太平洋戦争より前の日本での敵前上陸戦事例

このQ&Aのポイント
  • 太平洋戦争より前の日本での敵前上陸戦事例は存在するのか?
  • 日本が経験した敵前上陸戦の事例を探しても、元寇や木津川口の戦いなどは上陸以前の戦いであり、厳密な敵前上陸戦ではない。
  • 弓矢飛び交う中船からの強行上陸は困難であり、上陸側に有効な支援火力がないことが難しい理由の一つとされる。
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太平洋戦争より前の日本での敵前上陸戦事例

よろしくお願いします。 太平洋戦争より前、日本が経験した敵前上陸戦(攻守どちらでも)というものは存在するのでしょうか?  それっぽいものを考えてみても、元寇は既に上陸を果たした元・高麗軍を追い落とした戦いであり、厳島合戦も既に毛利方は島に拠点を築いていました。木津川口の戦いも上陸戦というよりは、制海権を巡った争いと思われます。朝鮮出兵や日清・日露戦争も、あまり上陸時の状況について話を聞きません(制海権を巡る戦いはある)。  弓矢飛び交う中船から強行上陸を行うようなことというのは、やはり無理があるのでしょうか?できればその理由もご教示頂ければと思います(例:上陸側に有効な支援火力が無いと難しい等)  

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  • ベストアンサー
  • fumkum
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回答No.5

こんにちは 「木津川口の戦いも上陸戦というよりは、制海権を巡った争いと思われます。」 太田牛一の『信長公記』の「巻九 天正四(1576)年丙子」の「西国より大船を催し木津浦の船軍歴々討死の事」に次の文があります。 七月十五日の事に候。中国安芸の内、能島、来島、児玉大夫、粟屋大夫、浦兵部と申す者、七、八百艘の大船を催し、上乗候て、大坂表海上へ乗り出だし、兵糧入るべき行(てだて)に候。-中略-(織田方は)三百余艘乗り出だし、木津川口を相防ぎ候。御敵は大船八百艘計りなり。乗り懸け相戦ひ候。陸は大坂ろうの岸、木津ゑつ田が城より一揆ども競い出で、住吉浜手の城へ足軽を懸け、天王寺より、佐久間右衛門人数を出だし、横手に懸け合ひ、推しつさされつ、数刻の戦ひなり。-中略-西国の舟は勝利を得、大坂へ兵糧を入れ、西国へ人数打ち入るるなり。信長御出馬なさるべきところ、既に落去の由候の間、是非に及ばず。其の後、住吉浜の城定番として保田久六-中略-番手に入れ置かれ候。 つまり、木津川口の戦い(第一次)の目的は、制海権をめぐる争いではなく、兵糧を(大坂)石山本願寺に兵糧を入れるために、上陸を計るわけです。これを阻止するために織田方は「木津川口を相防ぎ」としています。また、毛利方の上陸を助けるために、大坂ろう(楼)の岸、木津ゑつ田の出城から一揆軍が出撃し、これを織田方の佐久間信盛隊が横槍を入れるとしています。結局は海戦で織田方が壊滅し、「大坂へ兵糧を入れ」=つまり敵前上陸に成功したわけです。信長が反撃を考える頃には毛利水軍は退去しており、付城の強化することにより兵糧輸送を阻止使用とします。 天正5(1577)年11月の木津川口の戦い(第二次)の目的も、第一次と変わらないのですが、準備万端の織田軍により、毛利軍は海戦に敗れ、上陸・兵糧搬入は阻止され、毛利方は当初の目的を達成することができなかったわけです。ただし、海戦では敗れても、海戦中に別働隊が兵糧搬入を果たしたとする有力説もあります。 この二例は、上陸阻止(織田)側に有力な水軍力が存在したために、海戦となった事例です。 上陸阻止側に有力な水軍力が存在しない上陸作戦が、羽柴秀吉の播磨攻略戦の三木城包囲戦での例あります。天正7(1579)年9月10日の平田・大村合戦で、三木城に兵糧を搬入しようとした毛利水軍は、秀吉側に水軍が存在しないために易々と上陸しますが、搬入路の監視のための秀吉側の平田砦に攻撃を仕掛け、同時に三木城側も出陣し、大村の地で秀吉側と戦闘になり、大村での戦いで三木城側破れたために搬入が難しくなり、毛利軍は海上に撤退し、帰国します。上陸阻止側に有力な水軍力が存在しない戦いのために、海上戦で上陸を阻止することはできませんが、要所に対応のための城砦を設けることにより、敵の上陸目的を阻止しようと戦いになります。そのために、上陸軍に呼応する陸上部隊が、軍事行動を展開することは、木津川の戦いと同様です。 さて、近代以前の日本において最大の敵前上陸作戦は、たぶん建武3(1336)年5月25日に行われた湊川の戦いだろうと思います。湊川の戦いは、楠正成の陸上における奮戦と自刃が有名ですが、対する足利軍は水陸両用作戦で、水軍をさらに二手に分けて、敵前上陸作戦を実施しています。 中先代の乱で鎌倉に下った尊氏は、建武政権に反旗を翻し、箱根の戦いで新田義貞率いる追討軍を撃破し、そのまま京都まで進撃します。その足利軍を、奥州の北畠顕家や新田義貞軍が追尾し、京都及び周辺で破ります。敗れた足利尊氏は、九州に落ち、多々良浜の戦いに勝利し、勢力を回復します。そして、再度上洛を図り、北朝(この時点では持明院統)の光厳上皇よりの院宣を得て、官軍としての形式を整えます。この間建武政権側は、播磨の白幡城に拠って反旗を翻した赤松円心を攻めることに拘泥し、主将の新田義貞は、戦力と時間を浪費します。足利軍は陸上を足利直義が率い、西国街道により東上します。海上は足利尊氏が率います。足利軍には道々諸国の武士が参加し、軍勢が増えて行き、逆に建武政府側は脱落するものが増えるようになります。海上に関しても、同じように足利軍に四国などの水軍が加勢し、急激に膨張していきますが、建武政権側は水上勢力を得ることはできませんでした。建武政権側は、白幡城包囲から撤退した新田軍と、援軍の楠正成軍が兵庫の和田岬周辺に着陣します。西国街道を進んだ直義軍が、楠軍と対峙し拘束する間に、足利水軍のうち先行する細川定禅率いる四国水軍は、和田岬を過ぎて東行し、*それを追って新田軍が東に動きます。細川定禅軍は、生田に上陸し、新田軍を攻撃し、新田軍を敗退させます。この間に尊氏率いる水軍は、和田岬に上陸します。新田軍は敗退し、残る楠軍は戦場に残された格好となり、重囲の中で壊滅します。この戦いにより、建武政権側の京都防衛は破られ、後醍醐天皇は比叡山に避難し、其の後尊氏に降伏して(形式としては退位)京都に還御しますが、その京都から脱出してからは二度と京都に帰ることはなく、建武政権は崩壊したことになり、湊川の戦いが政権の帰趨をかけた戦いに結果的になりました。 湊川の戦い以前ということになると、668年の百済救援・復興戦の白村江の戦いになるのでしょうが、周留城の近くに上陸して、城に物資・兵員を入れたかったのか、それとも有力な唐・新羅水軍に海戦を挑んだのか、目的がはっきりしません。ただ、河口に布陣する唐・新羅水軍に海戦を挑んでいることから考えると、敵の防衛ラインを突破して周留城の近くに上陸し、城に物資・兵員を入れることが目的かとも思います。 *それを追って新田軍が東に動きます=新田軍が東に動くのは、細川定禅軍が生田に上陸した後との説もあります。 以上のように、日本の敵前上陸戦の場合、大なり小なり、陸上部隊との連携があったことが分かります。特に兵糧搬入の場合、搬入先は有力な敵に包囲されている状況ですから、敵に有力な水軍がある場合には、排除しなくてはならず、さらに上陸した後、有力な敵に陸上で戦わなければならないので、味方の陸上部隊との連携が必要であったと思われます。このような場合、海上よりも陸上のほうが危険度も高く、上陸後はできるだけ搬入路が短いほうが良いわけで、そのために上陸地点も限られ、防御側も上陸予想地に城砦等を築くなどの対応策をとっています。湊川の戦いなどの場合にも、京都に近く、大軍を上陸させ、なおかつ次の進軍に利便な場所というのはそれほどあるわけでもなく、源平合戦にも兵庫に平家軍が上陸、城砦化したのも、そのような条件に合ったからともいえます。 ただ、水軍の使い方として、兵糧などの物資の搬入、戦闘員の輸送だけでなく、通常は敵の後方撹乱戦に用いることも多かったようです。この場合は、敵軍がいない地点の村などに少数の船で攻め込み、火を放ち、物資を奪いなどして短時間で撤退する戦法ですが、護る側も、海岸近くで見晴らしが良い小山を持ち、その下に船溜りのある場所に、城砦を築き、海上の監視にあたり、異変があるときにはすぐに出船できるようにしています。 木津川口の戦い(第一次) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E6%9C%A8%E6%B4%A5%E5%B7%9D%E5%8F%A3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 木津川口の戦い(第二次) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E6%9C%A8%E6%B4%A5%E5%B7%9D%E5%8F%A3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 平田・大村合戦 http://blogs.yahoo.co.jp/smilepeace_v/31055591.html 湊川の戦い http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%8A%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 白村江の戦い http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 以上、長くなりましたが参考まで。

takepan_toki
質問者

お礼

詳しいご意見ありがとうございました。

その他の回答 (4)

  • zep19
  • ベストアンサー率45% (138/306)
回答No.4

第二次上海事変 日中戦争開始後 日本軍が第三、第十一、十四師団基幹の上海派遣軍を組織し、上海北の海岸へ敵前上陸を企図 1937年8月23日 第三師団が奇襲上陸を意図し海軍の艦砲射撃や航空支援なしに上陸を強行 日本軍は中国軍をナメきっており銃に実包を装填せず、銃剣突撃で蹂躙できるものと想定していた しかし中国軍はこの頃には徹底抗戦を決意しており 第三師団は奇襲上陸に失敗、大損害を受け、僅かな海岸堡しか確保できず 第十一師団上陸地点でも大苦戦し 同師団作戦日誌では 『夜襲ヲ受ケ混乱ニ陥ル。友軍相撃多数ノ死傷者ヲ出セリ、婦女子モ悉く殺害スルノ必要ヲ生ジタリ』 と日本軍が一般住民殺害まで行ったことを記している 一時は上海派遣軍が催涙瓦斯弾使用も検討した 9月5日にようやく両師団が提携し海岸堡を拡大できた (上海派遣軍はその後、第九、十三、百一師団、第十旅団が増援された) 第二次上海事変での日本軍の損害は日本軍側の資料では戦死9115名を含む死傷者4万以上という 想定外の大損害を受けた

takepan_toki
質問者

お礼

ご意見ありがとうございました。 確かに第二次上海事変もそうですね。橋頭堡作った後の上海へ辿り着くまでの方が印象に残りやすいですが。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10466/32908)
回答No.3

海外も含めるなら、ガリポリ上陸作戦(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84)が近代上陸作戦の最初といわれますね。 しかし、日本に限定するなら、敵前上陸作戦は太平洋戦争のコタバル上陸作戦が初めてというか、アメリカ海兵隊やノルマンディー上陸作戦並の敵前上陸作戦は小規模なものを除けば唯一なんじゃないかなと思います。他にあったかしらん? >弓矢飛び交う中船から強行上陸を行うようなことというのは、やはり無理があるのでしょうか?できればその理由もご教示頂ければと思います 簡単な話で、海から上陸するなら敵がいないところに上陸するのが王道だからです。何もわざわざ敵が待ち構えているところを上陸しなくても、待ち構えていないところに上陸すればいいじゃないか。それはあのアメリカ軍だって同じで、タラワ上陸作戦にしても、ペリリュー上陸作戦にしても、どちらかというと日本軍の陣地が手薄な側から上陸しているのです。ただ太平洋戦争のような島嶼を巡る戦いですと、上陸作戦に適した海岸は極めて限られるので「あっちかこっちかどちらかしか上陸の余地はない」となるのです。 またノルマンディー上陸作戦にしても、ドイツ軍が最も警戒していた(つまりそれだけ防衛陣地を強固に築いていた)パ・ド・カレーは避け、欺瞞作戦として南フランス上陸作戦を計画してあたかも「ノルマンディー上陸作戦は偵察目的の小作戦である」と思わせるように振る舞い、そのために質問者さんもご存じでしょうがドイツ軍側は「パ・ド・カレーに本格的な上陸作戦を行うための陽動作戦ではないか」と勘ぐって装甲師団の投入が遅れてしまいました。 上陸作戦というのは、基本的に上陸する側が有利なはずの戦いです。例えば東京を上陸作戦で太平洋側から攻略しようと思った場合、上陸海岸は主に湘南、九十九里浜、大洗辺りになります。このすべてに充分な兵力を配分し強固な陣地を構築するのは不可能です。限られた資材は、どこかに集中することになります。そうなると東京に近い湘南あたりは強化対象となり、大洗あたりは東京から遠いから後回しになるでしょう。上陸軍は、その中で最も手薄なところに上陸すればいいのです。 しかし裏をかいたはずのタラワやペリリューにしてもアメリカ軍はあれだけ甚大な損害を被り、史上最大の作戦であったノルマンディー上陸作戦も連合軍は苦戦を強いられました。つまりそのくらい敵前上陸は危険な作戦でもあるのです。 だからこそ、敵前上陸作戦はしないのが作戦の王道なのです。その典型例が朝鮮戦争のインチョン上陸作戦(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E9%99%B8%E4%BD%9C%E6%88%A6)で、これは北朝鮮軍の背後に上陸するものでした。インチョンは上陸作戦には向かないので、アメリカ軍内でも猛反対されたものをマッカーサーが強引に実行したのです。 敵前上陸作戦の失敗の典型例がディエップ上陸作戦(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%83%E3%83%97%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84)です。イギリス人はこの作戦に投入された連合軍将兵のことを「レンガの壁に叩きつけられた生卵」と表現しています。連合軍にとって最も苦い敗北のひとつですね。だからこの作戦のことは世間ではほとんど知られてません。戦勝国である連合軍が最も思い出したくない作戦のひとつだからです。

takepan_toki
質問者

お礼

ご意見ありがとうございました。 確かに敵前上陸は取る手としてはあまり良い策では無いですね。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9578)
回答No.2

takepan_tokiさん、こんにちは。 そうですね。第一次世界大戦でのドイツの要塞だった、青島の攻略戦はいかがでしょうか? 詳細は下記のURLを参照ください。 青島の攻略戦 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

takepan_toki
質問者

お礼

ご意見ありがとうございます。 青島の戦いは、強襲上陸を避けて後方から進軍だったと思っていましたが、もう一度調べてみたいと思います。

  • kuzuhan
  • ベストアンサー率57% (1586/2775)
回答No.1

まず上陸の前提としては上陸できる場所とか、橋頭堡が確保で来る場所が必要です。でも、陸上に防衛陣地を引いてるところに、ざわざわ的になりやすい船で突撃するのは作戦上問題がありますよね。 弓矢や砲弾の行き交う中で、というのであれば陸戦はほとんどがそうです。ですが、上陸戦となると、防衛側が十分な陣地を構成していれば、攻撃側(つまり海上側)はそれを上回る火力・火砲がなければ陣地を打ち破るのは難しいと考えられます。 動いているとはいえ、騎兵や自動車化部隊よりも鈍足で、しかも逃げ場がない海上で、強固な防衛陣地を上陸して打ち破るなら、相当数の被害が出ると想定できるからです。 城攻めでは3倍の兵力が必要と言われるように、城ではなくとも防衛陣地を抜くにはそれ以上の戦力が必要なことから、敵地に乗り込む場合はひそかに上陸するとか、既に占領している場所(たとえ迂回路になっても)から陸兵を揚げて、陸戦に持ち込むことが多いと考えられます。 近代で行くと「箱館戦争」は新政府軍による旧幕府軍に対する上陸戦が行われたと解釈できます。 緒戦で旧幕府軍側が江差防衛の一隊を乙部へ派遣したものの、間に合わずに乙部に新政府軍が上陸し、派遣された一隊を撃破。さらに江差を軍艦によって砲撃し、江差防衛の旧幕府軍を撤退させています。 大きな川などを挟んだ「四万十川の戦い」(長宗我部氏と土佐一条氏の戦い)や「多々良浜の戦い」(大友家と毛利家の戦い)、「琉球征伐」(薩摩藩による琉球王国への侵攻)あたりも上陸戦と考えることが出来るでしょう。

takepan_toki
質問者

お礼

ご意見ありがとうございました。 やはり上陸側にとって不利であることが確実であることからも、中々例は無いのですね。 教えて頂いたものについても調べてみたいと思います。

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  • 日清戦争についてこの論文を評価してください。

    日清戦争に関する論文を作成いたしました。 過程の誤りや、付け加えるべきポイントなど、その他日清戦争で重要だと思われるポイントなどございましたら、ご指摘下さいませ。 長文になりますが、宜しくお願いします。 日清戦争は、日本の産業発達に伴い、朝鮮国に市場を求めたことがきっかけであった。朝鮮国は日本における本国の支配を恐れ、この要求を拒否した。明治政府は朝鮮との国交回復のために、まず朝鮮の宗主国である清と対等の国交条約を結び、これを利用して朝鮮との交渉するという方針をたてた。1871年9月に李鴻章との間で、日清修好条規を締結。(この条約は日清戦争をきっかけに失効した。) しかし、朝鮮との国交交渉が進展しなかったため、武力による開国を迫る征韓論が台頭した。だが、交渉は行き詰まり、征韓論派の板垣退助・西郷隆盛らが辞職し、これ以降大久保利通らが政治の実権を握ることになった。征韓論派の大久保主導のもと1874年、台湾蕃地事務長官に大隈重信を任命し出兵準備をさせた。日本軍は台湾南部の事件発生地域を占領し、先住民の村を焼き払うなどし、日本側の戦死者は12名であったが、年末までの駐兵でマラリアなどによる病死者が500名を超える事態となった。清側は直ちに講義し撤兵を要求。明治政府は交渉決裂の場合の清との開戦も決した。大久保が全権大使として北京で交渉し、難航の末イギリスの仲介もあり清は日本の出兵を義挙と認め50万両の賠償をすることで決着。江華島事件(3日間の発砲事件)をきっかけとし、1876年2月日朝修好条規が調印し、朝鮮が開国。(釜山のほか2港の開港・領事裁判権の承認・無関税特権の獲得)これは朝鮮にとっては不利な条約であった。1879年、明治政府は琉球処分を行い琉球藩を沖縄県とし、琉球内ではそれを不服とし明治政府に様々な嘆願を行い、清に救援を求める人々もあった。朝鮮国内では親日の開化派(独立党)と親清の守旧派(事大党)との対立が激化し、これと同時に日清の関係は悪化。さらに、朝鮮国内では日本人殺害や公使館焼失など日本人が10数人殺害される壬午事変がおこり、1884年には日本公使館の援助のもとに独立党がクーデターを起こしたが失敗した。(甲申政変) この事件で悪化した日清関係を調整するために、両国が朝鮮から撤兵することなどを定めた天津条約が締結。その後、朝鮮において後退した日本勢力の回復を狙い、旧自由党員が朝鮮国内でクーデターを計画した。(大阪事件)。 朝鮮国内では日本は経済的に進出し、物価の沸騰や賠償金支払いの圧力などが農村経済を悪化させ、1894年5月に日・欧の進出阻止を求める農民反乱がおきた。(甲午農民戦争) この事件をきっかけに日清の対立は表面化し、日本は清に宣戦布告し日清戦争に突入。日本は黄海海戦で勝利し、黄海・朝鮮の制海権を確保。さらに、鴨緑江作戦の成功により、日本軍は清国領土を占領。日本は勝利に終わる。戦後、日本側が伊藤博文と陸奥宗光、清国側からは李鴻章を全権に下関条約が締結。(清が朝鮮を独立国であると認める、リャオトン半島・台湾などを日本へ譲渡、賠償金2億両など) 当時ロシアは満州への進出を狙っていたため、リャオトン半島が日本領になることに激しく反発。そして、ドイツ・フランスとともにリャオトン半島返還を日本に要求。(三国干渉) 日本側はこれらの列強国に対抗する力は無かったため、この要求を受理しその代償とし清から300万両を得る。これらの賠償金で八幡製鉄所や軍備拡張費用、台湾の植民地経営などに使用した。戦後、欧米列強各国は清の弱体化を見て取り、中国分割を行う。

  • 秀吉の朝鮮出兵

    1592年~1598年に、秀吉が朝鮮に出兵した事についての2つの質問です 一般的にも学校でも、「秀吉が明、インド、西洋を征服しようとし、まず明を攻撃するために途中の朝鮮を侵略した」とされて、教えられています その1 一説には、これは秀吉の企みともう一つ、「百済滅亡時日本に亡命した百済人の子孫による祖国回復のための戦いだった。」と言われる説もあると聞きました つまり、「朝鮮出兵は秀吉の構想実現の戦争と、古代百済人による祖国再建戦争と復讐戦争だった」と言うわけです だから、鼻や耳をそいだり、残虐な事を「古代百済人がさせた」という説なのです 歴史的な一説としては非常に興味深いのですが、ふと思ったのが、亡命してきた古代百済人はその後何百年も日本人との血の交わりもほとんどなく、朝鮮百済人としての意識を持ち続けた、というのは本当でしょうか? この説の出が韓国だ、というのも興味深いです その2 「秀吉の朝鮮戦争は、明の日本侵略を阻止するための防衛戦争だった」という説はどれほど信憑性があるのでしょうか? 「朝鮮出兵は日露戦争や朝鮮併合と同じ動機だった」という説です 秀吉は日本侵略の足がかりとなる李氏朝鮮を抑えるために侵攻した、という話は世間でほとんど聞いた事がないのですが、真実はどうなのでしょう? この2つの質問、どなたか回答お願いします