封建されている土地の為に、封建主の為に戦います。
当然、勝つほうに付かなければ、土地を失うので、一度負ければ、なかなか武士は集まりません。

明石宗全は負けて、戦力不足を足軽隊で補って、集団戦術を始めて取り入れて、勝ったわけです。
当然相手も真似をします。
こうなると、金のつづく限り、ホームレスが居る限り、戦い続けれるわけです。
果ては、応仁の乱にまでなります。

では、この足軽たちは、なぜ無尽蔵だったのか?と、なります。

この時期、金閣寺や銀閣寺の建立があり、幕府の財政は破綻していました。
日野富子は全国に関所を設けて、通行税を取ります。
大坂から京都まで、90箇所以上の関所が有ったらしいです。
農民は税を納めるためには、生産物を換金する必要があります。都市へ運ぶのにどれほどの費用がかかるでしょうか?
つまり、ホームレスは経営破たんした農民である。と、言う仮説が成り立ちます。

更に、堺の発展からもこれが伺えます。
堺は港町で、海上交易の町でした。ちょうど、室町末期から大きく発展します。特に日本全国を結ぶ海上ルートを独占して、発展するのですが、当然、関所は通りません。
当然、陸上交通が関所で不活発になれば、海上交通に比重が移るわけです。

さて、戦国大名ですが、そもそも、武士は奉献された土地を守り、維持するために封建主の命令に従うのです。
しかも、基本的に戦費は自己負担。
戦争が終わらずに、年に何度も徴兵があれば、武士の経営自体が打撃を受けますね。

応仁の乱で細川家がこれを繰り返しました。そして、家老の三好家が、命令に従わなくなります。
各地で下克上(多くは現地に配置された代官が主人の言うことを聞かなくなったり、現地の地縁関係の強い大地侍)が起こります。

戦国時代の独立大名は、室町幕府が、足軽という新しい軍事組織の誕生の為に、統治調停能力を失って、また、関所などの安易な課税により、やむにやまれぬ地方的事情が原因となって生まれた。と、いうのが私の考えです。

STEP2室町時代の公方たち

室町時代の○○公方

室町時代には、鎌倉公方、古河公方、堀越公方、小弓公方、堺公方、平島公方など○○公方が乱立したいたようですが、彼らはどういった存在だったのでしょうか?
権威に加えて何かしら政治的権力を伴っていたのでしょうか?

「公方」とは、もとは朝廷を指す言葉で、室町時代に足利将軍を公方と呼び、鎌倉府という地方機関の長官も公方と称したということです。
鎌倉府は2代鎌倉公方足利氏満以降、陸奥・出羽国も管轄化になりました。
組織は幕府の機構と同じで一応独立して管国を支配していました。
つまり、ミニ幕府とでも考えてみればいいのではないのでしょうか?
鎌倉を支配する鎌倉公方、古河を支配する古河公方、・・・。

その地方の豪族たちのみこしですね。地方の大名や豪族や中央の大名たちの利害関係により分立し滅び、再興していきます。

鎌倉公方は幕府の関東支配の為の存在として持氏あたりまでは権力があったと思いますが、幕府と対立して後の古河、小弓公方の頃は地元の豪族に拠るところが大きかったでしょう。
そして関東の争乱に埋もれていく形で次第に権威すらも薄れていきました。
ついでに堀越公方などはなんの地盤も無く伊勢新九郎らの地元勢力に滅ぼされてますし、堺や平島公方は下の方も書かれている通り畿内勢力に担がれたお神輿ですね。

室町幕府は都では中々面倒も多いので先の鎌倉幕府同様本当なら武士の本場でもある東国に本拠を構えるのが理想的だったのですが、当時は何しろ南朝という敵があったので都を離れる訳にはいきません。そこで尊氏の子基氏を幕府の出先機関として鎌倉に置き関東十ヶ国を治めさせることにしました。これが「鎌倉公方」と呼ばれるものです。「○○公方」というのは「○○におられる将軍様」というニュアンスですよね。

鎌倉公方は中央の「管領」にならって上杉氏を「関東管領」にするなどして支配力を強めていったのですが、南朝という当面の敵がいたから並存出来たというだけで次第に関係は悪化していきます。やはり「二元」的な体制に無理があったのだと思いますが、遂には権力強化をはかる四代持氏がこちらも幕府の権力強化に努める六代将軍義教と決定的に対立して「永享の乱」となり、鎌倉方は敗れて持氏は自害しました。
ここで実質鎌倉公方は解体されたようなものですが、持氏の遺子成氏が長じて相続を許されます。しかし今度は関東管領の上杉氏と争って敗れ古河に逃れて「古河公方」と呼ばれる存在になりました。

戦国へと突入したように幕府権力は地に堕ちてしまったので追討を受けるようなこともなくなったのですが、古河公方は上杉家や周辺勢力の思惑を受けて内部抗争を繰り返し自ら弱体化の道を辿ります。室町末期には殆ど関東の一勢力に過ぎなくなってしまいましたが、それでも何の看板もない土着勢力にはそれなりに有難がられて、その後裔達が各地で「○○公方」などと呼ばれて小競り合いに担ぎ出されたのです。
堀越公方はそれらとは別に古河公方を牽制する為八代将軍義政が弟政知を関東に送り込んだものですが、目的地である鎌倉に入ることも出来ず次の代に北条早雲(と呼ばれている人物ですが)に滅ぼされてしまいました。

堺公方などが抜けていました。
こちらは鎌倉公方の後裔ではなく、幕府の支配力低下に伴う畿内の混乱の中三好氏などに担がれた幕府将軍の後裔達で、平島公方からは十四代将軍の義栄が出るなどしましたが、結局信長が義昭を担ぎ出したことであっさりその座を奪われてしまいました。しかし平島公方は鎌倉公方系で大名となった喜連川家共々絶えることなく続いているようです。

STEP3室町時代の産業

室町時代の産業

学校で室町時代の産業のコトを勉強しています!「きょうじ」「ぬし」「ふりうり」「ばんじょう」「かつらめ」「れんじゃく」ってなんですか??簡単でいいので教えてください。お願いします★☆

きょうじ(経師)...お経を書き写す仕事をしている人のこと

ぬし(塗師)...漆(うるし)を塗る仕事をしている人のこと

ふりうり(振売)...荷物を振り分けて運ぶ「てんびん棒」を使って商
品を売り歩いていた人たち得のこと。

ばんじょう(番匠)...大工さん

かつらめ(桂女)...魚やお菓子を売り歩いていた女性たちのことです。
京都の桂(かつら)に住んでいたので、このように呼ばれていました。

れんじゃく(連雀)...連尺(れんじゃく)と呼ばれる背負い道具を使
って商品を売り歩いていたので、こう呼ばれています。

それぞれの仕事が、今、どんな形で続いているのか、調べるともっと勉
強になりますよ。

STEP4室町時代がドラマや小説の舞台にならない理由

室町時代がドラマ小説などで舞台にならない理由

現在伝統的日本文化と言われ、海外で「日本的」といわれるような文化はその多くが室町時代に端を発しているものが多い気がします。

それほど現代の日本人に影響を与え、また期間も長かったのに、どうして室町時代を舞台とした演劇やマンガなどは少ないのでしょう。

戦国時代や幕末のような動乱期がドラマ性が高いのは分かりますが、平安期や江戸時代と比べてもかなり少ない気がします

「一休さん」や大河ドラマ「花の乱」等傑作はあるが、
やはり、南北朝を入れて、戦国幕末と比べると少ない。

・・・・というのも、足利将軍中心の室町幕府体制が、
一休さん見るとわかるが、かなり、いいかげんで、
幕府の権威も京都でると、山城国からさえ一揆で徴税できない
なさけないもの、果ては皇室の面倒さえ満足にできない
ありさまで、皇国史観的見かたでは、面白くない
忌むべきじだいということに、なるからだろう。
 合戦も、戦国期の国取り物語のような壮大さはなく、
陰湿な、お家騒動的物多く、およそ、爽快さに欠ける。

 ただし、日本人が一番愛する大人気の演劇は
室町時代を舞台としているのは、有名である。
言うまでもなく、尊氏の重臣・高師直が悪役の
仮名手本忠臣蔵である。

室町時代を舞台にしたヒット作品が出たら、そこから室町時代がクローズアップされて注目を浴びて、作品が増えると思いますよ。

『日本三大合戦』と呼ばれている合戦をご存知でしょうか?
 関ヶ原の戦い
 川中島の戦い
 筑後川の戦い(大保原の戦い)
上の2つは有名ですが、「筑後川の戦い」は知名度が低いです。これは、室町時代(南北朝時代)にあった合戦です。舞台となった地域には、たくさんの逸話が残っています。ドラマetcになるようなネタは、いつの時代にも探せばあると思います。

現代の戦国や幕末の人気は、司馬遼太郎の影響が強いような気がします。誰か、南北朝時代を舞台にした面白いドラマ・映画・小説を、作ってくれないかなぁ…。(祈)

人が物語を作るのは、昔の人の事を単純に語りたいのではなく、現在の自分の正当性を語りたいからです。
江戸時代という、文字化・出版化が進んだ段階で、「話して欲しい」偉いさん達は、戦国末期の織豊政権のなかのどさくさに紛れて出てきた人々、それ以前の事は話すに話せないのです。
典型例で言えば、甲陽軍艦とか、陰徳太平記。自称、信玄の軍師の子孫なり、大国毛利家の正当性を示す本。江戸時代の殿様達が、自分たちの正当性を明らかにするために、資料集めしたわけです。

ほんでもって、江戸期の演劇や文学は上記の元ネタを元にして作られる。現代の小説家、漫画家も、元ネタや江戸期の解釈物が元ネタですから、元ネタが多い方が、演劇やマンガにしやすいということになります。

>室町時代がドラマ小説などで舞台にならない理由

室町時代は、1945年(敗戦)まで「天皇に弓矢を引いた、国賊が統治」した事になっていました。
明治維新で、大名・名門と言われる家系には「爵位」が与えられました。
が、足利家では「明治政府から命令通りに資料を提出」しても、爵位を授かる事が出来なかったのです。無位無官です。
天皇絶対主義を掲げる明治政府にとっては、後醍醐天皇と敵対した足利家・室町時代を認める事は出来ません。
当然、室町時代に関する小説・紀行文などは少なくなりますから、市民の関心も少なくなります。

江戸時代までは、足利家は名門扱いでした。
(実際の生活は苦しかったようで、阿波徳島藩の食客・客人扱い)
幕末には、紀伊和歌山徳川家から(毎年)200両の資金援助。
明治30年までは、旧紀伊和歌山徳川侯爵家から(毎年)200円の資金援助を受けています。
「敵は本能寺にあり!」との、明智光秀も英雄だったのですよ。
明治政府の、意図的な教育の結果ですね。

戦後60年以上経っても、未だこんな社会状況なの?と思う方も多いようです。
が、京都の時代祭りでも「平成の世になって、初めて室町時代行列」が誕生したのが現実です。

一休さんは室町時代です。
世阿弥、観阿弥の小説があった記憶が…。

1573年までは室町時代なので、戦国時代には引っかかっています。

戦国時代と言うか・・・。
信長が「桶狭間の合戦」で勝利した頃は、まだ「室町時代」の筈ですけどね・・・。

まあ、確かに「太平記」くらいしか、私も思い浮かびません・・・。

>室町時代を舞台とした演劇やマンガなどは少ないのでしょう?

やはり、「演劇」にせよ「マンガ」にせよ、「人気が無い」とか「受けない」モノは作られないでしょうから・・・。
一番の原因は、そこに有るのだろうと思います。

はっきり言って室町時代は地味ですから、話が作れないのではないですか。
室町幕府の将軍も足利尊氏以外ほとんど知りません。
時代が今のようで平和すぎたのでしょうかね。

室町時代が人気がないのは何故でしょう?

室町時代を題材としたTVドラマや本は他の時代に比べて少ないように思います。
どうしてこんなに人気がないのでしょうか?
日本のルネッサンス期と呼ばれているのは室町時代ではなかってでしたっけ?それとも鎌倉時代でしょうか。

室町時代とは簡単にいうとどのような時代だったのでしょうか?

よろしくお願いします。

室町に限らず、鎌倉幕府、江戸幕府と政権が安定し幕府が開かれてからの歴史はあまり人気がないですね。
おっしゃるとおり文化は花開きますが、やはり政権が動く時、しかも有名な武将が出てきて派手な合戦を
やる時代の派手さに比べたら文化の開花の時代は影が薄くなってしまうのは仕方がない事と思います。

室町時代といえば・・・
・南北朝時代
・応仁の乱
・守護大名から戦国大名へ(下克上の時代、既成概念の破壊へ)
・金閣や銀閣に代表される北山・東山文化。
 特に後者は枯山水の庭のような日本独特のわび・さびの世界を形成した重要な時期です。
 能や狂言の確立も室町時代ですね。

新しい日本(戦国時代)を向かえるべく、古いものの形を作りながら新しいものを受け入れようと
していた時代のような気がします。
わび・さびの文化が形成されながら、一方で弱肉強食の下克上による戦国大名の台頭があったり
本願寺、日蓮宗、禅宗、キリスト教といった宗教も多様化になった時代です。

室町時代の人気物語…

一休さん
南総里見八犬伝
仮名手本忠臣蔵
もののけ姫(笑)

史実の武将物が少ないのは、戦中戦前に政府が
楠木正成などを天皇の忠臣として広告塔に使った
反動かもしれない。

 室町時代の初期は、南北朝時代で天皇家が分裂していた時代でした。戦前は、この時期の歴史をあまり真剣に扱ったり、取り上げることが少なかったようです。(不敬罪などで、警察に目を付けられるから?社会自体もあまり歓迎しなかったようです。)戦後もその傾向が続いているのではと思います。
 中期は京都に幕府を開いた足利家が、中国との勘合貿易で富を蓄積していた時代で、朝廷・公家との関係も深く、武家でありながら貴族的生活をしていました。
 従って、
1.武士でありながら貴族的という舞台設定はドラマにするには中途半端であること。
2.権力闘争・政治がらみの事件が、武士としての英雄談よりは裏の権謀術策が中心で推移することが多く、史実として分からない部分が多いこと・陰険なイメージになってしまうこと。
で敬遠されるのではと思います。

 室町時代も末期になってくると戦国大名が台頭し、多くのドラマ・小説の舞台となっている時代になります。

 尚、仮名手本忠臣蔵は室町時代という時代設定になっていますが、中身は江戸時代に起きた赤穂事件なので室町時代とするかどうかは微妙ですね。^^
 また、源氏物語・陰陽師などは平安時代です。

STEP5国人って何?

室町時代の国人の出自

室町時代の「国人」についてです。これらは鎌倉時代の地頭、悪党がそのまま地元に根付いて、その出自の者たちが室町時代に国人といわれたということでしょうか?いきなり「国人」というのが登場して、それまでこれらは何をしていたのか、わからないのです。教えてください。

国人といってもいろいろなパターンがあります。
代表的なものは
・守護、地頭の末裔
これはそのままです。守護、地頭としてその地に移り住んでいたのがそのまま国人化したものですね。中国地方にいる熊谷氏や毛利氏がこの系列。鎌倉~室町に出現した国人で、一番多いパターンかと思います。

・中央官制における守、介などの末裔
これは、藤原氏を名乗っている国人に多いです。守として派遣された人の次男あたりが住み着いたのを始まりと「している」国人です。ただし、僭称が多いため本当のことかはよくわかりません。信濃の村上氏、武蔵の成田氏なんかがこれにあたります。平安期に出現した国人ですね。

・完全な在郷領主
つまり鎌倉期以前からその地に根を張っていた一族です。三浦半島を保有していた豪族の三浦氏の末裔や、摂津の国人(ただし豪族にちかいかなあ・・)であった池田氏がこれに当たります。古くは奈良時代以前に出現した豪族です。池田氏なんかは系譜は景行天皇の末裔としていますが・・・この天皇、紀元前13年から紀元後130年の間に天皇になっていたという人でして、ほぼ間違いなく架空とされています。つまり文字として残るより昔からその地にいたのです。このタイプは、室町にはほとんど絶滅していますね。

・悪党といった新興勢力
これはそのままですね。元は農民とか何なのかよくわからないのが、勝手に領地を奪ってそこを手に入れたタイプです。

このくらいでしょうか・・・基本的には、国人とは在郷領主のことでして、同義語です。武田氏なども捉えようによっては国人となります。
その地に根を下ろして、実際に領地を持っているのが国人、ということですね。

室町になると、守護職はほとんどが斯波とかの中央官僚から選ばれて配置されたので、彼らはその土地からすれば「よそ者」なのです。
つまり、そういった「地方に根付いていない領主(つまりよそ者)」と区別するために「地方に根付いた領主」を国人と呼んでいるのです。つまり国人というのは、あくまで区別のための言葉でして、実際には平安期から、在郷領主はいたのです。それを鎌倉期になって、守護、地頭といったものが配置されると、在郷領主を国人、と呼ぶようになったのです。
で、室町になってから彼らに光があたるのですが、それ以前は中央から派遣された役人も含めて中央が強力だったのです。
しかし、室町に入ると中央が混乱して弱体化したため、歴史を動かすパワーにおいて国人の重要度が増したため、勉強の中では室町で初めて、国人、という言葉がでてくるのです。

STEP6将軍の正室はなぜ日野家から?

室町時代、将軍の正室は何故日野家から?

室町時代の将軍、足利家の正室は義満以降ほとんど公家である日野家から嫁いできていますが、何故公家としては家格の低い日野家からだったのでしょうか?
当時の将軍家は政治的にも絶大な権力を持っていたし、義満などは公家最高の地位である太政大臣にまで上り詰めているぐらいですから、御台所が日野家出では家格がつりあわなかったように思います。
何故、五摂家や宮家、あるいは幕臣として重要な地位にあった斯波、畠山、細川といった家から御台所をむかえなかったのでしょうか。

比較的非力な貴族から迎えることで、強大な外戚の出現を排除する狙いがあったとも言われていますが日野家は家格は低いながらも当時、所領集積や関の把握などによって経済的にもかなり大きな権力を持っていました

また北朝が持明院統だった頃より近侍していた日野家では、当時日野宣子が後光厳・後円融に仕えて二位の典侍となっており、宮廷の実力者であった為、朝廷の憶えもめでたく足利義満が公家社会に参入していく際に、宣子は、二条良基と並んで大きく寄与しました

ちなみに義満の後室・日野康子(業子の姪)の従姉妹・資子は時の後小松天皇の后です
康子は後小松帝の准母でもあります

経済力・朝廷での発言力に加え、その後は重子しかり富子しかり日野家出身の女性が、次の将軍を生んでいて、外戚の立場に立ち続けることができたから日野がやはり権勢を保ち続ける事になったと思います

まとめ






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