稀代の教育者、吉田松蔭!「大きな実績・功績はない?」「長州藩の金策術」「なぜ自首した?」

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はじめに

10月27日は吉田松蔭の命日。反幕府派を弾圧した安政の大獄により捕らえられ、この日に処刑されました(享年30)。早すぎる死でしたが、松蔭の教え子(高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿)たちは松蔭の遺志を継ぎ、大きく歴史を動かしていくこととなります。吉田松陰とその周囲の人々、長州藩についてのQAをまとめました。


幕末の長州藩は政治活動や軍事の資金をどうやって得ていたのでしょうか?

「龍馬伝」で馬関海峡の通行税により藩の財政は潤っていたという話がありました。
もちろん海産資源も豊富だったでしょうし、物流拠点としても重要だったのでしょう。

その金で長州藩はグラバー商会から最新の軍艦10隻とメニエー銃を買ったのでしたね。

世の中には不思議な錬金術があるんですよ

五文が百文になる不思議な錬金術

まずビタ銭を6枚用意します
次に天保銭を型取りします
溶かしたビタ銭を流し込みます

あ~ら不思議
一文の価値も無いビタ銭が100文になりました
人件費は四文ほど

会津・長州・薩摩・土佐など大藩の偽金が大量に発見されています

税金取るより簡単な収入源

長州藩ですが、120万石あった所領が一気に関ヶ原の戦いで30万石まで減封になりましたが、この後、10年後の検地で実高が防長二州でまだ50万石を超えていることが明らかになりました。その後幕府との相談で37万石に落ち着きましたが、逐次新田開発を行い、幕末には100万石以上になっていたということです。
特に宝暦元年(1751年)に襲封した8代藩主重就は歴代藩主のその中でとびぬけています。まず検地を行い、8年後にはさらに4万石になる収入を得ることに成功し、この収入を藩財政には組み込まず、撫育方という一種の公社法人を設立させ、こちらの収入として充てるようにします。撫育方はこの資金を元手に明和元年(1764年)、鶴浜を開作し、伊崎を埋め立て今浦港を築港、4年後には室積・中関(三田尻)などの港整備を行います。そしてこれらの港を回船の寄港地として発展させると同時に、藩物品の販売、回船業者への資金貸し付け、倉庫貸出などを行い、莫大な利益を得ましたが、この撫育方がほぼ全てを担当しました。
また、塩田開発も進め、明和年間には21万石に上がる膨大な収益を得たと言われています。この他にも製紙、製蝋、製糖などにも力を入れていたようです。その反面、過度な年貢取り立てなどの政策は一揆に悩まされることにもなりました。

また、減封により士分より離れ帰農や商人に転じた人たちも元は毛利家の家臣であったという意識があり、それが藩内の共有意識となって階級・身分を越えて結束が強かったようです。

松下村塾の塾生ではなかった桂小五郎が、なぜ高杉や久坂を差し置いて長州藩のリーダーになったのでしょうか?

桂小五郎が長州藩で指導的立場に立てたのは、薩長同盟後です。薩長同盟を結び、第二次長州出征から長州を守ったのは薩長同盟ですので、彼は藩を救った英雄です。その結果リーダーとなれたのです。

(1)家の格が藩内では比較的高かった。
(2)江戸勤めでは、技は「千葉」力は「斉藤」位は「桃井」と呼ばれた3大道場の一つ、神道無念流斉藤弥久郎の「練兵館」塾頭を務め、江戸の長州藩邸のまとめ役を勤めると同時に、藩対抗の剣術試合では常に長州藩の顔として呼ばれていた。つまり、藩内外で名声が高かった。

特に、(2)が大きいと思います。

藩主と説き伏せる、他藩と交渉をする、そういう外交は、対外的な知名度の低い高杉や他の藩士では難しかったと思います。

松蔭は黒船で密航しようとして失敗しました。その後で幕府に自首したのはなぜですか?

密航が見つかれば死刑。
逃げてもいずれは見つかる、逃げ隠れしたとわかれば誠意が伝わらない。
逃げるのは自分が悪いと思ってるからだと思われる。
誠実に話せば自分が言ってる事を理解してもらえると思っていたようです。

吉田松陰の養父は玉木文之進という人だったのですが、この方がなんというか、非常にスパルタというかすさまじい教育をされた人で、例えば勉強しているときに松陰が蚊に食われたところをかいていたらぶん殴ったんです。理由は、今は勉強をしている、それは公式の席である、そして蚊に食われたところをかくのはプライベートな行為である、と。公式の席でそのようなプライベートの行動をするとは何事か、と。「お前は六歳にもなってそんなこともわからんのか」と。
また青年になった松陰は、あるとき友人と共に旅に出ると約束したため脱藩しました。そのとき松陰は交通手形の申請を出していて、あと何日か待てば手形は出たのです。それを「友人とはこの日に出かけると約束している。男子たるもの一度約束したことをやめるなどと卑怯なことはできない」と脱藩してしまったのです。
本来であれば脱藩というのはとんでもない重罪なのですが、なんというか、ある意味武士道を通しているし、しかも彼の行動はとても純粋な動機に基づくものなので、長州藩も出来る限り彼を大目に見てやっていたのです(江戸時代というのは、意外にも現代より情に篤いのです)。

さて、松陰の密航計画も(本人的に)純粋な動機によるものです。当時の学問と道徳の主流であった陽明学の考えに「知行合一」というのがあります。これは「知っていて行わないのは、知らないことと同じである」という思想なのですが、解釈により「考えるより先に行動せよ」ととらえることも出来ます。やりたい、と思ったらやんなきゃいけないのです。知行合一に基づけば、密航に失敗したらどうしようとか考えること自体が穢れてるのです。行きたい、密航してでも行きたい、と思ったらやらなきゃならないのです。
だから松陰としては思想的には正々堂々としたものですから、何も隠れることはない、と自首したのです。

No.1さんも書かれているように、本来は死罪ものですが、なにか変な野心があってやろうとしたことではないですし、そもそも江戸幕府の公式学問が陽明学で、その陽明学に基づいた行動ですから幕府も処分しづらいところではあったのです(やってることは大間違いだが困ったことにその思想は正しい)。

このあたりの思想は、21世紀現代日本人には理解しがたいところではありますね。でも、純粋な若者の無鉄砲な行動ってのは少し前まで日本人の心を打つものがありまして、あの日航機ハイジャックよど号事件では、実行犯の若者たちがあまりに純粋に行動したので乗客は思わず感動してしまい、乗客たちが解放されるときはみな乗客たちはハイジャック犯と握手をして「頑張れよ!」と声をかけて降りていったそうです。

吉田松陰はとくに大きく評価されるほどの実績はないと思うのですが、何か歴史的な功績はあるのでしょうか?

彼の功績はその教育者としての能力に尽きると思います。確かに封建体制下でも武士以外の教育水準は高かったようですが、長州とりわけ松下村塾ほど純粋な学問が行われていたところは少ないのではないでしょうか。門下生への分け隔て無い姿勢、己を律する謙虚さとそれを裏打ちする純粋な自尊心が、高杉晋作らが奇兵隊をつくるきっかけになったのは間違いないと思います。

勿論、その後の薩長政権が樹立したことによって評価が明るみにでたことも否定しません。

彼の凄い逸話は、山口にはたくさんあります。 七才にして、藩侯の前で、目出度い正月の進講講義を行っています。 この才能を愛でた毛利候は、彼を佐久間象山、広瀬淡窓のもとに送り、研鑽を積ませています。 公費留学生の走りだったのです。 

象山には広い世界観を、淡窓からは慈悲の心を学んでいます。 松下村塾の時の弟子と個人個人で違う接触のしかたをしています。 個性を重んじた教育の第一号だったのです。 

この塾には、武士だけでなく、志のある者は誰でも受け入れています。 後に、高杉晋作、久坂玄随による『奇兵隊』という民兵組織が出来、明治維新の達成に大きな貢献をしました。 これも、松蔭の身分を隔てぬ教育の賜物です。 彼の思想には、身分の貴賎や男女差別が見られません。 この時代の思想家としても、極めて異色の存在です。 

山口県の人は二人集まると、すぐに『天下国家』を論じます。 彼らは本当に政治の話が大好きです。 安倍晋三さんを見ていると、『ああ、山口の人だなあ』と思います。 絶対に持論を曲げないところが、山口人の良いところです。 

私はあまり幕末には詳しくないのですが、吉田松陰の功績はその「過激さ」にあったと思います。
「君」と「僕」という言葉は松陰先生が広めた言葉だそうです。相手と身分関係なくわけへだてない付き合いを実践するため、彼は自分の門下生でさえ「君」と呼び自分のことを「僕」と呼びました。身分制度が当然であった当時からすると信じられないほど過激な思想です。
それから彼の行動はイラクに行って日本中から非難された青年より過激で無鉄砲です。
黒船に乗ろうとするわ、あと数週間も待てば通行手形が出るのに待ちきれなくて脱藩しちゃうわ、はっきりいってバカとしかいえません。

しかし、彼の偉大さは失敗を恐れず行動したことです。今も昔もそうですが、たいていの人は口では立派なこといいますが「じゃあやってみろ」といわれるととたんに「いや、今はその時期じゃない」とかなんとか言い訳してやろうとしません。
彼は自分が犯罪人として弾圧されることも恐れずに行動したのです。そして、ほぼ自爆に近いような形で弾圧されます。もっと上手に立ち回ったら、決してああいう死に方はしなかったでしょう。しかし、もしそうなら決して歴史に名を残すことはなかったでしょうね。

彼の偉大さは弾が飛び交う最前線で「突撃ィ!」といって飛び出したことです。先生がそんなことしたら弟子も後に続かないと収まらないじゃないですか。先生はあっさり弾に当たって死んじゃいますが、今さら後には引けないのでみんな突撃していったというところではないでしょうか。

高杉晋作の辞世の句は「おもしろきこともなき世をおもしろく」というものですが、この「おもしろい」はどういう意味でしょうか。現代の「面白い」とはちがう気がしますが・・・

今では、「面白い」と言えば「楽しい」と同じような意味に使われていますよね。

「面白い」を辞書で調べると、本来は「美しい景色を形容する語」だったと説明されています。

本来の「面白い」とは、「パッと目の前が明るくなる」、「目の前に美しい景色が現れる」。
そんな意味だったようです。

それを読み手がなんとでも解釈できるのがこの辞世の句の優れたところだと思います。それと、未完であることもまたいいですよね。一応その場で坊主が「すみなすものは心なりけり」なんて継いでいますが、大学教授の模範解答みたいでそれこそ面白味が全くない。私は、後半は無視していいと思いますし、実際この句が紹介されるときも前半だけで紹介されることがほとんどです。文学的価値が高いのは前半ですね。

さて、私なりの解釈は「退屈で何も起きない世の中に騒ぎを起こして痛快」というような感じで捉えています。幕末の時代は平和だったけど何もなく決められたベルトコンベアーの上を淡々と過ごすだけだった泰平の時代が終わって騒乱の世となった時代です。一生何も事件が起きることなく平凡な人生を過ごすはずだったところを、色々とやって面白いことになったということじゃないでしょうか。
現代の若者の「面白けりゃいいじゃん」は受身的なんじゃないですかね。今の若者って受身でしょ。でも同じ若者でも例えばソーラン祭りをやろうといってみんなで立ち上げて祭りを実行するようになったらそれも「おもしろき こともなき世に おもしろく」だと思いますよ。
何も起きない世の中を自分の力で何かを起こしたっていう情熱ととらえています。

高杉晋作が活躍した幕末期は、まさに日本のシステムが変わろうと
していた最中でした。
海外から異国が攻め入り、清(中国)がイギリスなどの諸外国に
よって統治され、植民地化されていた実情を目の当たりにし、(実際に
高杉は清に渡航しています)「このままじゃ日本も海外にとって食わ
れる」と焦っていました。
諸外国からの不利な要求を次々と呑む徳川政権を打ち滅ぼし、新たな
国を作らなければならない。高杉が師事した、吉田松陰は「狂うことで
事態を解決する」ことを弟子に教え込みます。(狂うとは、当時の常識
に捕らわれず、自分が正しいと思うことに対して全力で行動すること)

中でも高杉は特に「狂人」になった人で、侍は規則で動きづらくなる
ので辞めてしまし、頭を沿って坊主になったこともあり、わざと異国館
を焼き討ちにし、異人の恐さを日本人に教えたり、徳川家茂(当時の
将軍)に対して、「よっ!征夷大将軍!」と野次をとばしたりと、狂人
もとい、ハチャメチャな人でした。
その狂人が最後に行った功績が、「奇兵隊」の創立です。当時軍隊と
いえば武士と決まっていたのですが、その常識を覆し、農民や町民は
もちろん、力士、商人、女、子供までも来るものは拒まずで軍隊を
作り上げました。

なにもかもが、規則や常識でがんじがらめになり自由がない世界。
(当時、自由なんて言葉はありませんでしたが)殿様はバカでも
殿様。農民は優秀でも死ぬまで農民。こんな世界はつまらん。
世の中をひっくり返して、なににも束縛されることなく、人が好き
なことを好きなようにし、好きな人と身分も差も越えて一緒になれ
る。そんな世界ができたら面白いだろう!
私は、そんな風に受け止めています。面白い世界を作るために、戦を
して、徳川政権を壊し、新しい国を興し、諸外国からも干渉されない
自由な生き方をする。これが晋作の夢、「おもしろき世」だと思います。

幕末や維新で活躍した人は名前を変更している人が多いですね(桂小五郎→木戸孝允など)。当時は改名に何か特別な意味があったのでしょうか?

幕末に限りません。
さほど特別な理由はありません。

名は体を表すという考え方があります。
元服で名前を変える、すなわち幼名と成人名が異なるのはごく普通のことでした。
家康も竹千代→松平元信→徳川家康と変えています。
信長も吉法師→信長と変えています。
義経も牛若丸から九郎義経に変えています。
幼名と成人名を変えるのは、幼児死亡率が高かったこととも関係しています。
武家だけではなく、一般の農民や町民でも変える人は幾らでもいました。

男性であれ女性であれ、年齢や立場が変われば名前を変えるのはごく普通の習慣でした。
豊臣秀吉も何度も名前を変えています。

幕末の志士も、時代が刷新されるのだから、自分の名前も変える、と考えるのは極自然だったのでしょう。
有名な政治家だけではなく、一般の人達にも名前を変えた人は沢山いました。
○衛門だの○兵衛だのは古臭いから時代に応じた洒落た名前にしようと考えたのでしょう。
現在のキラキラネームと発想はあまりかわりません。

>変名も名乗った。
変名と考えるのは現代の感覚です。通称と名乗りは別というのはごく普通でした。
通称はその場その場で決めることもありました。
家康も元信を名乗りとしていた頃には、通称として次郎三郎と呼ばれていました。
この通称も蔵人佐元康と変えています。
この他に、朝廷や主君などの権力者から功績に応じて新しい名前を貰うこともありました。
複数の名前を持つことになります。
生涯名前は一つだ、というのは現代人の感覚です。

但し、苗字だけは拘りました。苗字=家=氏族という考えが根底にあり、苗字だけは使わなくなっても温存され続けました。
江戸時代にも徳川家の子供が他家を継ぐ場合には、徳川の旧姓松平を名乗りました。

現代でも、老舗の商家などでは、稼業を継がれれば名前を代々の名前に変えられる方もおられます。
戸籍の管理上、戸籍名を変えるのに一定の手続きが必要なだけです。
戸籍に関わらず通称を使われておられる方は幾らでもおられます。

まとめ

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