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西田の純粋経験について

西田幾多郎の純粋経験や主客未分といったものは、現代ではどのように評価され、また解釈されているのでしょうか。 私の見解では、多くの観念的な悩みが純粋経験によって消失しますが、現実は一つも変わりません。 雨が降れば傘を差し、日々の勤めに精をだし、飯も食い、そして一日一日また歳をとっていく。 頭の中の悩みを消し去ったというのは一つの功績として立派ですし、静かな思索が可能になったというのも大きなことです。 風邪を引くとか、怪我をするとか、そういったことは回避できませんが、心は軽くなったように思います。

  • a_hona
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  • kanto-i
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回答No.5

お礼ありがとうございます。 リンゴは自分の中にあるという認識の世界において 誰しもが別の世界に生きているのは、ご存知のことかと思います。 その認識で観察し得たものである訳ですから その世界で体験した者しか、その世界は存在しないと考えています。 現象は、起きる条件が揃わないと起きることがないので それは、人によって違いというものがあるかと思います。 観察からでも、観察し得るのは自分の事のみです。 それを「環世界」と言う、つまりネーミングがある事を つい先日知りました。 それぞれの言動の違いは、「間違いではなく違いにある」と言うのは そこから来るのかなと思います。 ここで大切なのは、a_honaさんの純粋経験によって 誰もデメリットを負わないと言うことであり 何一つ新たな問題が起きる訳ではないという言うこと。 a_honaさんが、少し軽くなり少しでも気分良く過ごせて 少しでも笑顔が増えれば、a_honaさんの周りの人も 少しだけハッピーになれると言うことだと思います。 徐々にでも自由を広げられたらと願います。

a_hona
質問者

お礼

やさしい気遣いのお言葉ありがとうございます。 私の経験が誰をも害さず、しかも自分の心を軽くしたのなら、それは素晴らしいことだと思えました。 案外指摘されるまではわからないものでした。 自分の経験から来る発言が、ともすれば混乱を生じやしないかと危惧するのは、杞憂であったのでしょう。 これからは慎んでものを言いたいと思いました。 ありがとうございます。

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回答No.7

西田哲学の基本をなしているものは、禅問答における『答え』を指しています。学友であった鈴木大拙博士と共に鎌倉の円覚寺で禅の修業をしていたようです。 鈴木大拙博士は25歳で、見性体験をしていますが、西田幾太郎も見性体験をしています。見性という意味は『自性を徹見する』という意味です。 禅での教えで言うなら、人間の抱えている苦しみ、或は深刻な悩み、或は深い疑問と言う問題に出会う時、その大元は自分自身の中に存在していて、その存在性の大本に出会う時『全ての問題はその根本から根こそぎ解消する。』と言うほどの意味があります。 その為に禅には教える経典も教えるべき何ものも存在しない、と教えています。それでいながら師匠が質問を受ける時には『では何故お前はそう思うのか?』と逆襲をする事になります。 自分に沸き上がる、苦しみ、或は深刻な悩み、或は深い疑問は『自分自身が自分自身から受けている事柄』と言う意味があります。 他から受けている事柄がストレスになっている場合があると思われがちですが、そう云った自分が感じているストレスとは、自分自身から内発的に沸き上がる自分自身からの情報と言う意味になります。 従って、苦しみ、或は深刻な悩み、或は深い疑問を感じている場合では、そういったものが沸き上がる前段階にまで辿りついた時、全ての原因が分る事によって、全て解消すると言う性質があります。 もっと判りやすい表現をするなら、『意識する自分』と『意識していない自分=無意識状態の自分』とが切り替わる段階の一刹那、雷が光るよりも短い、瞬間、詰まり『意識が発生する瞬間』この二つの意識が出合う場合に『立ち会う』 神が世界を創造する瞬間に立ち会う、と言う意味があります。 一つの動画をご紹介したいと思います。この中で語られている体験が、いわゆる神秘体験と思います、詰まり宗教体験ですが、禅問答の『父母未生以前本来の面目』を身体で体験する場面と思います。この体験を西田幾太郎氏は、純粋経験や主客未分の体験として語っています。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM この体験以後、神経症も過敏性腸症候群や自律神経失調症や難治性の心身症や、心を病むという場合での『身体の検査でも脳の検査でも異常無し』とされる場合では、完治するという意味になります。 何故ならこう云った機能的な異常が無い場合では、自分の心の矛盾を、妄想として症状としているだけ、と言う原因に突き当たっているからです。 そう云った症状の起きる原因が自分だと分かる体験だからです。意識地獄の原因が『自分の無意識』との仲違いだと分るからです。無意識の自分との仲違いが解ける事を、自性を徹見すると表現しているからです。 心がもう二度と争う事がなくなる、涅槃という意味が体感出来るからです。簡単な言い方をするなら『意識のし過ぎ』が意識地獄を作り出していた事を知ると言う意味になります。 無意識の自分と一体になる時、大人の嬰児が出来上がると言う意味です。無我、或は没我、或は『我が無い状態』事を意味します。

a_hona
質問者

お礼

とても丁寧なご回答恐れ入ります。 禅体験についての詳しい描写をしていただき、禅方面からの理解が深まりました。 リンクは後ほどゆっくり拝見したく思います。 ありがとうございました。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9705/12071)
回答No.6

>西田幾多郎の純粋経験や主客未分といったものは、現代ではどのように評価され、また解釈されているのでしょうか。 ⇒学生時代を振り返りながら、個人的経験から申しあげます。  「最も単純素朴な“主客〈いまだ〉未分”の意識と、最高の最も具体的な“主客〈すでに〉未分”の意識とが相隔絶しながら、しかも同一とする思想」と聞いたときは、まだ学生時代でしたが、「これ、まさに禅問答」と思いました。早い話が、何も分かりませんでした。友人らと議論も交しましたが、彼らも大同小異の状況のようでした。  そこで私は、一工夫を考えました。つまり、長径側を左右に置いた菱形を描いて、その左対角点をX“主客〈いまだ〉未分”の意識、右対角点をY“主客〈すでに〉未分”の意識、と想定して考えたのでした。時間はX⇒Y方向に流れる。短径側の左右対角点をそれぞれA(物体)、B(精神)とすれば、西欧の哲学はこのABから出発する(すなわち、対立を前提する)のに対し、西田は「純粋経験」によって、それ以前のXの存在を想定する。しかし、私はこれはABまたはY地点に立った場合の「思弁の産物」に他ならず、まさに形而上学の特質を見た思いでした。  さて、ABを出た動きは、Yに至って弁証法的にABを“隔絶し、差異を有しながらも同一”に至ると見る。しかし、本来の弁証法は、ABを擦り合わせ、止揚して新しい提言(ジンテーゼ)Cに到達するための手順なので、これとはだいぶ違う印象を持ったものです。この意味で、確かに『善の研究』は「禅の」研究でもあり、ある種「仏教説話」に通じる、あるいはそれに過ぎないのではないか、という印象を抱いていました。  このように言うと、いかにも西田哲学を否定的にのみ見ていたように写るかも知れませんが、私個人としては、特に内面的には、多大の恩恵を受けたように思います。少し本題からそれるかも知れませんが、それを列挙します。 (1)「純粋経験」「主客未分」「主観と客観」などを考えることによって、「思索の喜び」のようなものを実感することができました。 (2)「色即是空」や「無」などの仏教思想にも接して、ある種のカタルシスをもらったように感じることもありました。 (3)哲学(philosophy)の原義である「愛知」を知り、日常的に、文字どおり「哲学する」ことの意義を尊重し、実践する習慣が身についたように思います。 (4)西欧の哲学や宗教の元になった、(ということはつまり、西田哲学の前提ともなった)ヘレニズムやヘブライズムに関心を持つ糸口になりました。 (5)「普遍性」や「絶対性」を探求する心性を得て、常に「より上級の審理」を求める姿勢を培ってもらったような気がします。  以上、経験からのご回答まで。

a_hona
質問者

お礼

自らのご経験を交えた回答、ありがとうございます。絵を見ながら説明を受ければもっと面白かったのになと惜しい思いをしています。 西田哲学に触発されて、哲学の扉を開いたとのこと、西田哲学との出会いが良きものであったのだなと察します。 独自の考えを示していただきありがとうございます。勉強になりますを

noname#207067
noname#207067
回答No.4

~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・あらゆる偉大な事物は、自己自身によって、自己止揚のはたらきによって没落する。生の法則が、生の本質にひそむ必然的な<自己超克>の法則が、これを欲するのだ。 ――「汝自身の制定したる法に服せよ」という叫びは、ついにはいつも立法者自身に向けられるのだ。かくして教義としてのキリスト教は、おのれ自身の道徳によって没落した。かくして今や道徳としてのキリスト教もまた没落せざるをえない、――この出来事の閾にわれわれは立っているのだ。キリスト教的誠実性は、一つ一つ結論を引きだしていったのち、最後にはその最強の結論を、すなわち自己自身に反対する結論を引き出すのだ。が、このことが起こるのは、その誠実性が「あらゆる真理への意志は何を意味するか?」という問いを発するそのときである。 ニーチェ全集11 信太正三 =訳 善悪の彼岸 道徳の系譜 ちくま学芸文庫 581~582ページ 道徳の系譜 第三論文 禁欲主義的理想は何を意味するか? ~~~~~~~~~~~~~~~ … Alle grossen Dinge gehen durch sich selbst zu Grunde, durch einen Akt der Selbstaufhebung: so will es das Gesetz des Lebens, das Gesetz der nothwendigen „Selbstüberwindung“ im Wesen des Lebens, — immer ergeht zuletzt an den Gesetzgeber selbst der Ruf: „patere legem, quam ipse tulisti.“ Dergestalt gieng das Christenthum als Dogma zu Grunde, an seiner eignen Moral; dergestalt muss nun auch das Christenthum als Moral noch zu Grunde gehn,— wir stehen an der Schwelle dieses Ereignisses. Nachdem die christliche Wahrhaftigkeit einen Schluss nach dem andern gezogen hat, zieht sie am Ende ihren stärksten Schluss, ihren Schluss gegen sich selbst; dies aber geschieht, wenn sie die Frage stellt „was bedeutet aller Wille zur Wahrheit?“ Zur Genealogie der Moral. Eine Streitschrift. Von Friedrich Nietzsche. 27. http://www.nietzschesource.org/#eKGWB/GM ~~~~~~~~~~~~~~~ 西田幾多郎を知らないし、読んだこともないし、読む気もないけれど、 善の研究とか、絶対矛盾的自己同一とか気になった。

a_hona
質問者

お礼

西田哲学に現れる言葉は印象的ですよね。回答者さんが気になるのも無理は無いと思います。 ニーチェを引用されたのにはわけがあるとは思いますが、ゆっくり読んでそれを汲み取れたらと思います。 ありがとうございました。

回答No.3

西田幾多郎の「善の研究[でいう純粋経験はウィリアム・ジェームズの「純粋経験の哲学」を直接の桃源とし、ベルグソンの「差異の哲学」を間接的に意識して書かれたものです。 ベルグソンによれば、主観・客観の二元的分離の以前に主客未分の「差異」があり、その差異の分化として主観・客観がある。 ベルグソンはその「差異」を「運動」とか、「純粋持続」とか言いました。 西田の場合は日本的なアニミズムの思想、人間と自然を一体と考える日本的な発想から、主と客が別れる前の純粋経験があり、その純粋経験が分化して主客分離の二元論が始まると考えました。 その背景には西田の禅の体験があると思います。 西田は盟友の鈴木大拙の紹介で、相国寺で禅を学び、その考えを哲学に取り入れたと言われます。 禅宗は主と客を二元的に分離して考えません。 心身不二、つまり心と身体は一体のもの、分離できない。 修証不二、つまり修行が悟りであって、修業とは別に悟りがあるわけではない。 西欧の哲学はすべてを対立的に考えるけど、東洋、あるいは日本はすべてを一体のものと考える。 その禅の体験から学んだ禅の思想が結晶したものが、西田の純粋経験です。 だけど、そんなものが本当にあるのか私は疑問です。 主客未分というのは、主客分離の、後から考えたものなのではないか? 西田は順序をひっくり返したんだと思います。 ベルグソンもそうだと思います。 純粋持続が最初にあって、それが分化して主と客が生じたと言っているけど、逆ではないか? 純粋持続は主と客が先にあって、その統一として根底にあるものと考えられたものではないか? だから私は西田の純粋経験は、決して純粋ではなく、二次的なもの、不純なもの、合成されたものだと思っています。 そんなものは、無い。 ただの夢、まぼろし。

a_hona
質問者

お礼

哲学史的なご回答で、とてもわかりやすかったです。キーワードのみを紐解けば、禅的解釈のみにとどまってしまって居たところを、ジェームスやベルクソンなどを挙げていただき、滞っていた理解が進みました。 私は、主客未分とか、純粋経験とか言われるところのものは、忘我の境地かと思っています。忘我ですから、その状態が夢幻といえばそうかもしれません。しかしながらそれが体験である以上、そういうものがないとも言えないのです。世界の事物は様々に名称され、名称を伴わないとするならそれを現象と呼び、様々に解釈されてきましたが、そういう人為的枠組みを超えたところに、西田の言う純粋経験があるのだと思っています。それは、世界と自身の境界が空じられたような感覚であり、ものの三十秒ほどで霧散してしまうのですが、鮮烈な、かつて無い感覚を与えるものです。 それが、脳機能的な異変であると言えばそれらと区別はつかないのですが、それを大事に見て、見性と称される場合もあります。 名称が発生するためには分別がなければなりません。もし、無分別なるものが、たとえ分別から派生し、想定された様相だとしても、それを言語化して表現することは難しい。従って不立文字とか言われたりするのだろうと推測します。 これに関しては、無分別、主客未分とか、純粋経験とか言われるものが、体験として存在してしまうところに、齟齬が生じる元があるのだと思います。 以上、誤った言葉の用法もあったかもしれませんが、私の見解です。

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.2

西田幾多郎氏は知りませんでしたが、内部で起きている現象としては 自己統一に向かう時、内部で起きる現象の事ですよね。 固執・拘り・執着などからの自己矛盾が一部消失し その分だけ心は軽くなります。 その時、諦めるのではない形で固執を自然に手放せることになり 自己が抱えた執着から解放され、今までより自由を手にすることができる。 それは洋の東西を問わず、また哲学・心理学を問わず それぞれの言い方(言葉)を持って、その人がしっくりくるネーミングが付けられます。 内部だけで起きるから、純粋経験である訳ですし 自己統一性を主客未分と言い表すのは 日本人としてはしっくりきますね。 私には、とても興味を沸かせる質問でした。 いい情報をありがとうございます。 そして、軽くなったことにお祝いを(^ ^) パターンを掴んでいけば、そのパターンのものは軽くなれます。

a_hona
質問者

お礼

純粋経験を広義に捉えてのご回答感謝します。お祝いの言葉までいただいて、。 あれを自己統一と呼ぶあたりが、カントアイさんらしいなと思いました。私は忘我と呼ぶでしょうか。 共感に基づいたお話ができて嬉しく思います。

回答No.1

 こんにちは。  ★ 純粋経験や主客未分  ☆ ということは そのような状態にあったということをそこから抜け出たあとで認識するわけです。  すなわち  ★ 私の見解では、多くの観念的な悩みが純粋経験によって消失しますが、現実は一つも変わりません。  ☆ ということですよね。    つまり その状態から抜け出たあとでは 《悩みも消失していない》ということではないでしょうか?  これが すべてだと思います。  すなわちその意味は この現実を全体としておのが精神の胃袋で飲み込めば その純粋経験という状態をもすでに顕現させていることが出来ます。  言いかえると 悩みや苦しみをまづ引き受けるということ。ではないでしょうか。  これが 現実的な《主客未分》なる状態にあるはずです。主も客も認識し得ている状態にありつづけるのですが。  悩みや苦しみが解決できない問題であるならば それもそれとしてそのように認識することから始まります。飲み込み引き受けるという状態も そのまま続きます。  西田幾太郎は われわれはその思想を乗り越えるべきでしょう。

a_hona
質問者

お礼

悩みや苦しみを引き受けてこそ現れる人間像というのは、確かにあると思います。 そういう人間像をあるべき姿として捉えるのか、清澄な精神状態が可能なものとして、それを目標にするのか。前者は現実主義で、後者は一種のロマン主義かなと思いました。 ご回答ありがとうございます。

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