後に6代将軍徳川家宣となる徳川綱豊は、名目上は最初は甲府城主ということになっていますが、そのほとんどの生涯を江戸で過ごしていたようです。 徳川綱豊が名目上は甲府藩主であった時、綱豊は江戸の甲府藩邸にほとんどいたようです
徳川綱豊(徳川家宣)がいるのに徳川綱教が6代将軍候補になっていた理由は?
、家光の孫にあたる徳川綱豊(後の徳川家宣)がいました。常識で考えれば、れっきとした徳川宗家の血をひいている徳川綱豊が6代将軍の筆頭候補になるはずです。 なぜ、徳川綱吉は甥であり、家光の孫である徳川綱豊をさしおいて、分家
お世話になります。自分は本がとても好きで、仕事や人生のことで悩んだ時、本に助けられることが多かったです。 これまで感銘を受けた本は、カーネギーの“道は開ける”や、スマイルズの“自助論”、中村天風氏関連の本等です。 自己啓発を読むことが多かっ
よく似た経緯で廃絶した、館林家と甲府家ですが、館林家が藩主の徳川徳松が5歳で亡くなり、無嗣廃絶により除封されたのに対して、甲府家は藩主の徳川綱豊が本家の養子に入ったため、幕府に領地を還付しています。 こういった例は水戸
京都の公家から迎えた徳川将軍の正室からは、まったく一人も子供が生まれなかった、妊娠しても生まれる前に闇に葬って、京都の血が将軍家に残らないようにしたというのは史実ですか。 言われてみれば、至極当然の考え方ですが、びっくりしました。 主に戦国
ならば、将軍を出すのは紀州と尾張だけなのに後々まで贔屓が出てしまうのではないでしょうか? もうひとつ疑問なのが、先日大河ドラマの八代将軍吉宗を見ていたところ甲州の綱豊という人物が出てきました、調べてわかったのですがこの人
時代劇が好きでよく見るのですが、中には素人が考えても 「こんな時代に、それはないだろう」 と感じるシーンも多いです。 まず 「暴れん坊将軍」 のタイトルシーンに江戸城の天守閣が背景として映りますが、吉宗の時代には天守閣は大火で焼失していた