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《永遠》とは人間に分かるか分からないかは分からない

 《永遠》とは 何か? が問いです。  《非知》であるというのが たたき台です。  思いっきり自由にご見解を述べてください。    1. そもそも永遠に生きたひとはいない。生物も無生物もいない。と経験則からのように推し測られる。  2. なのに 人間はこの《永遠》という言葉を持っている。つまり人間は時間的存在として有限だとし 永遠を無限だとすれば 有限のものが無限のことを語っている。これいかに?  3. かなり昔にどこかの野球チームは 永久に不滅ですということでした。これは むろん言葉のアヤであり文学的修辞です。ですが 永久・不滅そして永遠とは どういうことですか?  4. 限りがない・果てしがないと言ったとして その限りや果てをあなたは 見たのか? 調べたのか? と問い返さねばならない。のではないでしょうか。  5. 永遠とは何か? あなたは分かりますか?

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  • ベストアンサー
  • a_hona
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回答No.10

お礼ありがとうございます。 お礼の前半部は同意できるのですが(永遠は超体験であるという部分くらいまで)、 >永遠を半分にしたとしても その半分づつはいづれも永遠のままなのですから。 ↑の部分がよくわかりません。∞を2で割っても、割られた一つ一つは∞である、と、知っているのではないでしょうか。ここでは、知的体験として∞は存在しているが、実際体験としては謎のままである、と解釈したほうが良さそうです。 また、確かに永遠という概念は知り尽くされているわけではない、多様な解釈の持てる言葉だとは思います。その点で、永遠の実際を人は知らない、と言われるのも納得できるところです。 そして、地球の例えで、地球の外周は変わらないので地平線が有限であると見るのも一つの角度として認められます。 お礼を読んでは、知るという体験と、生きるという体験の間には、ギャップが有るのかなと思いました。 もし、観念を体験するという立場を認めるならば、例えば、永遠は我々の身体にも満ちている、という表現も可能ではないかとは思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ここでは、知的体験として∞は存在しているが、実際体験としては謎のままである、と解釈したほうが良さそうです。  ☆ こうなるのでしょうね。  そのあとです 次の問題は。  ★ もし、観念を体験するという立場を認めるならば、例えば、永遠は我々の身体にも満ちている、という表現も可能ではないかとは思います。  ☆ この表現について 微妙に違った見方をしています。  ○ 観念を体験すること(その既知)は もうどうでもうよいと見なしたならば 《ナゾとしての永遠》は ひとつの推測として 《永遠は我々の身体にも満ちている》といった仮りの表現も派生して来る。と言える。  となるのではないかと思います。  つまりナゾだということは 永遠は 知り得ないと知ったと言い切ることが むしろこれも出来ない。となるのではないかです。  なぜなら 完全に知り得ないと見なすなら それは《知り得ないと知っている》ことになるからです。知り得ないと誰もに分かっていること・ものは ナゾと言えばナゾですが たとえば死後の世界といったように死の延長ないしその以前の生の延長としてある〔ならある〕というものですから 経験世界とつながっているように捉えられます。  けれども《永遠》は これら生と死(死後)とをすべて超えています。生や死やとつながりがあるのか無いのか これも分かりません。  あの世をもし《知り得ないと知った》ものだとすれば 永遠は このあの世をも超えています。《知り得ないと知った》とは 永遠については言い切れません。  《知り得るか知り得ないかが知り得ない》ものとして 永遠はあります。(あると言えばあります)。  ですから問題は そこから人間は――或る意味で勝手なほどに自由ですから―― こう考えます。この《永遠》は どうやらすべてを超えており・すべての経験事象(因果関係などの経験則)から自由であるなら この経験世界のここかしこにあまねく存在しているのではないか? と推し測る思想が起きて来ます。  ★ 例えば、永遠は我々の身体にも満ちている、という表現も可能ではないかとは思います。  ☆ これです。すなわちこの《永遠》は アートマン(霊我)とかブッダター(仏性)とか あらゆる名で一般に《神ないし神の霊》として 人びとに呼ばれて来ている。   一切衆生 悉有仏性  というかたちで永遠をわれわれは身近に捉えて来た。のではないでしょうか。  ちなみに それですから 死後の幽霊ですとか生きている内の守護霊であるとかそういったオカルトものに到るまでの話が――《永遠》についての理論の一端を言い当てているからには―― なかなか消えて行きません。  この永遠論ないし無限論あるいはつまり要するに神の理論 これがしっかりと日本人に理解されるなら そうとう強いチカラになるかと思います。世界の人びととの対話の場における推進力としてのチカラです。  ほかの国の人たちは それぞれ自分たちの神――じつはその観念――に雁字搦めになるという目に遭っていますから 日本人のように容易には この理論が飲み込めないかも分かりません。つまりは 原動力(進行役)となるのは おそらく日本人が筆頭候補ではないでしょうか。

その他の回答 (11)

回答No.12

1について  神は無限に属します。 2について  神が無限をという観念をすべてのものに与えたのです。 3について  この世界は言葉から始まったのです。永遠という言葉があるということは本当に永遠があるのです。 4について  神が直感的に果てしないという観念を人間に与えるのです。 5について  すべてのものは永遠です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 1について: 神は無限に属します。  ☆ そうですね。わたしの掛け値なしの反応をつづってまいりますが 神は 一般に《非経験の場》として想定され その内容の説明として たとえば《無限》という概念が挙げられる。つまりは 《絶対・不可変性・永遠》などです。  さらにそこから 《絶対》を擬人化して 《絶対者》とも見なされ さらには 全知全能だとされれば 創造主にもされます。あとは 善悪の彼岸としての《至高の善》であるとか 《慈悲や慈愛》であるとか 《真理》とも《正義》とも言われたりします。  ★ 2について: 神が無限をという観念をすべてのものに与えたのです。  ☆ これについては 前項でわたしの見解を述べました。    ★ 3について: この世界は言葉から始まったのです。永遠という言葉があるということは本当に永遠があるのです。  ☆ これは 【Q量子・・・】のほうに寄せてもらったご回答に対してもお応えしましたが 主観の明証性から 世界のものごとの存在を主張することは その主観にかんする限りでそのように見なされるかも知れませんが 他者から見れば それはやはり独りよがりな見方である。となると思います。  ★ 4について: 神が直感的に果てしないという観念を人間に与えるのです。  ☆ ちょっと乱暴な言葉使いをすれば あんた 神を見たんかいな? と問い返さねばならないご発言ですね。  ★ 5について: すべてのものは永遠です。  ☆ そうですか。だったら 万々歳ですね。

回答No.11

こんにちは。ANo3です。 > 《現実の知が限られているので 未来への想像を生み  そこに妄想として永遠なる言葉が持たれた》という意味か? ↑ おっしゃる通り。 現実の知──自分が生きて居ると云うか、認知出来る時間── が限定的な事で未来は有った、それは過去からの現在が認識 できている。 で、生物的観点から未来を創造出来るかもと想像しますから 軽薄なる想像となります。──妄想。 と言う事から「永遠」は愛にしか用いない妄想言葉──伴侶が 出来るか?(生への渇望・地球や銀河の存続期待)、子供が生まれ るか?(子孫の繁栄希望・永続的な性)、その子が未来を創造 出来るか?(核BOMボタンを押さない)、等の期待値を言葉に したものです。 有限に対しての無限がある、と言いたい為に造った妄想語でしか 有り得ません。 「アナタは無限にこの者を愛しますか?」ではウソぽいしカッコ悪い。

bragelonne
質問者

お礼

 分かるんですが 現実には無いと言い切れる妄想であるとだけでは・・・と思ってもいます。  ご回答をありがとうございます。    あ_ほなさんからも指摘があったように 無限は二で割っても その商はやはり無限です。  このような《空想》は――実際には《想定》だと思うのですが は―― 《経験事象ではない絵空事》だと言ってしまっておしまいとすることは出来ないように思うのです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  「永遠」は愛にしか用いない妄想言葉──伴侶が  出来るか?(生への渇望・地球や銀河の存続期待)、子供が生まれ  るか?(子孫の繁栄希望・永続的な性)、その子が未来を創造  出来るか?(核BOMボタンを押さない)、等の期待値を言葉に  したものです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということは 言ってみれば人間にとっては《類としての永続》の問題になるのでしょうか。親から子へ そのまた子へという生命の継続とその永続性。  これについては いろんなふうに受け取られるでしょうね。  これまでの歴史にあっては いのちは遺伝子をつうじてそれなりに永続して来ている。  これからどうなるか? 地球の環境等がゆるすならば〔といった条件のもとに〕 或る程度は永続を繰り返すであろう。  ただしそのような永続性は ほんとうの《永遠》ではない。限りがあり果てがあると考えられる。  背理法にて この経験世界における存続に果てが無いと証明できたとしても ほんとうの永遠としての無限ではない。なぜなら それを数えている主体には限りがある。子孫としてその主体が限りなく続くとしても その主体(つまり人間)やその生きる時空間は やはり経験的で相対的な世界である。どんな主体が来てもどんな世界に成ったとしても つねに有限の世界でありつづける。  すなわち・ところが 永遠とは この《相対的で有限のもの・ことが存続する世界》とは別である。その因果関係などの経験則を超えている。思考によって把握される法則から自由であるのが 永遠である。つまり そのように想定される。  すなわち  ★ 「アナタは無限にこの者を愛しますか?」ではウソぽいしカッコ悪い。  ☆ のは それは人間がおこなう場合にはです。《永遠》が言えば それは――想定にかんするかぎり―― 妥当であると成り得ます。  そういう永遠を 個としては有限の一定期間しか生きていない人間が語っています。  それが 神であると言えるし そういう永遠のことが想定されているから 神という言葉も話も――妄想やインチキをふくめて――物語られて来ます。そしていかにオカルトであっても 一概には切って捨てることもできない。  ・・・  まだなお話はつづくかも分かりません。もうこのあたりまでかも分かりません。・・・

回答No.9

こんにちわ、永遠は言葉の遊びなので無視します。 数学には無限という言葉を使いたいと言う「誘惑」が常にありましたが、乗り越えました、誰かは知りません、だが偉い、導入されたものははっきり定義されたもので、議論は気の利いた小学生にも出来る。 「大数」がそれ、自然数でも構わないので書くと「充分大きな数」これだけ。 これで無限を論破するのは簡単、だって「無限」には「定義が無い」のだ、だから「議論が出来ない」 「抵抗できない」歯ぎしりしても無駄だ。 もし無限でないと証明できないと言うなら、「例を挙げろ」、例が挙がったら「それより1大きい数」で 終わってしまう。 なお化学にも無限に長い時間という言葉を使いたい、と言う誘惑がありましたが、これも定義できるもので 置き換えられてしまい、不要になりました、曰く「充分に長い時間後」

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ・・・もし無限でないと証明できないと言うなら、「例を挙げろ」、例が挙がったら「それより1大きい数」で 終わってしまう。  ☆ ええ。背理法による証明だそうですね。いちおうNo.5でおそわりました。  ★ 永遠は言葉の遊びなので無視します。  ☆ でも 無限ということと同じなのではないですか?  そしてたぶん 無限には 有限の中における限りなくつづく無限と この有限の世界を超えた場としての無限とのふたつがある。のではないかと思いましたが どうでしょう。

  • a_hona
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回答No.8

永遠とは概念の一つですから、所謂形而上、メタフィジカの世界の産物です。既知であるが体験はできない、そういう性質のものでしょう。 また、無理数は有理数よりもはるかに数が多いと言われています。円周率は無理数の一つですので、たとえその大きさが3と4の間にあるとしても、質的には全く異なった数だと言わざるを得ません。 他の例えでは、例えば地球があります。 地球はあまりにも大きいので、その上で暮らしていると平面のように思われますが、実際にはそこは球面であり、その全体は球です。地平線、水平線に果ては存在せず、それが∞に続いているのは、その実態が球体であるからです。このように見る角度が異なれば、∞というものは存在しているといえるのではないでしょうか。 繰り返しになりますが、永遠とは形而上の概念であり、モノではない形で存在していると言えるでしょう。 まさに人間にとっては、永遠は知的に存在しているのであり、他の動物にこれが存在するかというと、それは難しいでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ただちに反応してしまいましたが  ★ 既知であるが体験はできない、そういう性質のものでしょう。  ☆ というのは ちょっと矛盾ではないかと思います。  《既知》であるなら 《それを知った・認識した》ということだけであっても《体験した》ことになる。のではないかと思うのです。  たぶん《永遠》についての意味内容 これは《既知》だが《体験はできない》と言っているのではないかとは 思い直しました。  概念は その意味を持ちますから すでに何らかの言葉があれば その意味内容は既知となるのだと思います。けれども それが 経験世界に属するものであるかどうか。これは 別だと思われます。二つに分かれると。経験事象とそして超経験と。  永遠は どう考えても超経験だと思うのですが これがなかなかみなさんとの間で はっきりしない。すっきりしない。ようです。  ★ 地平線、水平線に果ては存在せず、それが∞に続いているのは、その実態が球体であるからです。このように見る角度が異なれば、∞というものは存在しているといえるのではないでしょうか。  ☆ この場合の《無限》は 地球の長さという一定の範囲内でのことですから やはり有限の中で《果てしがない・限りなくつづく》という場合だと思うのです。決して永遠ではないはずです。  ★ 繰り返しになりますが、永遠とは形而上の概念であり、モノではない形で存在していると言えるでしょう。 / まさに人間にとっては、永遠は知的に存在しているのであり、  ☆ いえ。わたしは――いつも反論しますが―― ひとは永遠が何であるかその実際を知らないと思います。知り得ているかどうかが分からないのだと思います。  なぜなら 永遠を半分にしたとしても その半分づつはいづれも永遠のままなのですから。  そのように人間も言葉で説明しますが その説明した内容じたいは 知り得ていないはずなのです。  どうでしょう。

回答No.7

エホバだろーがだろーが要りません・・ 何故なら あなたに習う事等 何も無いから じゃ( ´・ω・`)ノ~バイバイ

bragelonne
質問者

お礼

 じゃ( ´・ω・`)ノ~バイバイ

回答No.6

「ずーっとこうだったらいいのにな」って思ったことないですか? それって終わりあるって知ってるからこそ思うことで、最初から終わりが無いなら思わないと思うんです。 有限だからこそ、無限を望み、永遠を語るんだと思います。 永遠って、憧れみたいなもんだと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 有限だからこそ、無限を望み、永遠を語るんだと思います。  ☆ ですから 実質的に言えば――それは 哲学の役目ですね―― 《望んでも 望めない》ことですよね。  《永遠を語る》というのは 空に餅の絵でも描くことですよね。  ★ 永遠って、憧れみたいなもんだと思います。  ☆ 《妄想》だという見解も提出されています。  はてさて どうでしょうか。

回答No.5

☆ 2. なのに 人間はこの《永遠》という言葉を持っている。つまり人間は時間的存在として有限だとし 永遠を無限だとすれば 有限のものが無限のことを語っている。これいかに? ◇「こうであったらいいな~」という願い、希み、希望、そして、欲望ですかね。 ☆ 4. 限りがない・果てしがないと言ったとして その限りや果てをあなたは 見たのか? 調べたのか? と問い返さねばならない。のではないでしょうか。 ◇ここで登場するのが、《背理法》ですよ。 たとえば、「整数に果て、最大数Mが存在する」と仮定すると、 Mは最大数ですから、 M+1 ≦ M となる。この両辺をMで引くと 1 ≦ 0 となって矛盾する。 であるから、 「整数に果て、最大数が存在する」と仮定したことが間違いであるとなる。 《背理法》を認めればですが(ポリポリ)。 ☆5. 永遠とは何か? あなたは分かりますか? ◇無限や永遠を有限(の時間)の否定の形で定義して、分かった気分に浸っております(ポリポリ)。 無限や永遠が何かは分からなくても、無限や永遠などに関するテーマを扱うときには、これで間に合います。 私は、無限や永遠そのものを扱うことはないですしね~。 私がすることといったら、 「○○は有限かいなか(無限)?」、「△△が無限であるならば、×××である」 ですから、この定義で足りるんですよ。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  2.  ◇「こうであったらいいな~」という願い、希み、希望、そして、欲望ですかね。  ☆ そうでしょうね。いど‐かわずさん(No.3)はさらに《妄想》だと見ているかたちです。  4.  ◇ ここで登場するのが、《背理法》ですよ。  ☆ この問い自体がいけなかったのですが この背理法で証明できるのは この経験世界における・そしてその限りで有限のものごとにかんする《限りのなさ》ですよね? つまりそれを《無限》と呼んだとしても この有限にして経験的な世界の中におさまるものである。のではないでしょうか?   回答No.1では 円周率の数を特定するとき限りなくつづくその継続性が 永遠の観念だというのがありました。  つまりおそらく《永遠》ではない。はずだと。  5. 永遠とは何か? あなたは分かりますか?  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  無限や永遠を有限(の時間)の否定の形で定義して、分かった気分に浸っております(ポリポリ)。  無限や永遠が何かは分からなくても、無限や永遠などに関するテーマを扱うときには、これで間に合います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ けっきょく神とは何か? なんですけれど。つまり これをあいまいにしておくのは ほかの類似の質問を放っておくことになるかと思い 挙げた質問です。  宇宙の法則が 永遠であるのではない。といったことくらいは 明らかにさせて行きたい。こう考えます。

回答No.4

哲学は「屁理屈の塊」です まっ どーせ絶対逝かないといけなくなるので その時に判るから 別に構わないんだけど・・ あなたが 何をホザいても 関係無い・・・

bragelonne
質問者

お礼

 では エホバの証人を批判する質問をかかげてあげますから。  いましばらくは 余裕がありませんが。(五件もうけています)。  ご投稿をありがとうございます。

回答No.3

こんにちは。 「現実の知と未来への妄想」です。 手に入らないモノを妄想して手に入ると妄想したら、 この永遠が手に入った気持ちになれる。 「アナタハこの者を永遠に愛しますか?」 ウんな訳ないのに、イエス・愛デュと神の前で誓う 妄想を見たことが有りますか?~ 生涯をかけて追い求めるモノではない。 遠さを観計る視力を持たない、速度も光以上のものを モテない為に追い越せないので、未来へは行き着けない。 永遠を、「とわ」と読みますと、遠き「ワ~ぷ」を妄想出来る。 質問の《非知》を、叩台と見ますと、戸を叩くになります。 戸を叩け、そうすりゃ開くかも、となります。 と、人間はかくも素晴らしい妄想を描ける。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 「現実の知と未来への妄想」です。  ☆ これが 永遠とは何か? に対するお答えですよね。  《現実の知が限られているので 未来への想像を生み そこに妄想として永遠なる言葉が持たれた》という意味でしょうか?  だとしたら どうやらねらいは・願いは 永遠の生あるいは  ★ この者を永遠に愛します  ☆ なる永遠の愛の問題になるようですね。大昔からの悲願である不老不死。  ★ 永遠を、「とわ」と読みますと、遠き「ワ~ぷ」を妄想出来る。  ☆ 日本人は どうもただ《常世》と称したくらいみたいですね。  かの地では 恒河沙とか阿僧祇とか《無限》に近づく位取りがあるようですが 日本では《とわ》にしても 《とこ(床)-いは(磐)》 > ときは(常磐・常盤) > とは-に(永久に) と言っているに過ぎないようですから。  ええっと。ここからは厳密に考えてみますが  ★ ・・・と、人間はかくも素晴らしい妄想を描ける。  ☆ ということで 《妄想》を答えとしておられる。  妄想というのは  想像じょうのことがらであり 現実には無いという意味ですよね。  けれども 《無い》と言ってしまえば・《無い》と人間が規定することが出来るのなら それは経験事象である。ということにはならないですか? いかに架空のものごとであっても その空に架けた思いや考えが その事実としての内容がないものと分かっている。ことになります。  果たして そうか。《永遠》は 経験事象にはまったくかかわらない想像じょうの観念であるか?  たたき台で言おうとしたことは それは少なくとも《観念》ではない。ということです。  ぎゃくに言えば 《床岩:つねなるもの》という永遠を表わそうとする概念は 経験事象の永い存続を言っています。これは 単なる観念ではないです。(つまり 経験事象からまるっきり離れた想像物を 観念と言うとします)。  もう一度元に戻って 永遠とは 経験現実ではないと言い切れるか? という問いです。言い切れたなら それは単なる想像物であり たしかに妄想です。  すなわち 日本語で言う永遠とは 経験事実としての《床岩》を じつはシルシとして ほんものの永遠を指し示している。というふうにも解釈できるのではあるまいか。  床岩は さすが強固な岩でも移ろいゆくものです。ですが そうではなくその経験事物そのものを指して言っているのではなく その物・その言葉を何かのシルシとして じつは 別のものを指し示そうとしている。シルシとは 依り代であり 補助線です。  なぜなら その《ほんもの》のほうは 現実に見えないから。事実としてあるのかどうかは分からないから。でもほんものの永遠が あるかも分からない。ないかも分からない。・・・  というところまで 人間の知性は知り及ぶのではないでしょうか。《非知》。むろん《神》のことです。

回答No.2

永遠に生きたひとはいない←生きるって肉体があれば生きてるってだけで 死んでも精神の世界では生き続けています・・ あなたが それを 今 信じるか それとも 死んでから判るのか・・だけです

bragelonne
質問者

お礼

 これは おとぎ話のたぐいになりますが 信仰の世界としては これこれしかじかであると捉えています。うんぬんくらいのあいさつとともにそういう話をするのが 礼儀です。  哲学というものが分かっていない。  ご回答をありがとうございます。

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    問う人: 一つ訊いてもえーか。 「人の道」: 何でも訊いてみい。 ここは質問し答えを出す場所や、なんにも遠慮は要らんのや。 問う人: 無限とは何や。 「人の道」: 有限でないことや。 つまり無限とは限りの無いことや。 無限の対極にあるのが有限や。 つまり有限とは限りのあることや。 問う人: どこに無限はあるんや。 「人の道」: そこらじゅう至る所に無限は有る。 一滴の水の中にも無限はあるんや。 問う人: なぜ一滴の水が無限なんや。 「人の道」: 一滴の水の中に無限の宇宙があるからや。 つまりこれがミクロの宇宙や。 一滴の水の中に高度な文明があるかも知れんのや。 誰もこれを否定することなど出来ん。 問う人: 一滴の水の他にはどこに無限はある。 「人の道」: それは我々が今見ておるこの宇宙や。 わしが手を伸ばす方向にどこまでも進んで行くと考えてみい。 いづれ壁にぶち当たり行き止まるちゅー者もいる、また一周して元に戻るちゅー者もいる。 これらの者は宇宙は有限と思っておるんや。 問う人: 宇宙は有限なんか。 「人の道」: そんなことはない。 宇宙は無限や。 宇宙に限りは無い。 問う人: 宇宙を有限と考えるのはどうしてや。 「人の道」: あのなあ、えーか、 宇宙を有限と考えるのは宗教漬になったアホの考えることや。 問う人: 一滴の水とこの宇宙空間以外にも無限はあるんか。 「人の道」: もちろん有る。 それは我々が認識する時間や。 この宇宙は無限の過去から無限の未来に至るまで永遠なんや。 宇宙には始まりも終わりも無い。 どーや、これで無限が何か判ったか。 問う人: よー判りました。 一滴の水の中にも無限は有る、宇宙に限りは無く、宇宙は無限や。 「人の道」: 無限が理解できんとどーなるかも判ったか。 問う人: はい、判りました。 宗教漬になると宇宙は有限であり、何時いつ始まったとかアホなこと言い出すよーになる。 「人の道」: 宇宙は無限に満ちており、この世界には始まりも終わりも無い。 もしこの考えが何かおかしいと思うんやったら皆にも訊いてみるとえー。 問う人: 宇宙は無限に満ちており、この世界には始まりも終わりも無いちゅーこと、皆はどー思うか聞かしてくれ。    

  • 無限とは何か

       問う人: 無限とは何か。 「人の道」: 有限でないことである。 つまり無限とは限りが無いことである。 無限の対極にあるのが有限である。 つまり有限とは限りのあることである。 問う人: 無限はどこにある。 「人の道」: そこらじゅう至る所に無限は有る。 一滴の水の中にさえ無限はある。 問う人: なぜ一滴の水が無限なのか。 「人の道」: 一滴の水の中に無限の宇宙があるからである。 つまりこれがミクロの宇宙である。 一滴の水の中に高度な文明があるかも知れんのである。 誰もこれを否定することなど出来ん。 問う人: 一滴の水の他にはどこに無限はある。 「人の道」: それは我々が今見ているこの宇宙空間である。 わしが手を伸ばす方向にどこまでも進んで行くと考えてみー。 いづれ壁にぶち当たり行き止まるゆー者もいる、また一周して元に戻るとゆー者もいる。 これらの者は宇宙空間は有限であると思っておる。 問う人: 宇宙空間は有限なのか。 「人の道」: それは違う。 宇宙空間は無限である。 宇宙空間に限りは無い。 問う人: 一滴の水とこの宇宙空間以外にも無限はあるのか。 「人の道」: もちろん有る。 それは我々が認識する時間である。 この宇宙は無限の過去から無限の未来に至るまで永遠である。 宇宙には始まりも終わりも無い。 問う人: では宇宙は有限であると考えるのはどーしてなのか。 「人の道」: それは願いである。 宇宙は有限であってほしいと願う人の心が無限の宇宙を有限なものにするのである。 問う人: ではなぜ人は宇宙が有限であることを願うのか。 「人の道」: それは恐れである。 無限であることを恐れる人の心が無限の宇宙を有限なものにするのである。 そして神が宇宙を創造したとなどと願うよーになるからである。 しかし宇宙は何ものかよって創造されたものではない。 神を含め何ものも宇宙を創造してはいない。 何故なら宇宙は無限であり、これを創ることは元より理に反するからである。 どーじゃ、これで無限が何か分かったか。 問う人: はい、よー分かりました。 一滴の水の中にも無限は有り、宇宙に限りは無く、宇宙は無限である。 「人の道」: 宇宙は無限に満ちており、この世界には始まりも終わりも無い。 皆にも訊いてみるとえー。 問う人: 宇宙は無限に満ちており、この世界には始まりも終わりも無いゆーこと、皆はどー思う。   

  • 《絶対》という概念でなぜ共通の理解が得られ難いのか

     ふたたびの問いです。  おそらく互いのやり取りをつうじて 《絶対》は 互いのあいだに浮彫りになる。そういった問い求めのすがたを想い描きつつのぞみを持ちつつ 執拗に問います。  たたき台を示します。  1. ひとは おのれの存在が永遠ではなく有限で相対的であるにもかかわらず 《永遠=無限=絶対》という言葉を持つに到り これを使っています。  1-1.  その意味で 《神》ということばも――そして同じく《無い神》も―― 用います。  2. すなわち この経験世界を超えたところに《永遠=無限=絶対》を想定して それにもとづき言葉として・ゆえにそれなりに概念として使いこなしています。  2-1. 《経験世界を超えた》という意味は 経験事象における因果関係から自由だという意味です。ひとり満ち足りている存在。他のいかなるものにも依存しない存在。  3. ですから 不思議なことにひとつの逆説のごとくに 《ことば》そして《概念》としては 《絶対=無限=永遠》は、経験世界に属します。  3-1. 経験世界を超えた《非経験の場》が 言葉として表現されたならそれは 経験世界の内側において用いられています。  4. もうひとつに この《想定》のもとに 一人ひとりの主観の内にあっては あたかも《絶対なる者が この相対的で経験的な世界に 降りて来た》といった派生的な・第二次の想定をも持つことが自由であり これは ゆるされています。一般に梵我一如なる類型。  4-1. 良心・信教の自由あるいは表現の自由という公理であるようです。  5. 繰り返しですが 《絶対=永遠=無限》は 非経験の場であり 《非在》です。定義(想定)において こう確定します。  5-1. 存在するか存在しないか どちらとも人間にとっては分からない場であり 場としてのチカラだと思われます。  5-2. ゆえに 神としては 有神論か無神論かは どちらも――自由に――あり得て 互いに同等ないわゆる信仰の立ち場です。  6. 同じく確認として言えば 或るひとりの人間の主観のうちにあっては 定義とそこからの派生的な想定として 《絶対=永遠=無限》は 二重構造となって過程しています。  6-1. 《絶対》の――想定じょうの――二重構造:   ○ 《非経験の場》を受け容れたわが心なる非思考の庭:      : これは 無根拠である。      : これは 信じる(=ただ受け容れる)ものである。      : そもそも《絶対》を受け容れることが出来るかどうか      についての疑問すらが起きる。      : 《神》とも《無い神》とも言える。         ○ 《神》という言葉としてまた概念として用いられる《絶対》:      : すでに《非思考の庭》から《思考の緑野(また感性の      原野)》に移行している。      : 因果関係などの合理的な根拠を科学的に明らかに      する場合にすら用いられることがある。《真理》として。      : それは 《絶対》の仮りの像(すがた)である。つまり      《正解としての神本体をめぐって引かれた補助線》なり。        6-2. すなわち 《無根拠で非在なる非経験の場》が 主観の内なる経験世界に    《定義としてのまぼろし(非思考の庭)》  を成らせていると想定され そして    《その庭が 活きた信仰として動態であり その過程にあって仮りにでも姿かたちを表わしたと考えられるその現実(精神と身体 または思考の緑野および原生林)の活動》  が捉えられ これらふたつの領域から成る《二重構造》を呈しています。     以上です。ご批判をつうじて精緻なものにして行きたいと考えます。  なおちなみに 《絶対》をめぐる次のような文章もありますので ご紹介します。  ● (司馬遼太郎:絶対について) ~~~~~~~~  近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。  ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・  むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。  しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。  絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。  ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞)    http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html  ~~~~~~~~~~~~~~

  • 言葉(音のエネルギー)は宇宙の果てまで届く?

    人間が発した言葉というのは、音のエネルギー?だと思うのですが、それがゼロになるということはないのでしょうか。 ゼロにならないとすると、限りなくゼロに近くても永遠に旅を続けて、地球から、宇宙空間に出て、宇宙の果てまで行くのでしょうか・・・ そして、音のエネルギーが不滅だとすると、今の地球や宇宙は、地球誕生以来から発生した音の洪水の中にある・・・?なんてことも考えられないでしょうか。 とっぴょうしもない質問ですみませんがよろしくお願いいたします。 実は、スタートレック4で、クジラの鳴き声を宇宙人?が聞きつけて、何百年も旅をして異星人の探査船(救助船?)がやってくるという話があったのです。 この話からすると、宇宙にも届くということなのでしょうが・・・