。 東ローマがフランクに歩み寄るのはレオ3世の死後で、 この時代には「メロヴィング朝」は終わっています。 とすると、「関係」というものは一体どのような感じでしょうか? 戦争はしていませんが、 やはり敵対関係とみて良いの
偶像崇拝論争(レオン3世)との内容を東西両教会の見解の相違を明確に示し120字以内で述べよ。という問いに苦しんでいます。 とても120字も続きません・・・ どなたか、模範解答を示していただけるとありがたいです。
いくつか質問がありますので長くなってしまったらスミマセン。 ・ピピン3世は何故ラヴェンナを教皇に寄進したのか? ・何故レオ3世はカール大帝に戴冠をしたのか? これは宗教上の問題からなんでしょうか?それともビザンツ
初期キリスト教の五大本山はいつ頃成立したのでしょう? もう一つ。 ローマ帝国が東西に分裂後、東ローマは皇帝教皇主義の立場をとり、 コンスタンティノープル教会の総主教を保護指導したらしいですが、 アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリア
レオン3世が偶像崇拝禁止令を出したのは、『イスラーム勢力への対抗上』の理由だと教科書に書いてありましたが、どのような点で対抗したのでしょうか? イスラームは偶像崇拝を禁止していたはずですが・・・
レオ3世によるカール大帝、またヨハネス12世によるオットー1世への 帝冠の授与についての記述を読んでいて気になる箇所がありました。 1.このような帝冠の授与というのはローマ帝国ではいつから行なわれるようになったのでしょ
ハプスブルク家はいろいろな国と政略結婚を繰り返しました。ということは、ウィーン文化とはいろいろな国の文化が入り混じったものなのだろうと考えました。現在でもウィーンに残るもの(こと?)、文化で融合文化(スペインや新大陸、ハンガリー)であること