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  • 「人を殺してはいけません」

    「人を殺してはいけません」 なぜですか?

    2001/06/20 11:25
  • ダンス!

    うちの高校は体育祭のダンスが有名で毎年人がたくさん集まります。 今年は私が三年生になりダンスを作ることになったのですが、なかなかいい曲が浮かびません。 先生や保護者の方も知っている曲で感動できるけど盛り下がらない曲を探してます! ちなみに去年の優勝クラスは最後に「大都会」を使っていました。 そのほかにダンスや衣装の案も思いついたら教えてください。 ちょっとわかりずらかったかもしれないんですけど、よろしくお願いします!

    2002/05/18 22:05
  • 6÷2(1+2)=?

    「ガジェット通信」 2011年5月6日より 「6÷2(1+2)=?」という小学生レベルの問題? 大勢の人が「1」と答え半分以上が不正解 http://getnews.jp/archives/114382 私も最初は1と答えました。正解は9ということです。 小学生レベルの問題に間違うとは・・・と落ち込んだのですが・・・ やはり1で合っているような気がしてなりません。 本当の正解はなんでしょうか?

    2011/05/07 00:09
  • この世に 悪は 存在しない。

     ( a ) 悪は存在しない。  ( b ) 主観としての善をねじ曲げ傷つけること これが悪である。  ( c ) すなわち 善は それとして存在するが 悪はその善の損傷としてこれをひとことで悪と呼ぶ現象があるのみだ。  この問いを あらためて問います。    たたき台を あらためてさらにおぎないます。    ( d ) 悪という現象は こころのへそ曲がりに発します。うそ・いつわりのことです。このとき人は やましさや後ろめたさを感じ 時に顔を赤らめます。  ( e ) ウソと言う限りで ウソでない心のありかまたはあり方があるはずです。それを 善と呼びます。一人ひとり《わたし》の主観によって決まります。そのとき 悪は 善のひねくれ・ねじ曲がりでありそれが くせとなれば 善が損傷を受け欠けていきます。  ( f ) つまり悪は 悪というものが何か・どこかに 他の一切のものから独立して存在するのではなく そうではなく 善が減少していくにつれ現われるに過ぎないという考え方です。  ( g ) 自然本性と言うべき心としての善――おのれが捉えている善です―― これが減ること・またこの善を減らすこと これを悪と呼ぶ。またその善が減った状態のことも 悪と呼ぶ。  ならば 悪は存在しない。その名で呼ぶ現象があるのみ。   

    2012/08/30 15:39
  • けんかをしては 何故 いけないのか

     ここでは けんかを 口論にしぼってください。  つまり 自己批判をふくめて 批判をすることです。  存在を愛し 思想や行動を憎むことです。  なぜ いけないのでしょう?  理由が分かりません。おしえてください。

    2009/03/17 07:45
  • われらが審美眼は 劣化したか

     つぎの評言について解説してくださいませんか。  ▲ (木村重信) ~~~~~~~~~~~~~~  ( a ) イメージはロゴスに従属するのではない。  ( b )  ロゴスはイメージから抽象され、イメージの働きを基礎にして、象徴的な思考が可能になり、その結果として哲学や科学などがうまれた。  ( c ) このイメージないしその記号としての美術の本質は変貌であって、発展ではない。  ( d ) 進歩、退歩とか開化、未開とか言われるが、これはすべてのことをロゴスに翻訳して考える習慣が我々にしみついているからである。   ・木村重信著作集〈第2巻〉:はじめにイメージありき    (1925~ 民族芸術学 美術史学)  ▲ (同) ~~~~~~~~~~~~~~~  ( e ) 現代美術の著しい特性として、即物的傾向をあげることができる。  ( f ) 抽象美術はシュジェ(* 主体?)意識の否定という形で、シュルレアリスム美術は日常的意識を否定することによって、共にオブジェへの傾きを示す。  ( g ) 作品がオブジェとして即自的に完結することと、普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること、この総合を求めて現代美術家は茨の道を歩む。   ・木村重信著作集〈第6巻〉:現代美術論  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 質問者の受ける感触としては――この木村の著書を読んでいないという事情にあります(つまりこれらは 紹介文です)が―― 現代人は美の感覚が劣化したのではないか? というものです。  ( g )については 《作品がオブジェとして即自的に完結すること》そのものの中に その美術を前にして《普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること》は含まれているはずだと見ます。そう見るゆえに 劣化の心配が起きます。  ( a )などの《ロゴスに従属するのではないイメージ》というのは 《ロゴス(ないし コギト=思考)に先行する〈ひらめき(つまり クレド=非思考の場)〉》と解します。そう解したうえで( b ・ c ・ d )について同じ考えを持ちます。  ぢゃあ イメージはどこに位置するのか? はっきりとは分かりません。イメージとすでに成っていれば それは《ひらめきが 何らかのすがたかたちを現わした(つまり 表象しうるものとなった)》のではないかともうたがいます。どうかご教示ください。  ( e ・ f ・ g )の特に現代の美術もしくは広げて芸術については くわしい方におそわりたいと考えます。言いかえると 上に触れたわたくしの考えや感触と違ったかたちや内容を持っていると分かった場合 そのときには質問をさらに浴びせつつ 問い求めて行きたいと思っています。

    2010/12/24 09:39
  • 理論物理学では、予知夢 遠隔透視のメカニズムをどの...

    予知夢は、ブラジルの大予言者と言われているジュセリーノ氏 遠隔透視は、FBI超能力捜査官マクモニーグル氏が有名ですが、彼らの予知夢や遠隔透視がいかにして可能なのか 識者の方、そのメカニズムを理論物理学的アプローチでご教授お願いします。

    2008/01/01 12:58
  • 輪廻転生説は 愚の骨頂

     ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?  理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。  理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。  理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。  理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。  真実をおしえてください。

    2009/05/03 07:02
  • 修学旅行での没収品、一週間後に親が受け取りに行くっ...

    先日修学旅行から帰宅した中3の息子が、新幹線の中でmp3を没収されました。 先生から「迷惑をかけてごめんなさい」は!?と言われた際に「一人で静かに音楽を聴いていただけで誰にも迷惑をかけていない。もし、バスの中だったならば、ガイドさんの話を聞くのに不都合があったかもしれないが。」と謝罪を拒否したそうです。 そうしたら帰宅時に返してもらえず、一週間後に親が受け取りに行くんだそうです。 (1) 没収品を一週間も返さない権利が学校にはあるのでしょうか? また、そんなことで親が受け取りに出向く必要もあるのでしょうか? (2) 『持っていってはいけないもの』の基準ってどこにあるのでしょうか? 今回のmp3は“電化製品”に含まれるのでいけないそうです。 また“トランプ”はOKなのに“花札”はダメ。 「ドライヤーはOKだがヘアアイロンはダメ」とか、肩に斜めかけするタイプのリュックはダメとか、くるぶしソックスはだめ、等々理不尽なことがたくさんありました。 ・斜めかけリュックで来た子は没収され、その子の荷物は班の子達のリュックに少しずつ入れたそうです。 いけない理由は「ちゃんと歩けないから」とのことでしたが、何の不都合もなく歩けますが…?? ・くるぶしソックス、いけない理由は「危ないから」。履いてきた子は脱がされて裸足で歩いたそうです。こちらの方がよっぽど危ないのではないでしょうか?? まだまだ他にも日常の学校生活でも理不尽な規則で何でもかんでもギュウギュウに押さえつけられているように感じて仕方ありません。 一週間後に受け取りに行った際には謝罪するつもりは全くなく、逆に上記のように感じていることを話してこようと考えています。 (一週間取り上げられたまま、ということにも納得できませんが。) 皆さまのご意見をお聞かせ頂けますよう、よろしくお願い致します。

    2005/05/30 02:39
  • 人は何のために生きているのか?

    人は何のために生きているのでしょうか? 誰もが1度は考えたことのある悩みを抱いている大学生です。このことを考えていると、他のことなどどうでもよくなり、こんなことをして何の意味があるのか?とすぐ考えてしまいます。何か打ち込める趣味でもあればいいのですが、こんなものにハマっても仕方がない、と考えてしまい、自分でも何がしたいのかよく分からなくなります。この悩みの答えを見つけ、この状態から早く抜け出して昔の様に楽しく1日1日を過ごしたいです。 このことを考え始めてから自分では相当勉強(特に物理学)し、考えたつもりです。 まず、現在の僕の考えを箇条書きで書かせていただきます。 ・やはり答えというものは普遍的で誰もが納得するものであるべきで、自分が納得できる答えもそういうものだと信じています。 ・科学的根拠のない神や死後の世界、魂が出てくるような仮想的な話は馬鹿らしいです。 ・宗教的な話も全く納得できません。 ・答えなどない。人は悩むために生きている。といった回答は答えになっていません。 他の同じような質問も見たのですが、上のような回答が多いと感じます。 ここでこの悩みの答えが見つかることは思っていませんが、答えに近づけると考えています。 みなさんの考え、この悩みのヒントになると思われる本や思想を教えてください。

    2008/08/31 01:14
  • 人生がむなしいです

    人生がむなしいです。 人は何のために生きるのか、考え込んでしまいます。 このようなむなしさに囚われている人に、どのようにすれば有意義な人生を送れると考えているか、聞いてみたいです。 【回答についての注意事項】 ・この「むなしさ」を一度も体験したことの無い人には、いくら言葉を尽くしてもムダですので、始めからこの質問に参加しないでください。 ・念のため付記しますが、この「むなしさ」とは、日常性に埋没し切ってて退屈だったけど、フランス語の勉強始めたら毎日が楽しくなったんだ! とかそういうのとは全然違います。誤解を招くかもしれませんが、もっと哲学的なものです。そして、「なぜ生きるか。なぜ必ず死ぬのに生きるのか」自分の全存在を賭けての問いです。 これが実感としてわからないなら、参加しないでください。 ・「じゃあ死ねば」式の回答は不要です。 ・このような質問の仕方をすると、私自身の人格を問うような「そもそも論」を得意げに披露する人があらわれることと思います。また「カテ違い」とか何だとか、不毛な脇道に導く人も出そうです。先に言っておきますが、そのような回答は不要です。質問に答えられる人のみ参加してください。 ・確かに、膠着した議論において、「そもそもどこで間違えたんだ?」と問うことは有意義ですし、そこで鮮やかな切り口で議論を活性化させる知性には、誰もが憧れることと思います。よく見られることとして、そうした知性の担い手は私であり、そうした賞賛は私こそが受けるべきだと考える自己愛にまみれた人が、時に鼻息荒く「そもそも論」を展開することがあります。しかし、往々にして「そもそも質問者おかしくね?」式に、「だったらおまえはどうなんだ」っていう小学生みたいな切り口しか示せないことが多いですね。 ・繰り返しますが、この「むなしさ」を知るものだけに問いかけているのです。あなたはむなしさを感じながら、どうやって生きているのか。場合によっては、どのようにそのむなしさをごまかしているのか? ・繰り返しますが、鼻息荒く的外れなおせっかい回答をするような人は不要です。参加しないでください。

    2007/04/03 20:10
  • 私にとって「この世界が見える」ための条件は?

    「私」にとって「この世界が見える」ための条件は何でしょうか? 単純に考えると、「私の肉体」があればこそ、「私」は「この世界が見える」わけですから、条件は「私の肉体がこの世界に(生きて)存在していること」だと思います。 しかし、「私の肉体」とは、何でしょうか? それは、純粋に物質である原子・分子の構成体ということでしょうか? もし、そう考えられるのなら、「私」が死んだ後、未来の科学が、私の肉体を再生することができたら、その時、「私」は再び「この世界が見える」のでしょうか? もし、そうだとすると、それは、私のクローンを作るのと同じことにならないでしょうか? でも、私のクローンは、「私」とどんなに似ていても、結局、他人に過ぎず、「私」は「この世界を見る」ことはできないのではないでしょうか? クローンとオリジナルはDNAが同じであるだけであり、厳密な意味ではオリジナルと異なるはずだから、他人になるのであって、もし、厳密な意味で同じクローンができたら、「この世界が見える」も再現できるでしょうか? でも、それは、明らかに不合理です。何故なら、「私」は2人の自分のどちらかの肉体からしか「この世界が見える」を体験することができないはずだからです(両方の肉体から見えるとすると、世界が2重に見えることになります)。 一方、「私」にとって「この世界が見える」ための条件として、「私の肉体の完全なるコピー」を必要としていないことは、明らかです。それは、子供のころの自分と大人になってからの自分は、肉体的、精神的、また、記憶の上でも、全く異なる存在です。それにもかかわらず、「私」にとってこの世界が見える」ということは一貫して可能だったわけです。 「私」にとって「この世界が見える」ための条件が、「私の肉体の完全なる再生」ではないとしたら、一体何なんでしょうか?

    2005/11/26 10:03
  • 日本人は 論理思考をそなえている。

     この命題を次の二点で 問います。    (A) 日本語に《時制の一致》がないか? いや じつは論理思考によってこれを発達させ〔得〕た。  (B) 日本人のおとなしさ(社会秩序にしたがう心・あるいは隣人愛ないし和の心)は 社会における人びとの交通(まじわり)に論理的な秩序を求めるゆえではないか?  (A) 次のうたを見てください。仮想現実と呼ばれる表現法であり その補充用言(助動詞)の《せ》および《まし》に注意してみてください。  ▲ (古事記歌謡・30) ~~~~~  尾張に 直(ただ)に向かへる 尾津の崎なる  一つ松  吾(あ)夫(せ)を  一つ松 人にあり≫せ≪ば  大刀(たち)佩(は)け≫まし≪を  衣(きぬ) 着せ≫まし≪を  一つ松 吾夫を  ● (意味合いを採るのみの訳) ~~~  (ミヤズヒメが 夫のヤマトタケルをしのんでうたう)  尾張の真向かいにある尾津の岬に立つ  一本の松  我が背子よ  もし仮りに人であったなら 大刀を佩かせように  服を着せように ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 現代語に到るまでに この用法は廃れたようですが このように(また万葉集のウタにも)時制の一致と見られる語法は持ち得た。発達し得た。《仮想現実》の論理をつらぬいている。こう考えられます。  その後 やがて互いに相手が見知った仲間どうしばかりになったときには その情況の中で廃れたのではないでしょうか?  (B) 簡単にのべますが 《和》の心は あくまで一般の市民(ムラびと)のあいだに培われ育まれた交通の思想(生活態度)であった。それをやがてそのムラムラから成る社会が国家という二階建ての家に成ったとき それは ムラビトたちが国ビトらに その第二階をこしらえることをゆるしたのだと考えられ これを《くにゆづり》と称したように けっきょくこの《国びと》らに好きなようにさせてやったという歴史事実が介在している。のではないか?  言いかえると 一般に第一階に住む人びとは 国びとらが どうしてもおれたちをお山の大将にしてくれと土下座してでも頼みこみ拝みこんでくるものだから とうとう根負けして かれらに好きなようにさせた。社会というやしろに第二階というヤシロまでつくらせて そこに住まわせた。気の済むまで統治がしたければ やってみなさいと全面的に甘えさせてやった。  これが かれこれ千五百年 経つ。    けれども 一度ゆづったからには おめえたち そろそろ返せやなどと言えない。なかなか言えない。しかも 世の趨勢は かたちの上だけでも 主権在民の世の中になっている。市民主権だというのだから かつての《くにゆづり》は ゆづり返されたのだろうか? これが何ともはっきりしない。  はっきりしないけれども そもそも《和》の心を持ち合わせている市民一般は おいそれと早く返せとは言いづらい。  ひとつには そのお二階さんが《和を以って貴しと為す》と ムラビトのお株を奪う命題を立ててしまった。立てられてしまった。これも 何とも動きが取りにくい。動きを取りにくくしていている。お二階さんたちも いやあ 立派 リッパ。保身の術に長けている。  うんぬん。  というわけで もともと日本人は 市民一般は 社会の人間的交通において論理的にもその秩序を問い求め続ける人間たちであった。わづかにその和をみだすものがあるとすれば 一階の人間が 二階への出世志向になり 二階にこびへつらい ゆすりたかりの甘い汁を吸おうとする動き これである。この一階と二階との関係具合いにおいては 隙間風が吹いたりいざこざが起きたりする。こういうことではないのか?

    2011/03/19 14:06
  • 《甘え》論再考 または 《聖なる〈甘え〉》

     《甘え》には いわば健全なる甘えと病的な甘えとがあるらしい。幼児性が おとなであっても 必ずしも不健全なものでもないということらしい。  ▲ (土居健郎 :聖書と「甘え」) ~~~~~~~~~~~~~  ・・・実際 大人になっても 非言語的なプロセスとしての《甘え》は継続する。  しかし・・・《甘え》を子供っぽいもの 殊に人間の自立を妨げる芳しくないものとしてそれを排斥する動きがもし早くから育児環境の中で作用していると《甘え》が内向し 異常に自己中心的な性格が生まれる可能性がある。  そしてこの際しばしば 広義の性的 ということは官能的快楽の飽くなき追求を伴なう。この種の人間類型は もしそれが極端な場合は異常性格として一般の認識するところとなるが しかし現代人は多少ともその傾向があると言ってよいように思う。  現代が個人の自由をもっぱら旨とし また概して快楽主義的であるのはその点を示唆する。なお以上の考察は《甘え》に相当する語を有しない欧米人にも十分あてはまることをつけ加えておこう。(p.20)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《聖なる甘え》もしくは《超然的なる甘え》を提唱することができるのではないだろうか。  趣旨説明として不案内ですが さまざまな観点からご見解をおおしえください。

    2010/01/07 20:26
  • 出家の坊主が復興構想ですか?

    仏教では、在家信者と出家信者がおりますが、出家とは、世俗を離れて家庭生活も捨てて仏門に入ることと理解しております。 さて、震災にあって荒廃した町や村を復興することは世俗のことでないのでしょうか? 私は、震災復興構想は世俗であるべきだと思うし、世俗の事は在家信者に任しておいて、出家信者は仏門の修行に専念してもらいたいと考えるのですが、みなさんはどう考えますか? 出家しても、世俗の事に多いに関与すべきだ。 出家したら、在家信者とは違うので、世俗の事に時間を使わず修行に専念するべきだ。

    2011/04/23 23:01
  • 神を信じるってどう言う意味?

    よく神様を信じている人と話すと、神様を信じて祈れば救われるとか、救われたとか話を聞きますが、どうも納得がいきません。 何故なら、神様を信じていなくても、それなりになる人は多くいますし、信じていても救われない人もいるからです。 まあ、そう言うと、「神を感じた事がないから」なんて事を聞きますがたとえ、何らかの存在や感動、快感、救いを感じたとしても、それが必ず結果に表れる訳でなく「感じた、体験した」だけで終わってしまう場合も在る訳です。 そんな人、何人も見てきました。 そう言う訳で、結果から考えると、神の存在と、救いは、ある意味、別のモノであり、神を信じれば救われると考えるのは変な思い違いなのではないでしょうか? そこで思ったのですが、「神を信じる」ってどう言う意味なのでしょうか?

    2009/07/27 23:30
  • 《カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しな...

     まづこのイエスの言葉の出典は マタイ22:15-22 / マルコ2:13-17 / ルカ20:20-26です。  ただし 解釈を《ゆがめ》て 哲学の視点から問います。次のように解釈しますが それについて自由なご見解をおしえてください。  (ω) 《まつりごと(政治・宗教)》は社会の経験行為としてのまつりごとであり 《信仰》はあくまで内面の問題である。  (ω‐1) まつりごとが 人びとの信仰ないし内面にかかわる《まつり》に介入してはならない。  (ω‐2) ただしそのように言うときには 《まつり》が 個人と内と外との両面に分かれるかと思います。家族のにしろ社会全般のにしろ生活の奥や底に湧き起こったよろこびや祝いにかかわる個人の内面における《まつり》と ムラのまつりとです。  (初穂を神にまつる祭りは 共同体としての生活において 個人とムラとが一体であったでしょうか)。  (ω‐3) ですから 内面から外に出たムラのまつりを 内面の信仰ないしその《まつり》から自由なかたちでおこなうことが出来るか。これも問いのひとつです。《まつりごと》から自由であるのは 当然とします。    (ω‐4) 《まつり》は 神〔ないしけっきょくは同じ意味で神々〕との共食だととると分かりやすいようです。《まつりごと》は そのムラムラのまつりを二階から知ろしめし 収穫のいくらかの部分を吸い上げる仕組みであったようです。  (ω‐5) 現代にあっては 社会が国家としてありその家の第二階も存続していますので その《カエサルのまつりごとのものはカエサルに納めるべし》という見解が残っていましょうか?  ☆ 信仰と宗教とのちがいが ここでいちばんの問題であり問いの発端です。おわかりのように次の質問を継いでいます。そこでの質疑応答をも承けて 問い求めを自由に発展させてください。  【Q:信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5364088.html    日本人の哲学はここにありという言論を魅せてください。

    2009/10/23 10:57
  • ボードレールの魅力?

    十九世紀フランスの詩人シャルル=ピエール・ボードレール(1821-1867)の魅力はどこにあるか?「ゆるい文学談義」をしようではないか?というのが、この設問の趣旨です。 日仏問わずボードレールに捧げられたオマージュは数知れず、影響力は図りしれません。しかし『悪の華』第二版を通読してみると、それが厳密に構成されたものであるという指摘はあるものの、テーマが多岐に及んでいて、彼に対するイメージは力点を置く詩で変わるように思います。 ・恋愛の詩人 ・メランコリックな詩人 ・サディスティックな詩人 ・宗教的な詩人 ・魔術的な詩人 ・政治的抵抗の詩人 ・貧者の側に立つ詩人 ・ダンディズムの詩人 ・芸術至上主義の詩人 などなど、あるといえるでしょう。 上記で書きつくせないほど、切り口によってボードレールの印象は大きく変わるはずだと思います。しかも、それぞれの要素は反目し合うこともあります。一例をあげれば、思いやりのある恋愛詩を書いたかと思えば、サディスティックな側面をのぞかせるなどです。読者の期待を唐突に裏切るという矛盾した言葉を彼の詩集は総体として抱えていると言えます。 ボードレールという作者に対する矛盾したイメージを統合して整合性をつけ、何が正当であるかと議論することは、この質問の趣旨ではありません。むしろ多様性を認めた上で、個人的かつ主観的な読書体験として、ボードレール作品が魅力的であるといい得る見地を、楽しみとして語ろうというのが、設問の趣旨です。これは趣味に属する類の設問なので、意見を戦わせるというより、文学談義を希望しています。 ボードレール作品で議論するテクストに制限は設けません。韻文詩のみならず、散文詩、日記、評論、書簡を含めてください。引用してくだされば議論が具体的になってありがたいですが、日本語でも仏語でもよいです。 個人的な感想、分析をお待ちします。

    2010/11/20 17:22
  • もう1人が男である確率

    ある雑誌のこの設問で意見が対立しています。 「あるタレントに隠し子が2人いることが発覚! 1人は女の子。もう1人は男女どちらの確率が高いか?」 A.男  B.女  C.確立は半々 答えはもちろん「C」と思いきや、なんと「A」だというのです。 その理由は「すでに2人いる子供の男女の組み合わせ」は1.女・女 2.女・男 3.男・女 4.男・男 となりすでに1人は女なので可能性があるのは 1.女・女 2.女・男 3.男・女 の組み合わせになる。つまりもう1人が男である確立が3分の2だから、正解はA。 最初はこの答えに納得できなかったのですが、しばらく考えて確かにそうだと思いました。 でもあくまで違う、確率は50%と主張する方がいてそれに反論もできずにいます。 果たして真実はどちらなのでしょうか? 納得できる理由も書いてもらえるとありがたいです。

    2007/03/09 00:48
  • 日本人は地球人か。

    私はアメリカに住んでいますが、今朝のアメリカのニュースで聞いていたら、アメリカ人だったかイギリス人だったかのジャーナリストが、日本人が決定的な災害なり出来事に会った時の尊厳さは特筆に値する世界でも稀な振る舞いである、と言っておりました。殆ど同じことを、神戸地震でも聞いており、神戸地震直後の日本の災害者達の静かさは異様だったと言っていたことを記憶しております。 一見日本人に取っては当たり前に行動しているようですが、異国人から見ると驚嘆に値する振る舞いのようです。勿論、どの国にもこのような悲惨な目にあっても尊厳を保てる方は居りますが、それはその国民の例外中の例外に属しているようです。その証拠に、異国の人とは反対に、例外を除いて日本人の殆どの人が尊厳を保っていることに他国の人達は驚嘆しているのですから。どうもこの尊厳さに対して、日本人はその異国のその他大勢ではないようです。 そこで質問です。何がこれほどまでに日本人を他の国民とは違った存在にしているのでしょうか。私には、人間なら共通して持っている喜怒哀楽や隣人愛や尊厳がどうのこうのと言うようなレベルの話しではないような気がします。別な言い方をすると、何故異国の方達は私たちの当たり前の振る舞いを感心するのでしょうか。日本人は、世界共通な地球人ではないのでしょうか。

    2011/03/16 10:51

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