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家康の大御所時代

慶長11年(1606)、家康は、なぜ駿府へ移ったのですか。 この年、江戸城の「天下普請」が始まっています。 家康は、駿府から秀忠にあれこれ指図して、また秀忠は、家康に何かにつけて指示を仰いでいます。 家康が、江戸新開の地に町割りを決めて、秀忠に指図したのは慶長16年の暮れのことです。 秀忠に将軍の地位を譲った家康が、新たな権力者として君臨するのであれば江戸に居てもよさそうですが、 江戸を離れて駿府に居城を構えたのは、なぜですか。 よろしくお願いします。

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  • jkpawapuro
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回答No.4

私は江戸から離れるにあたって一番いい場所が駿府だっただけではと思ってます。 対豊臣の前進基地として防衛拠点、どうせ駿府に住むならそれも考えますが、それを主体に構えるなら駿府は必ずしも最適の地ではないように思います。 地元の地形を詳しく考えると、大軍が戦うにおいて一番の要害の地は由比の断崖です。 羽柴秀吉は対徳川防衛に由比の西側の駿府城に中村一氏を置きました。 この地は東から西上する軍を防ぐうえでの最高の拠点なんですが、東下を防ぐうえで最上の地は富士川沿いに城を築き由比の断崖を正面に見据えて防衛するのが最上と思われます。 また対豊臣という点をもっと積極的に見るなら、井伊を近江に入れた以上名古屋・岐阜あたりが畿内に睨みもききますし、変事があった場合機動的に井伊を使うなり近江で防衛戦を展開するなり便利でしょう。 駿府がそのままつかわれていること、あと清州に徳川義直を入れたときに清州に移るタイミングがあったのに移って無いことを考えると、江戸に近すぎず遠すぎずの住みよい場所から秀忠を見守るのが第一で、それ以上のことは後付けではと考えています。

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 私も「近江の井伊」、「清洲・名古屋の義直」抜きにして考えてはならないと思います。 彦根城も名古屋城も天下普請です。 いかに家康がこれらの地を重要視していたかが分かります。 実際、静岡あたりまで豊富勢に攻め込まれるような形勢になるようでは徳川の敗北濃厚です。 「江戸に近すぎず遠すぎずの住みよい場所から秀忠を見守るのが第一」と言うことですね。

その他の回答 (7)

回答No.8

またまた失礼! 「予(←世)は、生まれながらにして将軍である」 こうして、本を出版する時は、校正をしていくのです。 苦しい「言い訳」・・・!!

回答No.7

失礼!! 15代は慶喜でした。 ごめんなさい。

回答No.6

こんばんは。 お読みいただきありがとうございます。 あなたも相当勉強されていると拝察いたします。 手強い! 「廓山和尚供奉記」は、おそらく家康の本音でしょうね。 >>ただし秀忠は、家光に将軍職を譲った後、西の丸に居て「大御所」として采配を振るっていますが、これは、将軍とはいえ家光が若すぎたせいでしょうね。 確かに、若いと言えば若いですね。19歳ですからね。 19歳で全国を支配するには、荷が重たかったと思いますよ。 しかし、秀忠にしても、家康をみならって、早期に政権移譲をすることで、徳川家が世襲することを示す必要があったのでしょうね。 また、家康の代わりに駿府城へ入らず西の丸へ隠居したのは、すでに、戦乱の世から泰平の世に移りつつあったことを物語っていると思います。 つまりは、箱根山以西で反乱軍を食い止める必要性も無くなっていたと思われます。 あなたもご存知と思いますが、 「世は、生まれながらにして将軍である」 は、家光の有名な言葉と言われていますよね。 (よもやま話) ★「大御所」とは、将軍の実父であること。また、自らも将軍であったこと。 この二つの条件のどちらが欠けてもならない。 8代吉宗は、9代家重に職を譲り「大御所」と名乗った。 家重は「言語不能」の一面があったため、大御所としての吉宗が実権を握っていた。 9代家重は、10代家治に譲り「大御所」と名乗ったが翌年には死亡してしまった。 11代家斉は、将軍の職に就いたことのない実父治斉を大御所と呼ばせようとしたが、老中松平定信の「先例がない」の一言で断念した。(大御所事件)。しかし、12代家慶に譲り自らは「大御所」と名乗った。 15代家慶も息子家達に家督を譲り(慶応4年・1868)、大御所としての要件は満たしていたが、慶応3(1867)10月14日にすでに大政奉還をしており、将軍ではなくなっていたので「大御所」と呼ばれることはなかった。

kouki-koureisya
質問者

お礼

しつこい私に付き合ってくださって、丁寧にご回答真にありがとうございます。 「(家康が)将軍職を息子に譲ることで、もはや、天下は徳川家がこれからも代々治めていくのだ、と言う姿勢を示すため。」ということはよく分かりました。 まだちょっと疑問が残っているので、考えをまとめて後日質問したいと思っています。

回答No.5

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 まず最初は、あなたの疑問に「総論」からお話しをしたいと思います。 家康はご存知の通り、慶長8年(1603)に後陽成天皇から征夷大将軍を任じられるも、2年後の慶長10年(1605)に3男秀忠に職を譲りました。これには、 (すでにご存じかとは思いますが、まとめてみましょう) ★将軍職を息子に譲ることで、もはや、天下は徳川家がこれからも代々治めていくのだ、と言う姿勢を示すため。 これには、当時は、まだまだ豊臣恩顧の大名たちも多かったため、特に西国の大名たちからは「家康は天下の家老であって秀頼の家臣に過ぎない」と風聞が立っていた。 また、秀頼(12歳)に孫の千姫(8歳)を嫁がせたことで、秀頼が元服でもしたら「政権を豊臣家に戻すもの」と考える大名も多かったのです。 これらの風聞を打ち消すためにも、同族への早期の政権移譲が必要だったのです。 ★家康はなぜ江戸に居なかったか。それには、 (1)家康は江戸で幕府を開いた。従って、秀忠に将軍職を譲ったからには、同じ江戸に居たのでは、秀忠の権威が上がらない。(実質的には駿府に退いてからも実権はあったのですが)、とにもかくにも、秀忠を諸大名に対して、あくまでも将軍と見せるためのパーフォマンスもあった。従って、「実権」は確かに家康が握っていましたが、必ず一度秀忠に内容を見せてから秀忠の名前で発布しています。つまりは、駿府は「司令部」。江戸は「実行部」としたのです。 (2)後述しますが、「箱根の山は天下の剣」と言われるように、江戸の守りの最後の砦。従って、家康は駿府に隠匿するとは言え、江戸への挙兵があった場合には、秀忠は「戦下手」。家康は数々の戦火を潜り抜けてきた。箱根の手前である駿府で食い止める。という意図もありました。 ★確かに「天下普請」と言うと、皆さんは、すぐにも千代田城(江戸城)を思い浮かべると思いますが、実は、駿府でも同時進行の「天下普請」が行われていたのです。 なお、太田道灌が江戸の地に城を築いた頃は、確かに「江戸城」と呼ばれていましたが、家康が江戸へ入府してからは、正式には「千代田城」または「舞鶴城」(ぶかくじょう)と呼ばれ、庶民はただ単に「お城」と呼んでいました。「江戸城」の呼称が復活したのは明治に入ってからのことです。 さて、「各論」。 ★これは、どなたかが言っておられる、芝増上寺の僧が家康から聞いたとして書かれた「廓山和尚供奉記」(かくざんおしょうぐぶき)に残されています。(原文はやや長めですので、一部を簡略化して記述します) 「予 当国を擇(えら)びて住するに 凡そ五つの故あり」から始まります。 (1)「一に曰く。我、幼少の時、此地に住したれば、自ら故郷の感あり、忘れべからず。幼時見聞せし者の、今成長せしを見るはなかなか愉快なる事」 家康はご存知の通り、8歳~19歳まで今川家の人質となりましたが、今川氏は三河の松平氏の家臣を取り込むために、竹千代を我が子と同じように自由に遊ばせ、太原雪斎(たいげん せっさい)と言う今川家の軍師でもあった高僧に学問を教えさせました。また、今川義元の一字を与え「元康」という名前まで与え、14歳で駿府静岡浅間神社で元服をさせ、16歳で今川家一門の娘「関口瀬名」(瀬名姫=築山殿)を嫁がせています。 (2)「二に曰く。富士山高く北に秀でて、山脈其の左右に列すれば、冬暖にして老を養ふに最も便なり」 これは、読んでの通りで、富士山による、現代で言えば「フェーン現象」によって、駿府は温暖であり、健康を第一と考えていた家康には過ごしやすかった。 (3)「三に曰く。米穀の味、他国に冠絶せり」 ある日の膳を見てみると、麦飯に駿河湾で揚がった連子鯛の焼魚、旬の野菜の天ぷら各種、特にお気に入りだったのが、ナスの味噌煮、そして、味噌汁の具には大根、里芋、豆腐、油揚げ、などとなっており、特に、駿府で栽培されていた「折戸ナス」の味噌煮が大好きだったと言われています。 また、鯛の天ぷらを食べ過ぎて死亡したと言われるほど、駿河湾の海の幸もこよなく愛したのです。 (4)「四に曰く。南西に大井、安倍の瀑流あり、北東に箱根山、富士川の剣あり、要害最も堅固なり」 これは、前述したように、西国の豊臣家恩顧の大名たちが挙兵して江戸へ攻め入ろうとしても、箱根山の手前で打ち取るには最も適している。 安倍川については、当時は、更地を流れており、一度氾濫すると駿府の街が埋まるほどでしたが、駿府の「天下普請」の際には、薩摩藩(島津忠恒・ただつね)に命じて流れをやや西に向け、「薩摩土手」として名を遺す、高さ5.5m、長さ4.3kmの土手を築かせました。 (5)「五に曰く。幕府に参勤の大小名等、来て吾を見るに便ありて、毫(ごう)も道を枉(ま)ぐるの労あるなし」 参勤交代(後述=URL)は3代将軍家光により制度化されましたが、それまでにも、家康に気に入られようと、また、反意のないことを示すため、将軍家(江戸)へ参勤していました。 しかし、家康は、その江戸の途中の駿府に住むことで、「大名たちも、駿府を素通りするわけにはいくまい」と、暗に、江戸への行き帰りには家康にも拝謁するように仕向け、西国大名たちの忠誠心を確かめていたのです。 事実、東海道を下って安部川を渡ると、まもなく、正面に駿府城が立ちはだかり、豪(堀)を迂回しなければならないようにしています。 これは、家康本人が言った言葉とされていますので、ほぼ間違いはないと考えます。 以上の理由で、お分かりいただけたでしょうか。 (よもやま話) ★駿府と江戸での食い違いを無くするため、老臣の本田正信を仲介役に任じ、労をとらせています。 ★これまでの譜代の家臣の大部分を秀忠付にしました。 これは、家康の死後、駿府(家康側近)と江戸(秀忠側近)で争いを起こさせないようにするためでした。 ★家康は駿府城からの司令で、秀忠の命として、家康の譜代であった、 安藤直次を紀州藩付家老。 成瀬正成と竹腰正信を尾張藩付家老 としています。 ★家臣としての武士はさほど置かず、秀忠に代わり「幕府の基盤固め」の政策立案をするため、各方面から情報や知識を取り入れています。主な人物としては、 僧・金地院崇伝・・・戦術顧問とし、後の「武家諸法度」を作成させている。 儒学者・林羅山・・・学問、文教の政策顧問とし、「中庸述」という本を書かせている。 商人・茶屋四郎次郎・貿易、経済の顧問とし、「朱印船」により東南アジアの交易を許し、財政面の柱とした。 英国人・ウイリアム・アダムス(=三浦按針)・・・外交顧問とし、諸外国の正確な情報収集に当たらせ、オランダとの国交を結ぶ。後の、出島でのオランダ貿易の基礎をつくった。 ★妖刀「村正」。 村正は室町時代後期、伊勢、桑名を中心に活躍した刀匠。 東海道に沿って、強い販売ルートを持っていたため、東海道筋に関わる大小名たちの多く、および、三河武士の多くが所持し、家康も所持していた。しかし、 家康の祖父清康が家臣に暗殺されたのが「村正」。 父広忠が家臣に暗殺されたのも「村正」。 長男信康の切腹で介錯人が使用したのも「村正」。 家康自身が鑑賞していた時(手入れをしていた、との話もある)誤って指を怪我したのも「村正」。 「村正」の所持禁止令や封印令を出すも、かえって、隠れ人気となってしまった。 ★参勤交代 次のURLで私が解説しています。ご一読を。 http://okwave.jp/qa/q9123741/a25404016.html

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 家康はなぜ江戸に居なかったか、という疑問でしたがよく分かりました。 「家康は江戸で幕府を開いた。従って、秀忠に将軍職を譲ったからには、同じ江戸に居たのでは、秀忠の権威が上がらない。」ということですね。 ただし秀忠は、家光に将軍職を譲った後、西の丸に居て「大御所」として采配を振るっていますが、これは、将軍とはいえ家光が若すぎたせいでしょうね。 家康は、慶長11年3月、天下普請の“御普請初”を済ませると、早々と伏見に向かっています。 天下普請に駆り出された西国大名を秀忠が統制できるとの自信があったからでしょう。 でもヒヤヒヤものだったかも知れません。 秀忠は、このとき大きく成長したのでしょうね。 「廓山和尚供奉記」の話は大変参考になりました。 これは当たり障りのない世間話ですから家康の本音でしょう。 「予 当国を擇びて住するに 凡そ五つの故あり」からは、豊臣家と豊臣恩顧の大名について、家康がどんな施策を練っていたのか、直接には伝わってきませんが、「要害最も堅固なり」の話から「江戸城の前衛として、大坂方に対する備えとして、新しい駿府城が築かれたと考えられる。」(#3のご回答にある小和田哲男氏の見解)と読み解くこともできるのですね。 >(5)「五に曰く。幕府に参勤の大小名等、来て吾を見るに便ありて、毫(ごう)も道を枉(ま)ぐるの労あるなし」 なるほど、こんなことも言っているのですね。 家康は自信満々であるので、江戸から離れることができたわけですね。

回答No.3

当時の状況からすれば「大坂方との一戦を想定した最適地の確保」=駿府との 小和田哲男氏の見解が有力のように思います。 家康自身が「どうして駿府を選んだのか」について語った言葉が 『廓山和尚供奉記』と『宝台院記』に載っているとのことで、 『廓山和尚供奉記』にも四つ目の理由としてあげられ、 『宝台院記』には一番目の理由としてあげられている要害の地というのが 決定的だったのではなかろうか。 つまり、江戸城の前衛として、大坂方に対する備えとして、 新しい駿府城が築かれたと考えられる。 駿府・遠江には、背後に、富士山・箱根山、南アルプスの山々がそびえており、 川も、西から、天龍川・大井川・安倍川・富士川が流れている。 これらの河川は、勾配が急で、流れが急なのが特徴、 いわば、天然の堀の役目を果たしていた。 駿府城は平城ではあるが、文字通り、要害の城となっていた。 『歴史群像 デジタルアーカイブス 小和田哲男選集3 徳川家康 大器晩成の覇者 関ヶ原合戦/小和田哲男/学研プラス/2016』 「大坂方との一戦を想定した最適地の確保」 https://books.google.co.jp/books?id=YMhVCwAAQBAJ&pg=PT131&lpg=PT131&dq=%E5%AE%9D%E5%8F%B0%E9%99%A2%E8%A8%98&source=bl&ots=U0KtRBucle&sig=2B-WurUB49fDfGc1az80vGwgdLw&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjclKuGyvXKAhVLJpQKHU-1CnsQ6AEIMDAE#v=onepage&q=%E5%AE%9D%E5%8F%B0%E9%99%A2%E8%A8%98&f=false 『奈良史学10号/奈良大学史学会/1992-12』[46-63] 「初期幕政における二元政治論序説/鎌田道隆」 http://repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=AN10086451-19921200-1003 (四)家康における伏見と駿府[9/18~13/18] 以上

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 江戸に幕府を置くと決めたのですから、築城し、町をつくり、人を集めることが緊急であったろうに、飛脚しか連絡手段のない時代、家康が駿府から天下普請を指図するような悠長なことでよかったのだろうか、という疑問でした。 家康は、築城や市街地整備より「江戸城の前衛として、大坂方に対する備えとして」駿府城修築を重要視し、自ら乗り込んだというわけですね。 “隠居”とはほど遠い。 家康にとって、関ヶ原後の最大の関心事は、豊臣方と結着を付けるということだったのですね。 江戸とその周辺は譜代でがっちり固めたから、秀忠に任せても大丈夫だと。 『奈良史学10号/奈良大学史学会/1992-12』「初期幕政における二元政治論序説/鎌田道隆」は評論なので、私にはちょっと難しいですが、大変参考になりました。 1992年12月号ですから、課題とされた部分がその後の研究で少し解決されているかも知れませんね。 私の考えを整理するために2点、抜粋しておきます。 1.「 江戸の将軍政治は当面幕府の基礎づくりを主要な目的とした」のに対し、「駿府の大御所政治は、文字通り全国統治の政権として君臨した」という。 2.大御所の駿府時代について考えてみよう。家康がなぜ駿府を選んだのかということも考えなければならないが、なぜ伏見ではなかったのか、なぜ江戸ではなかったのかという点をこそ考える必要がある。 結果からいえば、大御所家康は伏見に滞在しなくても、駿府にあっても西日本支配が可能な条件をつくりだしたのではないかということと、東日本と西日本支配を分離しつつ、それを江戸において統一的にとり扱うにはまだ若干時期尚早だという判断があったのではないかということである。

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (811/3029)
回答No.2

基本的には秀忠に代替わりしたことを強く印象づけるためでしょう。自分はいつ死ぬかわからぬ年齢で自分が死んでも徳川が安泰なようにと思って将軍職を譲ったのですから、実際にはお飾りでも周りに秀忠が将軍として幕府を運営できるように見せなければなりません。 でもまあ本当のところはわからないですよね。楽隠居して自分が育った暖かくて食べ物のおいしい地でのんびりしたかったのかもしれません。家康は幼少期駿河で人質生活を送ってますし、駿河は江戸よりだいぶ温暖で魚介もおいしいです。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >基本的には秀忠に代替わりしたことを強く印象づけるためでしょう。 なるほど! なんと言っても、秀忠が将軍に就いたのだ、という事実を知らしめることが最大のポイントですね。 納得しました。 >でもまあ本当のところはわからないですよね。 そうですね。 同時代の記録があったとしても、本音を語っているとは限りませんし、記録した者の勘違いもあれば、脚色したのかも知れません。 そこは、想像する楽しみです。 >楽隠居して自分が育った暖かくて食べ物のおいしい地でのんびりしたかったのかもしれません。 この気持ちがあったことは間違いないでしょう。

回答No.1

いいえ 家康は隠居したから駿府へ引っ込んだんですよ 新たな権力者として君臨するわけではありません 秀忠が駿府へ引っ込む家康にその事を尋ねていますが 「二人が江戸に居て 万一江戸で変事が起こったら何となす?かつて信長公は息子を京都に連れて行き2人共殺された。そうならないためにも自分は駿府に引っ込んで備える必要がある」と 当時はまだ豊臣家は健在です 用心深い家康ならではの発想だと思います それに駿府は元々家康の居城で 住み心地が良かったと言うのもあるようです

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そんな話もあるのですね。 参考になりました。

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