整理しない経験や認識

このQ&Aのポイント
  • 整理しない経験や認識とは、個々人が自分独自の観念や概念を持ち、世界を構築している状態を指します。
  • しかし、未整理で分類されていない資料や知識は活用しづらいです。
  • 一方で、整理せずにさまざまな認識や知覚経験を経験することができる人も存在します。
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整理しない経験や認識

私たちって、それぞれみな自分なりの観念概念のヒエラルキー構造やら世界を作って持っていますよね。 (大学図書館に46年いましたが)未整理、未分類の資料や知識ってなかなか使いこなせません。 (でも古だぬきというか、オペラ座の怪人だった私は古い教員の遺族が寄贈した図書数万冊をざっとみて、内容のすごさに驚いて覚えてしまうんですが。これは例外です。) 私たちは知見や認識、判断や知覚經驗を何とか整理し区別ラベル貼りをして落ち着くことができ、自己の中に格納することができます。 そういう事をしないで、いろんな認識判断や知覚經驗をしていることができる人っているでしょうか? それが徹底できれば、カントの物自体に迫ることもできないでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

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  • koosaka
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回答No.1

カントの物自体・Ding an sichの物というのは物体のほかに、霊魂とか、出来事、他者などの意味があり、必ずしも物体だけとは限らない。 日本でも、物語、物の怪、物に憑りつかれる、という場合の「モノ」は霊魂の意味。 近世のデカルト以降、モノと言えば物体を意味するようになったが、それ以前は多様な意味があり、カントもその両方を使い分けている。 よくカントを読んで、私たちは現象は認識できるが、その現象の向こうにある物体は認識できない、という風に理解している人がいるが、それはカントの誤解。 カントは、現象の向こう、という言い方をしていない。 なぜって現象の向こう側に何かがあるわけではないからだ。 カントが言ったのは、霊魂とか、他者とか、その種の人間の理性をもってして知りえないものは不可知である、それを認識するには限界がある、と言っただけなのだ。 「純粋理性批判」は自然科学の基礎付けとして書かれたもので、自然科学にとって物はすべて認識できるので、物自体なんて存在しないのだ。 ただ、自然科学では霊魂だとか、自由だとか、他者だとか、その種の科学をもって知りえない形而上学的なもの、人間を超越するものは知りえないという、当たり前のことを言ったに過ぎない。 詳細に言うと、ハイデガーは「モノ論・物への問い」という本で、物を3つに区別している。 (1)目の前にあるものという意味。普通にいう物体。 (2)思念されているモノという意味。計画・決断・思慮・心術・行為・歴史的事件など。 (3)何かあるものであるが、目に見えないもの。霊魂、他者、神など。

krya1998
質問者

お礼

ご訪問ありがとうございました。 私もそういうご見識を含んでカントを理解しております。

その他の回答 (1)

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.2

krya1998様、おはようございます。 ちょっと、ずれるかもしれないのですが、 経験的に、 戦前の書物で、まさに「産めよ殖やせよ」というのが、 (生物学的な意味で)推奨されていた、というのを、 図書館で見つけて、へへー、と思いました。

krya1998
質問者

お礼

ご訪問ありがとうございました。 大分ずれておられます。

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  • 神は存在しない、神は「妄想」です!

    従来から、神の存在証明には、以下の3つがあります。 (1)自然神学的証明(一名、目的論的証明) これは生物の仕組みがものすごく精巧にできていることから、このような生物は神がいて、その神が設計図を引いて創ったに違いないと推論し、神の存在を証明しようとしたもの。 カントは確かに生物の仕組みが合理的に精妙にできているのは確かだが、だからと言って神が存在するとは言えない、と批判しました。 ダーウィンの進化論では、生物は長い歳月をかけて、現在の精密な仕組みを作り上げたことが分かっていますので、この証明は今では無効です。 (2)宇宙論的証明 これはアリストテレス、トマス・アクィナスの証明と言われるもので、以下のようなものです、 「この世には運動するものがあるが、それには原因がなければならない。そして原因があれば、その原因も結果であり、さらに原因の原因がなければならない。しかし、原因の原因も結果としたら、さらに原因の原因の原因もなければならない。かくて原因の系列は無限にさかのぼってゆく。しかし、人間は無限にさかのぼることはできないから、どこかで初動者とか、第一原因に突き当たらざるを得ない。その初動者とか、第一原因と言われるものが神である」と。 しかし、無限にさかのぼるということは、行けども行けども果てしがないということであり、どこにも行き着かない、ということです。 アリストテレス、トマスは初動者とか、第一原因に突き当たるというけれど、突き当たりません。 だから、この証明は間違いです。 (3)存在論的証明(一名、本体論的証明) これは一切の経験を除外して、ただ概念のみから最高存在者の存在を推論するもの。 以下のものがあります。 聖アンセルムスの証明。 「神は全知全能、完全無欠の存在である。全知全能・完全無欠の中には、存在も含む。もし、存在を含まなかったら、神の全知全能・完全無欠という定義に反する。よって神は存在する」 デカルトの証明。 「この世に存在するすべてのモノは偶然の存在である。偶然の観念があれば、必然の観念もなければならない。しかるに神は必然の存在である。よって神は存在する」と。 この証明に対しカントは「純粋理性批判」の「神の存在論的証明の不可能の理由について」で、以下のように批判しました。 「神の全知全能・完全無欠というのは、神の述語である。しかるに存在は述語ではない。だから、神がいかに全知全能・完全無欠と言ったからと言って、神が存在するとは限らない」と。 つまり述語とは、もともと主語に含まれた性質なり属性を外に展開したもの、いわば分析判断ですが、しかし存在は主語に含まれた性質でも属性でもない、主語に何ものも加えない、ということ、いわば総合判断です。 アンセルムスの証明は存在を主語に含まれると言っているが、それは分析判断と総合判断をごっちゃにするもので、間違い。 デカルトの証明は、観念としてあるものは実在してもある、と主張するもので、観念があるからと言って実在があるとは限らない、という意味で、間違い。 こうして神の存在証明には、従来3つしかありませんが、そのことごとくをカントは批判し、これをもって西欧の長い神の存在証明の歴史に終止符を打ったとされます。 現在、神は道徳的な行為の元に価値として、あるいは信仰の問題として残っているだけです。 みなさん、どう思いますか? 確認質問です。

  • この問題の答えを教えてください(教育)

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  • 人間と社会とについての用語の確認

     §1  《スサノヲ(S)-アマテラス(A)》連関  (1)  人間は 《スサノヲーアマテラス》連関主体であると思います。  《スサノヲ(S)》とは 《市民》を言い 《わたくし》の領域です。  《アマテラス(A)》は 《公民》《おほやけ》の領域です。  (2)  強いて分ければ S者(S領域)は 《精神》なるA者(A領域)に対して 《身体》です。身と心とは一体であると見ますが S者なるわたくしの運動は 一般に社会的な生活の中で自己のA者なる精神によって 記憶され知解(認識・意識)される。また 記憶にもとづき知解されたものごとを 人は身体のウゴキとともに意志する。  (3)  《S-A》連関は 《身体‐精神》および《市民‐公民》のそれぞれ連関構造となります。  (4)  わたしたち一人ひとりが 市民であることにおいて公民の領域をも担い その共同自治のための――選挙等をつうじての――役割を普通に果たすのですが 社会のなかで 外形的に・職務として 公民の役割を担う者も 制度として存在します。政治家・官僚等いわゆる公務員として《もっぱらのA者》でありこれは 《アマテラス社会科学主体》のことです。  (5)  これに対する概念は 《スサノヲ社会主体》です。一般の市民としてのスサノヲ社会主体は むろんそのままでA者・公民の役割を自己のもとに留保します。ここで 差し支えない限り 一般の市民を単にスサノヲと言ったり 従ってもっぱらの公民のことを アマテラスと簡略に呼ぶこともあろうかと思います。   (6)  次に初めに帰って S者が 身体の運動をその基礎とし A者が特にはS者に対するかたちで 精神を表わすとすると このA者は S者〔のさまざまな運動過程つまり一般に社会生活〕の中から抽象されて ある種の普遍的な概念をかたちづくるものと見られます。これを わたしたちは アマテラス概念 A概念・A語・A語客観などと呼ぶことができ これに対する意味ではS者は 主観であり 人間語です。  あやまちうるスサノヲ人間語と あやまつべからざる〔と一応考えられている〕アマテラス科学語および人格語なる普遍語です。    §2 主観としての《S‐A連関》から出発する  (7)  主観というとき わたくしなる存在が 身体(S)を基体とし 一般にその身体と連動する精神(A)を伴なっていると思われます。十全な意味での主観ないし主体とは やはり《S者ーA者連関》なる一個の存在です。  (8)  すでにここで 客観は 主観に対立すべきものではなく 主観の中にあって主観により把握されたものであり 主観から表現(=外化=疎外)されたときにも それを主観・主体が 用いるべき概念だということに注目しておくことができます。  (9)  このA語客観が 自己からまさに疎外されたかたちの概念は ことに《観念》であると見ます。もしくは それが初めに一応 客観であったことより 《共同の観念》であると見ます。 現実性あるいは特に知覚という事実性から離れた概念のことです。  (10)  主体的な生きたA語客観は おのおのの主観として殊に《共同主観(common sense=常識)》であると考えます。より正確には この常識=共同主観は 生活ないし行為そのものを言うほうがふさわしく これをA語客観でとらえたものは その何らかの思想的な形態または理論というほどの意味です。  (11)  主観が 社会的に共同化されて共同主観となるばあいには このようにS者がA者(A語・A概念)をとおして生活の共同性を見ている・築いているということであり この共同性が協働性を含むことは 言うまでもありません。    §3 共同主観と共同観念  (12)  さらに このA者(A語・A概念・A語客観)は それだけを取り出すときには 精神をちょうど言葉によってのみ捉えたというように単なる観念であり あるいはそこから観念的な現実というまでのものになりえます。想像の領域です。  (13)  たとえば 《和(やわらか)》とは まず肉眼でとらえうる・そして感性で理解しうるモノ(質料)や身体(質料より成る)のそのような一つの属性である。しかるに 《和を以って貴しと為す》というときの《和》は すでに 観念であり共同観念であります。それは S者・身体の運動から切り離しても 語ったり論じたりするからです。つまり 抽象的でもあります。  (14)  したがって 初めに 素朴にあたかもムラ(村)イスムなる共同の生活において この《和》が 主体的に・つまり《S者ーA者連関存在》おのおのの行為をとおして 過程的・現実的に見られるとき それは すでに言った共同主観であります。  (15)  これが ある種の仕方でこれらの現実から切り離されて 掟・道徳・律法などとして論じられ 規範的にも訴えられるとき それは 共同の観念 観念の共同性 つまり共同観念をつくりあげることが 可能です。  (16)  この別種の《常識》は あたかも第二次的な・仮象的な共同主観であり たとえば《ムライスム》と名づけられる以前に存在する常識が 感性的で・かつ主体的な共同主観であったとするなら このムライスムと名づけられた語・概念・客観じたいが 共同観念ということになるでしょう。  (17)  共同主観は より一層S者市民的であり これに対して共同観念は A語客観的であることによって ムライスム(《和》)あるいは ナシオナリスム(《大和=やまと》)といった次元で 社会的です。  (18)  しかも共同観念は 必ずしも感性的でないことによって観念的であり 時に幻想的となりえます。観念的・幻想的な共同性が 感性的でないと言っても あたかも慣性の法則によってのように 情緒的・情念的となりえないとは言えません。もともとは S者・スサノヲ語に発しているのですから。  (19)  もっとも 第一次的な・生活日常的なスサノヲ者の寄り集まるムラ〔イスム〕の次元での 感性的なつながりと そして 第二次的でより多く非日常性の機会に接するナシオン(ナシオナリスム)の次元でのそれとは 基本的に異なる。  (20)  つまり 後者での感性的なつながり(たとえば愛国心)は むしろ スサノヲ者の感性とは 一たん基本的に切れているから そのナシオナリスムといった共同の観念が すでに外から・または上から一人ひとりのスサノヲ者に おおいかぶさって来るというようなしろものです。  (21)  また 第一次の共同主観を その第二次的なものである共同の観念の中で 理念的に――つまり A語客観精神においてということですが――保ち これを表現したものが 憲法をはじめとする法律であるかとも思います。これは 共同観念である限り やはりおおいかぶさって来るものにちがいないのですが 理性的に――経験合理的に――スサノヲ者の内面において ほぼそのまま見出されるそれであるということになるでしょうか。    §4  記憶・知解・意志(愛)  (22)  身体の運動なるS者に対する A者=精神のうちの《記憶〔行為〕》は 言わばわれわれの精神の秩序であり 存在の内なる組織であります。  (23)  同じく《知解行為》は 記憶の倉庫から概念をみちびき出すかのようにして ものごとを知解する。すなわちそれはそのまま 労働・生産行為へとつながってゆくものと思います。社会的な生活のなかで これらが働くとまず初めに見たのですから。  (24)  何を・どのように生産するかそして生活するかは 同じく第三の行為能力である《意志》に基づくでしょう。  (25)  精神の秩序たる記憶行為に基づいて 意志はまず 自己の愛(つまり愛とは 自治のこと)であり 労働・協働の場においては それぞれの《自己の愛》の意志共同というほどに 経営行為につながるでしょう。また《記憶》の共同性は この生産・経営の態勢(会社)における組織行為にかかわります。  (26)  記憶し知解し意志するワタシたる《S-A連関主体》は――もし経済活動が 現実の生活の土台であるという限りでは―― このように《組織-生産-経営》の共同(協働)性の場で 先の共同主観を形成しつつ生きることになります。  (27)  また 第二次的に〔あたかも この初発の共同主観の古くなったものの残像であるとか それらの社会なる鏡に映ったA語概念としての古い掟であるとかといったように つまりはいわゆる前例・先例としてのように〕観念の共同を ある種不可避的に持ちつつ やはり生活を送ります。  (28)  従って言いかえると 一般に新しい共同主観と旧い共同観念との葛藤関係のなかで人は 生きることになります。  (29)  新しい共同主観は 一般に S者・市民の中から生起します。共同観念を保守しようとするのは 一般に公民たるA者です。それぞれそのように生活しています。  (30)  そこでこの区別のかぎりでは 社会形態(国家のことです)は S者の共同体である市民社会と A者の共存圏である狭義の社会形態とから成り立つと考えられます。それぞれを S圏(スサノヲシャフト)とA圏(アマテラストゥーム)というふうに呼ぶことにしたいと思います。象徴はアマテラシテです。  全体としてちょうど二階建ての家を形成しています。  (31)  以上のように人間と社会とをめぐって自己了解した図柄をえがきました。つまりこのような用語をつかって人間と社会とをあつかって行きたいと思いますが いかがでしょうか。