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私は死ぬのが怖くて怖くて仕方がない。恐ろしくて恐ろ

私は死ぬのが怖くて怖くて仕方がない。恐ろしくて恐ろしくて仕方がない。自分自身が無に消えてしまうのが心の底から恐ろしい。だから発狂しそうになる。 その意味では私自身、秋葉原事件の加藤智大や宅間守の気持ちがよくわかるような気がする。私自身が精神の異常が原因で人を殺すことは決してなくとも。 この世に生きる不安、いつか必ず来る死の恐怖。私は死ぬのが怖くて怖くて仕方がない。 だけども世の中の多くの人は私のように死の恐怖に恐れおののいているようには見えない。私にはこれが不思議で不思議で仕方がない。 なぜ?

みんなの回答

  • pct10968
  • ベストアンサー率21% (640/2970)
回答No.11

じじいです。 >私は死ぬのが怖くて怖くて仕方がない。恐ろしくて恐ろしくて仕方がない。自分自身が無に消えてしまうのが心の底から恐ろしい。だから発狂しそうになる。 何度か死の淵に立たされてみると、今生きている事がとても愛おしくさえ感じる。 >その意味では私自身、秋葉原事件の加藤智大や宅間守の気持ちがよくわかるような気がする。私自身が精神の異常が原因で人を殺すことは決してなくとも。 生命など弱くて脆いものだ。 その弱くて脆い命をいとも無造作に摘み取る異常性は、如何なる理由を付けようと許せない。 >だけども世の中の多くの人は私のように死の恐怖に恐れおののいているようには見えない。私にはこれが不思議で不思議で仕方がない。 弱くて脆い自分の生命、弱くて脆い他人の生命を愛しく思う事だ。 弱くて脆い生命が無くなる事に怯えて過ごす事より、今生きていることを大事に思うことだ。 永遠じゃない、この限り有る人生を精一杯生き切り、「良い人生だった」と思って死にたいものだ。 >なぜ? 無駄に生きているから、疑問が出る。 精一杯、全力で生き切る事だ。 温い、ぬるま湯人生だから、常に死が怖いのだ。

回答No.10

いつか来る死が目の前にあるとは思っていないからだと思います。 いつも明日がくると当たり前のように思ってしまっているからだと。

noname#212724
noname#212724
回答No.9

> 世の中の多くの人は私のように死の恐怖に恐れおののいているようには見えない。私にはこれが不思議で不思議で仕方がない。なぜ?  まずは、satouenn 様ご回答の通り「日々の生活に追われてそれどころじゃない。」ってトコでしょう。『下手の考え休むに似たり』ってやつです。  でも、私のように還暦も過ぎて、両親・実弟・女房殿まで送った人間となると『死の恐怖』ってないですね。「したいこともし終えたし、しなくちゃならんことも無い。」となれば「女房の元へ」ってなるんです。  ただ、先週中学時代の友人たちと昨年心臓のバイパス手術を受けて“命を拾わされた”私の快復を祝って温泉に行きましたが、彼らが言うには「お前はあっちに行ったら蹴飛ばされてこっちに戻されたんだ。お前の奥さんあっちで男でも出来てるんだろう。」って。益々「急がなきゃ」と思ってますが生憎どこも悪くない。医者の話じゃ「心臓は20年持ちます。保証します。」って。今はこれが最も悩ましい問題です。「一体、20年も動き続ける心臓を持っちゃった私はどうやって死ぬのだろう?」って。これも『死の恐怖』と言えば言えなくもない?

  • satouenn
  • ベストアンサー率13% (274/2053)
回答No.8

日常生活が忙しくて、それどころではない、というのもありますが、考えても仕方がないというところもあります。

  • k205t
  • ベストアンサー率13% (345/2543)
回答No.7

人間は、いつかは死にます。 そして母親を目の前で死んでいくのを見ています。簡単に死んで行きます。 病院の先生から1ヵ月前に、もう治らないし1ヶ月後には死ぬと言われました。 その1ヵ月間は、もう寂しいのと悔しいのといろいろと泣いていました。 でも死ぬ日が来たら、べつに涙も出なかったし悲しいとも思いませんでした。 そしてそれ以外にも愛犬の死も目の前で見ました。もうほんの一瞬です。 犬の場合は、死んでからすぐに硬直します。人間とは違います。 いろんな死を見て来ました。 べつに怖がる必要はありません。

  • STICKY2006
  • ベストアンサー率29% (1536/5269)
回答No.6

10秒後に隕石に当たって死ぬのか、10分後に突っ込んできた車に巻き込まれて死ぬのか、10日後に寝ぼけてベッドから落ちた際に首折って死ぬのか、10年後に病気で死ぬのか。。。 いつ死ぬか分かりませんが必ずいつかは死ぬので、どうせ死ぬなら、今現在を全力で楽しんで生きてなきゃ勿体無いので、死ぬ恐怖にガクブルするより前に楽しむことを優先します。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.5

"だけども世の中の多くの人は私のように死の恐怖に恐れおののいている ようには見えない。私にはこれが不思議で不思議で仕方がない。 なぜ? "  ↑ 怖いから考えない、考えても意味ないから 考えない。 忘れている。 等々が理由だと思います。 常に死を意識する、というのは大切な事です。 死を意識出来るから、生も意識でき、大切に生きよう ということになるからです。 常に死を意識する、これをメメントモリといいます。 親の死には立ち会うべきです。 親の死を眼にして、生死の意味を知るのです。 ”私は死ぬのが怖くて怖くて仕方がない”     ↑ 90歳を過ぎると、恐怖も苦痛もなく死ねるそうです。 健康に注意して長生きしましょう。

  • kaitara1
  • ベストアンサー率12% (1119/8875)
回答No.4

死ぬのが怖くなくなりたいわけでもないのでしょうが、おそらく自分が生きているということを支えてくれているものが何かがわからないことも、死ぬのが怖い理由(のひとつ)では。なぜ妊娠のカテゴリ-に投稿しているのかもわかりませんが、自分がなぜ生きているのか、それなりに考えてみたらどうでしょうか。こたえがわからなくてもとにかくいきていられるのですが、死ぬのも同じ理由からであると考えれば少しは落ち着きませんか。ほかの方がおっしゃっているように、死ぬのが怖いというのは生きる(あるいは生きている)ことが怖いのだと思います。死ぬのが怖くなれる方法はほかにもたくさん(?)あると思いますが・・・。

  • yumi0215
  • ベストアンサー率30% (1335/4411)
回答No.3

死ぬかもしれないという思いを数回経験しました。 でも今元気に生きています。生きていることが当たり前のことではなく、とても運がいいことというか恵まれていることだと思っています。 死ぬことが恐ろしいというよりも生きていることが幸せだという気持ちで考えています。 生きていて幸せだと感じることありますか?楽しいとか嬉しいとか。それは生きているから感じられること、今生きていることが幸せでありその瞬間とこれからも訪れる幸せを味わえる時間を楽しんでいきたいと考えることは難しいでしょうか。 子供のころ、身内の死に会いました。その時は死というものが同じようにとても怖くてその恐怖心は小学生の私にはとてもとても克服できないものとしか思えないものでした。ですがそれが何度か続いていくうちに死は誰にでも訪れるものである事、そして最後の時に残された方たちが良い人生だったと思ってもらえるような生き方をすることも幸せな事なのではないかと思えるようになりました。 その後事故や病により死を感じることが数度あり、生きていくことの大切さや尊さをはっきりと認識できるようになりました。死を恐れるのではなくて上手に生きていくことを考えたほうが楽しい人生が送れるなって。 まだ天命を全うしたと言われる年齢ではないので、今すぐ死を迎えるのは抵抗があります。まだやりたいことはあるしもっと周りの人たちと楽しい時間を過ごしたい。 死ぬのが怖いのではなくて、まだいや。という感じですね。 死ぬときは死ぬ。生きられるときは何をしても生きられる。 私はそう思っています。悟っているわけではないけれど逃げようもないことにむやみに恐怖心を持っていても得なことはないと思っているし。 世の中の多くの人も毎日死について考えて生きていないと思いますよ。だから恐怖に恐れおののいてはいないのではないでしょうか。

  • qwe2010
  • ベストアンサー率19% (2125/10784)
回答No.2

身体が元気なときは、死ぬ事なんて考えていません。 だからおそれない。 でも危険なところに行けば、恐れているでしょ。

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