小難しい言葉を使って、哲学を語る人々

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はじめに

最近特にそうだが、難しい専門用語を用いて哲学や心理学を語る人々が多い。しかしそれは問題であろう。なんと言っても学問的な事柄は、分かりやすく語る必要がある。私自身も自分の思想を判りやすく語る特訓を二年間ほどした。その結果、ある程度は分かりやすく物事を語れるようになった。だがここで忘れてはいけない事がある。それは聞き手もある程度、簡単な専門用語を知っておくという事である。あまりに専門家が無理やりに言葉をいじくり、専門的な事を話し言葉にすると反対に余計理解しにくくなる。これは真実である。そして双方の歩み寄りがあって初めて相互理解が成り立つのである。ミシェル・フーコーがその著書の中で、「文体がいくら難しいといっても、それは作者の特性を反映しているものなので、こちら側が理解を推し進めなければならない。」と、言っている。まあ、これは半分合っているが、もう半分は間違っている。さきほど私が述べたように相互に理解を推進する必要があるのはすでに明白なのである。
 

STEP1

もちろん、わざと衒学的に書く必要もある。カフカやニーチェの「ツァラトゥストラ」はその類である。彼らがそう書いた理由は意識的だろうと、無意識的、ようはその人の性格、だろうとどちらにしても明白である。それは読者に考える事を促すためである。これが衒学的に書く主な理由である。また「新約聖書」と「旧約聖書」も相当に衒学的である。けれどこの聖書の衒学的な理由は前野とは違って、ほかの所にある。「旧約聖書」の場合は、半数以上が著者の理解不届きであったためにそうなったのである。ダヴィデ・ソロモンが書いたものは別格ではあるが。ともあれ、「旧約聖書」や「新約聖書」は著者自身の認識不足が目立つ。しかし使徒パウロが書いたものは、明らかに本人自身、分かっている事を書いているし、読んでいても面白い。ようするにどれだけ著者が物事を深く洞察できているかに本の出来ばえはかかっている。

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