武士の終焉「大政奉還」の日。「大政奉還とは何?」「徳川慶喜が政治を投げ出した理由は・・・?」

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はじめに

10月14日は大政奉還の日(1867年)。この日、江戸幕府15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奉上し、江戸・徳川時代、武士の時代が終わりを告げました。徳川慶喜と大政奉還についてのQAをまとめました。

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大政奉還について簡単に教えてください

「幕府が天皇の言う通りの政治をしないので、武力で倒幕をして天皇の意に沿った政治をしよう」
という建前の元で、薩摩や長州が武力で京都(当時慶喜は京大阪にいた)に攻め入ろうとします。
で、「幕府は政治をしないことにする。これからは天皇が政治を行ってください」というのが、
大政奉還です。
これで薩長は武力倒幕の名目が無くなるので、戦争は起こらないはずと言うのが読み。
さらに、天皇家だけで政治を行えるはずがないので、徳川家も含めた有力大名の合議制になるはず。

ただ、結果としては、薩長は無理矢理、戦争に持ち込んでしまいましたので、当て外れです。

なお、慶喜は光圀の兄の子孫です。京都守護職松平容保も光圀の同じ兄の子孫で、父親がいとこ同士です。

大政委任論という理論があります。寛政の改革を主導した松平定信が唱えた理論で、幕府が行使している統治権は朝廷から委任されたものなのだとして正当化したものです。

また徳川家康は以下の遺言を残しています。
 わが命旦夕に迫るといへども、将軍斯くおはしませば、天下のこと心安し、されども将軍の政道その理にかなわず億兆の民、艱難することあらんには、たれにても其の任に代らるべし、天下は一人の天下に非ず天下は天下の天下なり、たとへ他人天下の政務をとりたりとも四海安穏にして万人その仁恵を蒙らばもとより、家康が本意にしていささかもうらみに思うことなし  
 元和2年(1616)

要約すれば、徳川は政治を私物化するものではなく、朝廷から預かっているだけだということです。よく読めば、いずれ徳川は統治権を朝廷に返還する日が来るだろうと家康は覚悟していたとも解釈できるわけです。

徳川慶喜は第二次長州征伐の失敗で、幕府の限界を悟っていました。いよいよ幕府が預かっていた統治権を朝廷に返上する時期が迫っていると察していたのです。徳川慶喜は将軍就任を当初固辞し続けていたように好きで将軍になったわけでもない。その頃の幕府は開国・開港を迫る欧米列強と、攘夷を迫る朝廷の板ばさみでにっちもさっちもいかなくなっていた。開国と攘夷は二律背反です。両方を実現する手段などない。

徳川慶喜は現代政治家と違って権力欲に取り付かれていたのではない。どういった手続きで徳川幕府300年の歴史に幕を降ろせば徳川家康に合わせる顔ができるだろうかと腐心していただけです。
そこに土佐藩から大政奉還の建白書が提出された。よし機は熟した。そう慶喜は判断したわけです。

慶喜はなぜ政治を投げ出したのでしょうか

徳川慶喜は、なかなかの切れ者でインテリだったと私は考えてます。

鳥居伏見の戦いで逃げ出した本当の理由は何だったのでしょうか。

また、本気で戦いを、望んでいたら当然勝てるはずでした。敗因はなんだったのか、勝っていれば日本はどうなっていたと思ういますか。


彼は側室ではなく、正室の出であることが影響していると思います。確かに多芸多趣味で玄人はだしなところがありますが、攘夷決行の日をきめておいて、江戸へ下向し、責任者の役をいとも簡単にやめる所業からもともと彼自身将軍になろうとしていなかったということが分かります。将軍になったのは孝明天皇の勅命によるものでした。彼の実家の水戸家は尊王の家でした。鳥羽伏見で錦の御旗がたった時点で勝利したとしても逆賊の汚名を着るのが怖かったのです。

徳川慶喜は、他の回答にあるように「尊皇」ですね。天皇がトップになった体制がいいと思っていた。
戦いの中で、倒幕側(新政府側)は、「錦の御旗」を持ち出してきました。
もし戦いを続ければ、徳川慶喜は逆臣になってしまいます。

質問者さんのいわれるように、本気で戦えば幕府は勝てたと思いますけど、それは徳川慶喜には、精神的に無理だったと思います。
そして、その戦いで勝てたとしても、続く戦いでは、勝利できなくて、日本の内戦が続き、そして疲弊したところで欧米の植民地になってしまっていたかもしれませんね。
中国のように、日本がいくつもに分割されて、植民地になり、日清・日露も大東亜戦争も無かったかも?そして、日本だけでなく、アジアとアフリカ諸国は植民地から解放されず、そのまま現在に至ったかも?

なぜかといわれたら、やっぱり「お坊ちゃんだった」からとなるのでしょうね。部下を殺しても自分が権力の座に居座りたいっていうほどの根性はなかったのだと思います。質問者さんも今の豊かな暮らしを守るなら他人を殺しても構わないとまでは思わないでしょ?

>本気で戦いを、望んでいたら当然勝てるはずでした。敗因はなんだったのか、勝っていれば日本はどうなっていたと思ういますか

鳥羽伏見の戦い程度は勝てたかもしれません。でも、戦術的勝利を得ることはできても、江戸幕府崩壊の流れそのものを止めることはできなかったでしょう。
当時はもう江戸幕府という政治システムは金属疲労を起こしていてどうしようもなかったのです。時代に合う政治、経済、軍事システムを作らなければならなかったのですが、江戸幕府というシステムではもう時代に対応できなくなっていたのです。
例えば、武士というのは名目上軍人という立場です。江戸には百万騎と号する旗本という将軍直轄の兵士が「いたはず」です。だけど、二百年の太平の世で旗本の誰もが「自分はいざとなったら身を張って戦う」ってことを忘れてしまっていたのですね。んで幕府も軍制改革を行うのですが、結局、幕府軍で使える部隊ってのは農民や町人を徴募した部隊だったのです。彼らを重用すれば幕府制度の根幹である身分制度崩壊に繋がる。彼らを軽んじれば幕府軍は弱くなる。そういうジレンマにいたのです。

歴史っていうのはそういうものなんです。いくらルイ16世が巧みに立ち回ったとしても、革命を起こさないで今でもフランス王国のままでいられたかというとそれは無理でしょう。同じように、江戸幕府がいくら巧みに立ち回っていたとしても、いつかは終わりがきたのです。

もしかしたら、頭のよかった慶喜はその先々まで見えていて「いくら俺が頑張ったところで、徳川体制はいずれもう持たねえよ」と思ったのかもしれないですね。ゆえに、権力の座に執着はしなかったのでしょう。

徳川慶喜はなぜ処刑されなかったのですか?

徳川方の反感を買うのをおそれたためです。
しかも、鳥羽伏見の戦い以外では慶喜は新政府とは戦っていませんので、死刑にするほどの理由もありませんでした。
(もっとあとになりますが、新政府軍と戦った、会津の松平容保すら処刑されていませんし)

先ず、孝明天皇と仲が良かった事でしようね。
元気だった孝明天皇の突然の死(公家のクーデター・暗殺説があります)によって「慶喜討つべし」との意見が大勢をしめました。
しかし、孝明天皇側近及び14代将軍家茂の正室(孝明天皇の妹・和宮親子内親王)の影の尽力だという説もあります。

慶喜を処刑すれば、旧幕府陣営は「窮鼠猫を噛む」のように猛抵抗を開始したでしよう。
事実、各諸藩が官軍として参加したのも「藩主の罪を許し・・・」と処刑しなかった事も一因です。
「窮鼠猫を噛む」は、西郷隆盛も心配していたようです。
幕府の最高責任者が謹慎する事で、旧幕府軍も謹慎したのですから・・・。
後年、明治天皇は慶喜に「公爵」の位を与えています。

太平洋戦争でも、連合国は「軍の統帥権を持っていた天皇の戦争責任」を問いませんでした。
ソ連・中国は「天皇を戦争犯罪者」として裁判を行いたかったようです。
しかし、GHQは「日本国内の占領統治手段」として責任を問う事を止めました。これで、旧軍の反乱を抑えたのです。

現在の会社でも、経営者が代わっても「全ての取締役を辞任させず、一部の取締役は留任」しますよね。
これも、社員の動揺を抑え業務を円滑に行う為です。

今も昔も、同じなんですねぇ。

関ヶ原のあと、徳川は島津と毛利の首までは要求しませんでした。
徳川慶喜は、大政奉還をしています。
大阪から江戸に逃げた慶喜は、引きこもって従順の意を示してます。
戊辰戦争では、徳川慶喜も含めて幕府の首脳陣は参戦していません。
徳川慶喜を処刑するような恐怖支配は、かえって多くの大名や武士たち
 の反感をかう恐れがあります。
天皇がトップの政権ができたことにより、江戸時代(江戸幕府)の
 終わりは十分アピールされてます。

と、まぁいくらでも挙げられますが、
本当のところ何人かは徳川慶喜らの処刑を考えていたらしいですよ。
しかし、当時の空気としては、天皇制の復活により江戸幕府の再興は
ありえないし、そんな気もおきないという雰囲気だったので
徳川慶喜を処刑する意義は、あまり無かったのでしょう。

フランスやロシア革命で王が処刑されたのは、市民革命であり
貴族や王支持の人間が大挙して国外に逃げたたため、王を生かして
おくことは危険だと考えられた面があります。
明治維新とは異なります。

中国で前王朝の王家が殺されてきたのは、王は唯我独尊で天子思想の
象徴であるためで、天皇のいる日本ではあまり考えられません。

慶喜が断髪したのはいつですか

はっきりとは言えないのですが・・・
明治30年に巣鴨邸に移ったときの写真は曲げがありましたので、
明治35年に華族(公爵)になったときに断髪されたのではないでしょうか?

徳川慶喜が大阪城から脱走したことにより、その後の幕府の命運が大きく変わったと思っているのですが、そもそも、これから戦争(反撃?)をしようとしている本陣で大将だけコッソリ抜け出すということが可能だったのでしょうか。普通に考えて側近、小姓などに見つかり止められそうに思うのですが

主要な老中・若年寄などの幕閣クラスには知らせています。慶喜が去った後始末をしなければならないので、慶喜に従う者だけでなく、残る者にも指示が出されています。大坂城代がこれを聞いて駆け付けたときにはすでに慶喜は脱出した後だったようです。脱出にともなった小姓は当然知っていたでしょうが、これを阻止することはできないでしょう。

開陽丸が停泊する天保山沖に達するには複数の城門を抜け、天保山沖までの船の手配する必要があります。船の手配は大坂町奉行に命じたという話があります。慶喜の回顧で城門を通過するときに小姓の交代であると言ってすり抜けたという話が有名です。ただし、検証されているかどうかはわかりません。

皆が納得しなかったと思います。しかし、主の命令に対して従った結果が歴史のあらわすところではないでしょうか。

一概には言えませんが、当時の主従関係については現代の我々の感覚では捉え難い面があり、慶喜と幕閣・側近との主従関係についても、個々において調べる必要があります。各自の立場や思いはそれぞれであり、決して一概に言えるものではありません。残念ながらわたしはそこまではわかりません。

副艦長の言動もその人の立場において最大限のことをしたといえるでしょう。それ以上のことはできなかったとお考えいただければと思います。

そのときの状況、人間関係(主従関係含む)、立場・地位そして性格などをできる限り調べていきますと、納得はできなくても不可解な行動を理解できることはあります。

徳川慶喜について書かれている本(参考文献が明記さているもの)を一冊選んでお読みになり、次にその本の著者が参考とした文献をお読みになると、確実に一歩、核心に迫ることができると思いますよ。

まとめ

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