明治時代、幕開けの日! 「軍人は外国人女性との結婚は×」「将棋は命懸け?」「大学進学は簡単だった?」

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はじめに

1868年9月8日(旧暦8月27日)、睦仁親王が即位。この日「明治」と改元され、近代国家としての日本が始まりました。「江戸から明治、それぞれの人間の立場の変化」「帝国軍人は外国人女性との結婚は×」「大学進学は簡単だった?」「幻の国立第三銀行」など、明治時代の気になるQAをまとめました。

明治時代、どんなイメージを持っていますか?

鹿鳴館、汽車、・・・
等の西欧文明の模倣と近代化のポジティブな側面と
西南戦争や足尾鉱毒事件
等の近代化に伴う国内の矛盾や軋轢の顕在化
さらには、
という近代化の正負両方の側面が色濃く出た時代だと思います。

個人的な感覚をいうと、
それなりに魅力は感じますが、他の時代との優劣はあまりない、というところです。

“散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする”とは、日本が開国した頃に流行った文句ですが、太政官布告によって、今までの武士、農民、町人の身分の象徴だった髪型と服装が自由になって、さらに武士の身分の象徴であった帯刀も許されるという身分制度からの解放がなされました。
急速に西洋のいろんなものやことが導入・浸透して、数百年続いた江戸時代の後に、よくもまあこんなにすんなり柔軟に庶民が受け入れたものだなぁーと驚いたのですが、一方で廃仏毀釈は半ば寺社破壊運動となって、今もし現存していたら法隆寺レベルの国宝であった内山永久寺のような寺社も跡形もなくなくなって、宗教美術・芸術品が海外に流出してしまった残念な部分もあった時代だと感じます。

富国強兵。突貫工事。

欧米の植民地にならないためには肩を並べるしか無いと、今までの自分を捨てて丁髷まで切り落とした英断。ある日突然、自分たちの生き方は間違っていたと認めるのはいかに大きなことかと思う。

大工場組織がなくても早急に繊維工業を立ち上げるために各家庭で蚕を飼わせた、皇室が未だに蚕を育てているところにその名残が見られる。

永遠に続くであろうと思われた江戸時代を断ち切り、新時代を発足させたが選んだ国歌は君が代。和歌の調べに実は日本の心は残したのだと「千代に八千代に」思う。

太平洋戦争も終わり、昭和も終わり、平成は困難を抱え、日本は様々な衣を纏っているが、芯には誰にも媚びない大きな意思があるものと信じたい。明治はそれを見せてくれた気がする。やればできるじゃん、と。

江戸から明治、天皇、貴族、大名、庶民の立場はどのような変化がありましたか?

天皇・貴族は、特権・利権が増えました。
幕末に(岩倉具視に暗殺されたとの説がある)孝明天皇によって「朝敵になった貴族が、復権」しています。
明治新政府に重役になった公家は、多くが孝明天皇によって「朝敵・逆賊」になった者達です。
大名にとっては、特権・利権が(1945年まで)維持されました。
国政に参加する事が出来なかったのですが、国政に関与する権利を得ましたしね。身分の保証も、爵位で続きました。
五箇条のご誓文「広く会議を興し、万機公論に決すべし」にも、公家・諸侯・藩士で会議をして決めよう!と述べています。
庶民にとっては、幕府・大名から新政府へ支配者が代わったに過ぎません。
(五箇条のご誓文の)「この広く会議を!」には、一般庶民は含まれません。翌日だされた「5榜」では幕藩体制の庶民統治政策継続を公言しています。
例外的に、一番苦労したのは「足利家・明智家」なんです。
幕末までは、各大名・旗本などから尊敬の念を受けていたのですからね。
ところが、明治政府になって「足利家は、天皇に弓をひいた」として逆賊扱いになりました。
明智家も、謀反をおこした大罪人としての扱いとなりました。
足利家は、爵位を授かる事が出来ませんでしたよね。
京都・時代祭りでも、室町時代が行列に入ったのは最近の事です。

江戸時代までは、天皇は征夷大将軍任命などの「権威」であり、貴族はそれに準ずる立場でしたが、政治的には実権(権力)を持っていませんでした。

 明治期になると、法的に実権を持つようになりました。立憲君主制で、専制政治ではありませんが。

 天皇は形式的には、日本の統治権者。最高権力者。

 貴族は、枢密院(元老)や貴族院を通じて政治に参画できる立場になりました(元大名など新生貴族も同じ)。

 大名クラスは、版籍奉還で領主の地位は失いましたが貴族、つまり公、侯、伯、子、男爵のどれかに加えられ、元領地の知事や貴族院議員などになりました。

 つまり、領主ではなくなったものの、支配的官僚として一定範囲を統治しつづけ、報酬・給料を得られました。

 一般の武士についてはお尋ねではないですが、俸禄を受け取る権利を失い、代わりに国債などをもらって庶民へ格下げですね。

 国債を売って、それを元手に商売などに手をだしたものの、「武士の商法」という言葉がありますが、そういうことをやって大半は没落。

 旧藩などでまとまって、北海道などへ移住した武士階級もかなりあったようです。

 一般庶民は、とりあげて書くほどの変化はありませんが、庶民階級でも特に優れた人たちは経済力を持ち、衆議院の議員や地方議会の議員となって政治に参画できるようになりました。

夏目漱石の本を読むと「お前は大学にでも行きなさい」と言われて帝国大学に進学したりしていますが、大学進学は簡単だったのですか?

逆ですね。進学率は10パーセント台の時代です。
経済的には、金持ちか、パトロン(資金援助者)がいないと行けませんでした。田舎の資産家が山を売って行かせたとか、兄弟親戚の中で、1人を親戚中が援助して行かせたとか。そんな世界。戦後直後までそんな感じです。
学力的には、もともと受験専用の勉強なんてない時代に、自発的に周囲に「あの子は優秀だ」と評判が立つ子が大学に行く時代です。模試があるわけでもなく、自分自身が全国の何番かなんてのも分からない。その中で、あの子は優秀だ、という評判が立つ、そんな感じです。
つまり、周りが遊んでいる中でも、勉強をしているような、大人と同じ基準で日頃の言動で頭がいいと思われる、そんな子ということですね。

だから、
  父が「お前は大学にでもいきなさい」
という発言には、父親の経済環境が、大学進学をカンタンにいえるくらいの良家である、ということと、周囲からあの子は大学に行かせる子だよね、と思わせているくらいの資質がその人の子ども時代にあった、ということですね。

ちなみに、経済環境がない人が、どのくらい大学進学が苦しかったかは、野口英世の伝記を読むと分かります。この人、今では、悪評も多いです。
貸した金を返さない。すぐ、金を借りにくる。死ぬほど勉強や研究をしたが、才能はなかった。たいした成果を挙げていない・・・。
でも、貧しい中で子どもを大学に行かせた母親と、それに必死に答えようとした子どもの物語として、昭和の時代までは、美談、目指すべき「親子」の姿として愛されたんですね。
明治時代の文士は、結局は、貧しい人も、結局は親は標準以上の環境で育ったわけで、こういう話は書けないわけです。

「明治時代の将棋の対局は、時に命懸けの真剣勝負」という記述を読みました。血生臭い騒動に発展することもあったということでしょうか?

江戸時代のプロの将棋棋士は4家の家元に属し
家元には幕府より扶持が与えられていた。

明治になり扶持がなくなったため、将棋で生計を
立てているプロは、稽古料では食えず、真剣勝負
といわれる賭け将棋で生計を立てることもあった。

棋士は自分が賭けるほか、スポンサーがついて
勝負にきわめて多額の賭け金が乗ることも多かった。
(賭け金より礼金をわけて貰う)
スポンサーに迷惑をかけぬ様、眼が血走り鬼気迫る
ものがあったという。

当然勝負についてトラブルは少なくなかった。
このような闇の世界のことで、あまり伝わっていないが
関根金次郎については資料があるという。
将棋界では血生臭い騒動にまでなったのは、私は
知らないが、囲碁界では水谷七段が若いころ、賭け
碁で勝った所、負けた方のスポンサーより闇討ちに
会い滅多斬りされ、危うく命を失うところだったという。

将棋が新聞に載るようになったのは、明治30年頃で
賭け将棋が減るのはずっと後のこと。

明治の軍人は外国人女性との結婚は禁止だったそうですが、なぜですか?

戦前の帝国陸海軍の将校・士官(高等武官)が結婚する際には、陸軍(海軍)大臣の許可を要しました。「陸軍将校・海軍士官たるもの、結婚する相手をきちんと選べ」ということです。

実際に不許可になった例がどのくらいあるのか分かりませんが、日本海軍の造船士官であった堀元美氏の著書「造船士官の回想」の中に

* 婚約者の兄弟が陸軍将校で、2・26事件に関係して刑を受け、免官された。
* そのため、結婚の許可が得られるかどうか危ぶまれた。
* 仮に結婚が不許可となれば海軍を辞める決意をして、願書を出したら特に問題なく許可を得られた。

というエピソードがあります。

「どのような場合に不許可にするという明文の基準はなく、不許可にするかどうかは軍当局の一存であった」
ようです。

私の知る範囲で、陸海軍の将校・士官で奥さんが外国人であったという例はありません。上記の「陸軍(海軍)大臣の許可」というフィルターが機能していたということでしょう。

明治時代の国立銀行ですが、第一銀行、第二銀行、第四銀行、第五銀行があるのに、なぜ第三銀行はないのですか?

国立銀行という名称は、アメリカのナショナル・バンク(連邦法に準拠して設立された銀行)の訳語ですが、国立銀行といっても政府とは資本関係のない、純然たる民間の銀行です。

それはさておき、最初に設立された国立銀行は、第一国立銀行、第二国立銀行、第四国立銀行および第五国立銀行の4行です。
国立銀行には内認可順に番号が付されましたが、なぜ第三国立銀行は存在しのかというと、本来第三国立銀行は、江戸時代の大手両替商であった鴻池善右衛門などからの出資をえて大阪に設立される予定でしたが、第1回の株主総会が紛糾し、営業開始前に解散してしまったからです。

なお、現在、三重県松阪市にある第三銀行は、他の番号付きの銀行とは異なり、国立銀行とは無縁です。

「坂の上の雲」を読みました。当時は船同士の交信や連絡はどのようにとったのでしょうか。また、多くの人が海外留学していたようですが、外国への手紙などは船などで運んでいたのですか?

無線です、無線電信(無電とも言います)

国内では和文モールス符号を使っていました。

郵便は、国際的に認められていたので郵袋とよばれる袋に入れられて金庫に入れられて、そりゃもう厳重に運ばれていました、この時の郵便局員は拳銃を携行して郵便物を守っていました(警官にまだ拳銃の携行が認められていないころにです)

頻繁に船の往来が無くとも確実に届く物でした、まあ届くのに何年、というのはありましたが(^_^;

無電を使った郵便というのもありました、その名残が今の電報ですね。

まとめ

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