行った三河で起きた一向一揆の処理から、家康がただで秀頼に、天下を継がすことはないという見極めはついていたと思います。秀頼が生きている限りこれを担ぐ人間が出てくるのが、普通ですので、家康は決して生かしておかないことと考えられ
秀頼が家康に恭順したら、豊臣家は小大名としてでも存続できたでしょうか?
秀頼が家康に恭順したら、豊臣家は小大名としてでも存続できたでしょうか? 義昭が信長に恭順したら、足利家は小大名としてでも存続できたでしょうか? 信長が義昭を自分の手で殺してしまわなかったことを不思議に思います。 あれ
私は豊臣贔屓で歴史シュミレーション小説等を楽しみにしているのですが、自分でも暇つぶしにあれこれ考えたりしています。 そこで最近考えているのがタイトルの件なのですが、もし豊臣秀頼が女児として出生していたら、その後の歴史の
豊臣秀頼に関するシナリオを書いています。 秀頼の話す言葉ですが、現在の大阪弁に近い言葉で話していた可能性は ありますでしょうか。 秀頼は大阪出身ということもありますので、出来れば大阪弁で書きたいです。 よろしく
なぜ関ヶ原での西軍の総大将は豊臣秀頼でなくて石田光成なのでしょうか? 嫌われ者の光成でなく、秀頼が総大将だったらまた違ったのでしょうか?解説どうか、よろしくお願い致します。
豊臣秀頼は、大坂冬の陣の前の時点で正二位・前の右大臣という高い官位を有していました。秀頼の父である秀吉、その養子である秀次は、いずれも関白任官の直前には「正二位内大臣」の官職にありましたので、秀頼の「正二位・前の右大臣
「豊臣秀頼は切腹の際、切腹さえうまくできなかった」と書かれた文章を目にしたことがあるのですが、これはどこかの文献、もしくは歴史小説等に書かれていることなのでしょうか? 自分で調べた結果、そのような表現は見つからなかった
先日、吉野の勝手神社に行ったら、神社の縁起を書いた看板に「社殿は豊富秀頼が慶長9年(1604)に改修したのが・・・」と書いてあって、「豊富」に傍点が打ってありました。傍点は「間違えではありません」という意図で打たれてい
もし秀吉の実子なら北の政所は豊臣家を見捨てなかったと思います、 大野修理の子だとの落書きが有りますが、その場合、秀吉は知らなかったのか、または指示か黙認か、当時の資料、噂は有るのでしょうか、 歴史に関心をお持ちの方はどの様に考えられますか。