地図の日特集 伊能忠敬のエピソードや「地図はなぜ北が上?」「測量士になるには?」

  • ガイド ( How to )
  • ありがとう数:0

はじめに

Photo by OたすK隊
はじめに 1800(寛政12)年4月19日、伊能忠敬が蝦夷地の測量に出発したことを記念し、この日は地図の日となっています。商人として成功し、50歳で隠居したあとに日本中を周ってすばらしく正確な日本地図を作った偉人。そんな忠敬のエピソードと、「なぜ地図は北が上なのか」「地図好きの芸能人」など地図にまつわる様々な面白い話をご紹介します

伊能忠敬、どんな人?

Photo by OたすK隊

伊能忠敬は今の香取市佐原の作り酒屋の主人でした。
商才があり店を大きくし、資産家になりました。
50才で隠居し勉強を始めました。
江戸で幕府の天文方の高橋至時について天文、測量、数学
を学び高度な知識を得ました。
その頃日本近海に異国船が現れるようになり、危機感を
持った幕府は日本全土の正確な地図作製を計画し、56才の
忠敬は高橋の推挙でこの役目を務めることになりました。
以後はご存じの通りです。

注)それ以前の全国地図は各藩で測量したものを、継ぎ合わせ
たもので、正確さにばらつきがあり、また空白地帯もあったので
忠敬の働きでやっと全国を通したものが出来ました。

江戸後期の測量学者。本名、神保三治郎。千葉県九十九里町に生まれ、18歳の時に酒造家伊能家の婿養子となる。彼が伊能家に来た時、家業は衰え危機的な状態だった。忠敬は倹約を徹底すると共に、本業以外にも、薪問屋を江戸に設けたり、米穀取り引きの仲買をして、約10年間で完全に経営を立て直した。1783年(38歳)の天明の大飢饉では、私財をなげうって地域の窮民を救済する。こうした功績が幕府の知る事となり、彼は苗字・帯刀を許された。やがて50歳を迎えた忠敬は、家業を全て長男に譲り、幼い頃から興味を持っていた天文学を本格的に勉強する為に江戸へ出る。浅草には星を観測して暦(こよみ)を作る天文方暦局があったからだ。

※人生50年と言われていたこの時代、隠居後は盆栽を育てたり孫と遊んだり、のんびり余生を送るものだけど、50歳から“勉強の為に”江戸に向かう知識欲、知的好奇心の大きさにオドロキ!

暦局に着いた忠敬は、この当時の天文学の第一人者、高橋至時(よしとき)の門下生となった。第一人者とはいえ、高橋至時はまだ32歳。一方、弟子入りを申し込んだ忠敬は51歳。忠敬は家業を通して、長年人を使う立場にあった男。しかも時代は儒教精神から年上は常に敬われ、メンツを何より重んじる封建社会だ。普通の男なら、20歳も年下の若造に頭を下げて弟子入りを請うことに抵抗があるだろう。しかし忠敬は違った。燃え盛る向学心の前では、そんなプライドなど取るに足らないことだったんだ!

当初、至時は忠敬の入門を“年寄りの道楽”だと思っていた。しかし、昼夜を問わず猛勉強している忠敬の姿を見て、彼を“推歩先生”(すいほ=星の動き測ること)と呼ぶようになった。忠敬は巨費を投じて自宅を天文観測所に改造し、日本で初めて金星の子午線経過を観測したりもした。
この頃、暦局の人々の関心ごとは、“いったい地球の直径はどれくらいなのか”という疑問だった。オランダの書物から地球が丸いということを知ってはいたが、大きさがよく分からなかったのである。そこで忠敬は「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる」と提案。この2つの地点は遠ければ遠いほど誤差が少なくなる。師弟は考えた…江戸からはるか遠方の蝦夷地(北海道)まで距離を測ればどうだろうか、と。
当時、蝦夷地に行くには幕府の許可が必要で、至時が考えた名目こそが“地図を作る”というものだった!外国の艦隊がやって来ても、幕府には国防に欠かせぬ正確な地図がなく、そこを突いたのだ。結果、幕府は蝦夷地はもちろん、東日本全体を測量しても良いという許可を与えたのだった。(ただ幕府の援助はなく、すべて自費。忠敬は30年間しっかりと家業を勤めてきたから、この測量が可能だったのだ)
忠敬は幕府に手紙を送った「隠居の慰みとは申しながら、後世の参考ともなるべき地図を作りたい」。

1800年(55歳)、忠敬は江戸を出発。測量の方法は、歩幅が一定になるように訓練し、数人で歩いて歩数の平均値を出し、距離を計算するというものだった。目撃者の記録には「測量隊はいかなる難所もお通りなされ候」とあり、雨、風、雪をものともせず、海岸線の危険な場所でも果敢に突っ込んでいった。
昼は測量、夜は宿で天体観測し、両者を比較しながら誤差を修正、各数値の集計作業に追われた。江戸にいた至時は手紙を書いて忠敬を励ました「今、天下の学者はあなたの地図が完成する時を、日を数えながら待っています。あなたの一身は天下の暦学の盛衰に関わっているのです」。
忠敬は3年間をかけて東日本の測量を終え江戸に戻ると、さっそく本来の目的であった地球の大きさの計算に取り組んだ。その結果を、後に至時が入手したオランダの最新天文学書と照らし合わせると、共に約4万キロで数値が一致し、師弟は手に手を取り合って歓喜したという。この時忠敬が弾き出した数値は、現在分かっている地球の外周と千分の一の誤差しかない正確なものだった!
しかし、その喜びの中、至時は天文学書の翻訳等に無理を重ねたため病に倒れ、翌年39歳の若さで永眠する。忠敬は深く打ちのめされた--。

半年後、11代将軍家斉に東日本の地図を披露し、そのあまりの精密さに、立ち会わせた幕閣は息を呑んだ。そして忠敬には“続けて九州、四国を含めた西日本の地図を作成せよ”と幕命が下る。彼の測量はもはや個人的な仕事ではなく、多くの人の期待を担う正式な国家事業に変わった!
1805年(60歳)、再び江戸を出発。今度の測量隊は時に100人以上になることもあった。忠敬は暦方の皆から「西洋人が科学に携わる時には、自分の為にではなく、人の為、天下の為に命がけでやるといいます。天に尽くすつもりで事業を達成されますように祈っております」と励まされた。
だが西日本の測量は、体力が衰え始めた忠敬には過酷だった。3年で終わるはずが、内陸部の調査が加わったり、思いのほか四国が広かった為に、予定の3年が経っても九州は全く手付かずだった。ようやく九州に入った忠敬が娘に出した手紙には「(10年も歩き続け)歯は殆ど抜け落ち一本になってしまった。もう、奈良漬も食べることが出来ない」と書かれていた。また、ずっと相棒だった測量隊の副隊長がチフスで死んでしまう悲劇もあった--。

そして、1815年2月19日!最終測量地点の東京・八丁堀で、忠敬はすべての測量を終えた。時に忠敬70歳。彼が15年以上かけて歩いた距離は、実に4万キロ、つまり地球を一周したことになる!
あとは各地の地図を一枚に繋ぎ合わせるだけだ。地球は球面なので、地図という平面に移す場合の数値の誤差を修正する計算に入った。だが、既に高齢になっていた忠敬は肺を病んでしまう。そのまま忠敬は回復することなく、1818年、73歳で病没する。高橋景保(至時の息子)や弟子たちは“この地図は伊能忠敬が作ったもの”、そう世間に知らしめる為に、彼の死を伏せて地図の完成を目指した。
1821年、江戸城大広間。幕府の重鎮が見守る中、ついに日本最初の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」が広げられた。これらの地図は3万6000分の1の大図が214枚、21万6000分の1の中図が8枚、43万2000分の1の小図が3枚という、途方もない規模のものだった。

記念館に最新の日本地図と忠敬の作った日本地図が比較展示されているのですが、ほぼ変わらない完成度で本当に感動しました
http://www.city.katori.lg.jp/museum/introduction.html

忠敬のエピソード

Photo by OたすK隊

測量の時、刀は「竹光」だった。真剣なら磁石が狂ってしまうので。

婿養子で伊能家に入ったが、妻に尻に敷かれていたらしい。

苦労を重ね、自分の歯は1本だけになってしまった。

先生の高橋至時は、「生徒」より20年近く年下だった。

私が知っている「エピソード」は以上のようなものです。なお、次のような因果は巡るといった話もあります。間宮林蔵が伊能忠敬の弟子となり、測量に協力した。伊能の努力の成果である日本地図を高橋至時の息子・高橋景保が所有していたが、これをシーボルトに渡してしまった。このシーボルト事件は間宮林蔵が密告したとされる。

この短い記述だけでも忠敬の温厚で努力を惜しまない人柄がうかがえますね

忠敬の趣味は?

Photo by OたすK隊

── 三治郎は後になって、碁が時間を費して、学問の妨げになること
の多いのに気づいて、好きな碁も思い切って廃してしまいました。年を
取ってから、お客様用に、碁盤は家に備えておきましたが、自分は二度
と碁石を手にしませんでした。
──  森 銑三《おらんだ正月 19781009-19890812 冨山房百科文庫》P146
 
 伊能 忠敬(幼名=三治郎)17450211 千葉 18180517 73 /延享 2.0111~文化15.0413

勉学のために大好きな碁もきっぱりやめる。中途半端ではだめだと思ったのでしょうね。意志の強さを見習いたいです

なぜ地図は北が上なのか?

Photo by OたすK隊

まず、方角を示す一番正確なののは星を使った測量です。そこで重要なのは北極星なのです。実際にはほんのわずかに動いているのですが、見た目はほとんど動いていない星として認識されています。
 動かない基準を向いて地図を使うでしょう。そこから北が上になったと考えられます。
 それと、今の文化は北半球の文化です。それ故に北を中心としています。針の動きも日時計の動きから来ています。

 現在では使いやすいように南半球では南向きになっていることもあるそうです。それと基準があることで誰が見ても方角を合わせて見ることが出来ます。

 北極星以外の基準はあるのか?
 残念ながら南極星はありません。北極星のような星が南の極に無いからです。南十字星などを元に南を知るそうです。太陽は月は?これも使えないのです。必ず真西、真東を通過しないからです。そういった事から基準となるのは北極星になり、必然的に北になると思いますよ。

船乗りも星を目印にした天測というものをしていましたね

世界地図を見ると日本が他の国より大きく見える気がします

Photo by OたすK隊

普通一般的に出回ってる地図は『メルカトル図法』の世界地図
です。
 これは図法は北に行くほど面積が大きくなるのです
ですので、でミャンマーより日本が大きく見えるのは当たり前ですが
日本より北の地域は日本より面積が大きくなるので
 日本より北の国家は日本より多く見えますので日本より大きくなります。
 ですので日本だけ大きく見えることは無いはずです

世界の面積が正しい地図を見たいなら
『ランベルト正積円筒図法』の世界地図を見ることをお勧めします

いろいろな地図がありますが、それぞれ特徴や長所・短所があるのですね

測量士になりたい!

Photo by OたすK隊

測量士になるには、国土交通省が実施する試験に合格して登録を受けることでなれます。
下記に参考URLを参考にしてください。

私は測量を18年以上やっていましたが、
測量会社は100人以下の中小企業がほとんどです。
月給はまちまち。(総支給額で約15万から約35万くらい)
経験がないとトライアル雇用やアルバイト修行でしょう。
測量関係学校出身なら測量士補はもってますから、
正社員初任給で平均総支給額約17万くらいでしょうか。
(アルバイトなどはそれ以下です)
しっかり出来るには3年以上実務経験は必要だと思います。

ちょっと現実をかきますが、
日中は現場作業、帰社後内業のパターンです。
体力がないと厳しいです。
退社するのは20時以降はザラです。
この時代測量だけで生活するのは厳しいです。
土地家屋調査士や司法書士、土木施工管理士、建築士などと
併せ持つ必要があります。
特にいまは情報処理知識が求められています。
(現場取得データを解析計算整理、既存図面のデジタル処理化などあります)
測量といっても、目的によっていろんな種類があります。
(基準点、水準、地形、用地、工事、写真などなど)

と、ちょっときつい仕事のような状況を書きましたが、
でも、自分が測量して道路ができあがったり。
苦労して測量をした結果が、いろんなことにつかわれていたり。
測量は社会の「縁の下の力持ち」!!
これがないと、社会基盤が成り立たないという「やりがい」はあります。

この仕事に、興味をもっていただく方がいるのはうれしく思います。
ぜひ今度6月公開の映画「劔岳点の記」をお勧めします。
先人の苦労物語をごらんになって、さらに興味を持っていただけたら幸いです。

ちなみに国土地理院の試験概要はこちら
http://www.gsi.go.jp/LAW/SHIKEN/SHIKEN-top.htm

地図好きの有名人っていますか?

Photo by OたすK隊

断然タモリさんです。
大分前にタモリ倶楽部で「日本地図センターにやってまいりました!」
の特集がありました。
大変な地図マニアで月刊測量も読み、また、日本坂道学会の副会長を務めています。


http://www.kikanshi.net/archives/286/002957.html
月刊測量

番組で「日本の活断層の分布図」という分厚い本をプレゼントされて、ものすごく喜んでいました(笑)。しかし月刊測量という雑誌もあるんですね

このユーザなら私の疑問や悩みを解決してくれそうと思ったら、
質問への回答をリクエストすることができます。

特集


OKWAVE若者応援スペシャル企画

ピックアップ

ページ先頭へ