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恣意性について教えてください★

学校でレポートが出たのですが いまいちよくわかりません どなたか、わかりやすく ソシュールやメルロ・ポンティの言う 恣意性について教えてください!!

質問者が選んだベストアンサー

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  • sokura
  • ベストアンサー率38% (40/103)
回答No.1

 言語は通常<意味>をもって流通しているとみなされています。私が<赤>と発語することによって、聞いている相手は「あざやかであれ、にぶくあれ、赤い色を想定」します。ですから、言語にはもともと<意味>が付与されているから、私たちは混乱なく言語を使用している、と思っています。言語とは、おおまかな意味をしか伝えていませんね。  しかし、「このつらい気持ちをわかって欲しい」という<意味>を伝えようとすると、私たちは10人の人に、その意味を語ってもらえば、何がなんだかわからなくなってしまうのではないでしょうか。どんな風につらいのか、喘息のような息苦しさなのか、ボーッとした不安が続いてつらいのか、次に、気持ちとは何なのか、こころなのか、意識なのか、心臓のあたりなのか、大脳新新皮質のあたりなのか。  つまり、私たちは、言語は意味されることがしっかり定着しているから言語を使っている、と考えていますが、<意味>することを語るために使用している風に見えながら、その<意味>自体もあいまいで、<意味>されることまでは当然考えて使用していない、ということなのです。  これらを象徴する例として、私は「鳥の鳴き声」をあげたい、と思います。鳥は何故鳴くのでしょうか?  それは、恣意なのです。つまり、意味もなくただ鳴きたいから鳴いているのです。自由勝手気ままに、意味もなく、聞かれることも予想せず、ただ鳴いているのです。これが言語は恣意である、という意味なのではないでしょうか。  私たちは、言語といえば<意味>の上に成り立っている、と考えがちですが、アとカが重なって<アカ>と言い、これで<赤>という意味が成り立っているわけではないのです。たまたま、アオと発語されていないからアカ、と差別化出来るだけのことで、言語は、こうした音の差違に基づいた分別作用でしかないのです。この分別作用が<意味の根拠>になっていくわけですが、これすらも、鳥の鳴き声と同じで、その根幹では、<意味>なく、自分にとって発語することが楽しいから、遊んで鳴いているだけなのかも知れません。ただ、それが、チュンチュンとキーキーで<意味>が違っているな、と想像するだけのことです。  こうしたことを、言語の恣意性、と言うのではないか、と記憶します。

その他の回答 (3)

  • tosembow
  • ベストアンサー率27% (200/718)
回答No.4

 これまでの方の回答で言いつくされちゃってますね。  蛇足ながら……言語の恣意性の例外と考えられることが一点あります。いわゆる擬声語は実際の音を、言語構造に基づく音声で置き換えたものですから、音声とその音声が指し示すものとの間に恣意ではなく必然の結びつきがあるわけで、「コケコッコー」「ココリコ」「クックアドゥードルドゥー」などが互いに似通うわけです。  それから信号機の赤青黄は恣意的記号の例としては若干不適当ではないでしょうか。赤は可視光線の中では波長が最も長く、人間の視覚にとって一番目だつ色、認識しやすい色であるといわれています。だから危険回避のために最も重要な「止まれ」の意味を示すのに赤色を用いることは意味があるわけです。

  • polnareff
  • ベストアンサー率52% (119/225)
回答No.3

 chikasaさん、こんにちは。    言語を「記号」の一種であると考えれば言語表現とそれが表わす意味内容との結び付きは必然的なものではなく、偶然の結び付きであると考えられます。つまり各言語を使用する社会の中で暗黙に取り決められたルールなのです。  例えば,どの国、地域でも同じはずの「犬」が、日本語では「イヌ(inu)」、英語では「dog」、フランス語では「chien」、フィンランド語では「koira」、中国語では「gou(狗)」、アイヌ語では「seta」などなどというように、それぞれ違った種類の音声あるいは文字の連続で表わされているのは、この「恣意性」の一例です。  これを何故、「恣意性」、つまり必然的ではなく偶然の結び付きかであるのかと言えば、日本語を使用する社会において「犬」という動物はただ単に「イヌ(inu)」という記号によって他の事物と区別されているに過ぎず、仮に明日からは「ネコ(neko)」と呼ぶことにしても、「ヌイ(nui)」と呼ぶことにしても、社会がそれを認めてしまえば何の不都合もないからです。言語ではない他の記号の例で言えば、信号機の「赤」は「止まれ」を意味していますが,それを明日から「止まれ」を「青」にしようが「黄色」にしようが、あるいは「紫」にしようが、社会で認知されてしまえばそれはすなわち「止まれ」を意味しているということになってしまうのです。これが「恣意性」です。  つまり、「犬」を必ずしも「イヌ(inu)」という音声、あるいは文字で表わさなければならないということではないのです。これを言語における「恣意性(arbitrariness)」と呼び、言語及びその他の記号の恣意的性格を最初にはっきりと指摘したのがフェルディナン・ド・ソシュールです。  では、失礼いたします。

  • aminouchi
  • ベストアンサー率46% (376/804)
回答No.2

私は原則として、学生のレポート課題への手助けはいたしません。 なぜなら、判らないなら判らないなりに自分でいろいろ調べ、悩み、あがくことが勉強だからです。どこかにある答えを、誰かに教えてもらって、答えるのでは意味がありません。最低でも自分で検索してみるべきですし、多分、授業で使う教科書あるいは参考書として指定された本を見てみるべきでしよう。 まして、ソシュールの「恣意性」というのは彼の基本概念の1つです。レポートの課題としては初級でしかありません。まあ、もっとも、この題で100枚程度書けというなら別ですけれどね。 ヒントだけ寓話として書きましょう。 言語学者から「言葉とそれが指し示す物はかならずしも一定しない」ということを聞いた小学生が、一生懸命に考えて「どう考えても僕には「象」は象を指しているとしか思えない」と答えたそうです。どこが食い違っているか判りますね。

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    筆記試験ってあるじゃん。共通テストとか、TOEICとか、学校の期末試験とか、司法試験とか。ここでカンニングすると、偽計業務妨害なる犯罪になるじゃん。 では、採点者が点数を恣意的に操作することは合法ですか?それとも、何かの犯罪になる? 要は、愛人を合格させるために点数を水増ししたり、嫌いなヤツを落とすため答案を見ず機械的に×を付けたりする行為です。 あるいは、フィギュアスケートの採点で、羽生結弦のことが嫌いな人が点数を恣意的に下げたら、ドーなりますか?ドーにもならないですか?まー、周囲の人は点数低すぎって思うだろうけど、周囲の評価がドーだろうが、点数については採点員に裁量がありますよね。 あるいは、野球の審判が巨人ファンで、阪神のバッターにはストライクを多めに取り、巨人のバッターにはボールを多めに取ると、ドーなりますか?ドーにもならないですか?「オイオイ審判おかしいやろ!お前の目は腐ってるんとちゃうか?」って阪神ファンが吠えても、無意味ですよね? 筆記試験でもフィギュアスケートでも野球でも、判定する側は強い裁量権があって自由で気軽ですよね。でも、パフォーマンスする側は人生が掛かっていて必死だったりするよね。その結果で、留年したり、クビになったり、収入が大幅に減ったり、重い責任を負ったり、そういうことも考えられるよね。なのに、判定する側の好き嫌いで自由に点数を付けても、法的にはお咎め無しですか? 理想の社会を考えると、そんなんで良いのかな? これが問題にならないと考えている人は、どういう道理を展開するつもりなのだろう?「日本はこういう国だけど、それが嫌ならば、日本を出て行けば良い。恣意的採点に罪を定めている国が良ければ、そういう国を探して、そこに移住することだ。」こんな感じかな? もしかして、今の日本でも恣意的判定は罪になりますか?でしたらば、罪名は何ですか?

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