節分の起源と歴史

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はじめに

Photo by ぽたる
節分といえば豆で鬼を退治して福を呼ぶ行事として定着していますが、そもそも起源はどこでどういう経緯をたどってきたのかご存じですか?節分はどんな歴史をたどって現在の形で定着したのでしょう?

STEP1

まず節分とは立春・立夏・立秋・立冬と、季節の分かれ目の前日すべてが節分です。このうち春の節分が正月行事のひとつとして重視されたので(旧暦では立春が正月に近接していますが、新暦では立春が2月4日に固定されているため、厳密に言えば現在の正月は「春」をまだ迎えていないことになります)

 

STEP2

もとは古代の支那で時節の変わり目に行われていたこと行事です。日本では「難遣(なや)らう」「鬼遣(や)らい」ともいわれて、『続日本紀』に天武天皇の慶雲三年(706)十二月に初見されます。
宮中では大晦日の戌の刻から開始され「方相氏(ほうそうし)」が咒文を読み矛で盾を3度打ち、群臣が東西南北に分かれて桃弓葦矢を射って、悪鬼疫神を駆逐しました(ちなみに当時の「鬼(キ)」には死者や祖霊という意味があり、現代のようなキャラクター化した「鬼(おに)」とは微妙に異なります)
しかし平安末期には、本来は邪気を祓う役割の方相氏が鬼と誤解され、群臣に追いかけられる演出がされるようになりました。


 

STEP3

節分の豆まきは室町時代ごろには文献に登場し、『花栄三代記』応永三十二年(1425)正月八日には「天晴、節分大豆打役、昭心カチグリ打、アキノ方申ト酉ノアイ也、アキノ方ヨリウチテアキノ方ニテ止」とあり、『臥雲日件録』文安四年(1447)十二月二十二日条に「散熬豆因唱鬼外福内」などとあり、当時すでに大豆・搗栗(かちぐり)をまいて邪気を祓い、「鬼は外、福は内」と唱えられていたことが分かります。古代支那では穀物は生命力・解毒・魔除けの咒力があり、大豆を咒術に使った漢民族の風習が伝わったものと考えられます。

 

STEP4

現在、鬼の面を付けて行う豆まきも単なるお遊びでなく、追儺と豆による邪気払いがひとつになり庶民化したものでしょう。ですからその形式は、民衆の間で培われてきたので、決まり切った形式はあってないようなものです。地域独自の特性が重視されます。

ちなみに「豆を年齢のひとつ多く食べる」のも、節分行事がもともと年迎えのための正月行事のひとつだったからです(当時は正月でひとつ年をとりますからね)。

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