すみません。どのカテゴリーに当てはまるのか解らなかったので、ここにしました。 今私は、エックハルト・トールという人の本を読んで、「さとり」をひらこうと努力しています。 彼は「自分の思考を観察しなさい」とか「感情を観察し
にわか仕立ての立論です。 批判・修正・そしてさらなる展開を よろしかったら 思う存分おこなってください。 1. さとりとは 池に落ちて 濡れずに上がって来ることである。 2. さとりとは 池は要らないと
最近言われる「気づき」と仏教の「さとり」って、同じものでしょうか。それとも、似て非なるものでしょうか。
増谷文雄氏の著作『釈尊のさとり(p.65)』によると、釈尊がさとりを開いた後、次の様に考える場面が、南伝・相応部経典6-1に書かれてあるそうです。 曰く、『私が悟りえたこの法は、はなはだ深くて、見がたく、悟りがたい
ドラクエIIIのさとりの書って2つ手に入れること出来ますよね?一つ目はダーマ神殿の北の塔で、もう一つってどこで手に入れられますか?
においては さとりを妨げる無明とは 《根本的な生存欲》だとブッダは発見したと言います。では 生きるちからをそのままに現わしていくためには 《さとりを得ようという意欲をあきらめればよい》のだろうか?】 次です。この議論について
と思われます。 (β) 特に《さとり》の主題については これをどこまでも《精神 ないし 精神主義》において捉えるという傾向があり それは 聖徳太子の次の命題に現われている。のではないか? 【Q:世間虚仮 唯仏
悟ることを悟りと言いますが 今日(此の頃)貴方は何を悟りましたか? 私は此れですね 「人は周りの力によって生かされている」 ですね・・ 貴方の悟りを教えて下さい、お願いします