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大阪へは、どのくらいの割合で、現物の米が輸送された

 先日の質問「江戸時代、なぜコメを大阪まで?」を興味深く読みました。  ところで、現物の米の輸送は、コストが掛るし、品質も劣化しますので、大阪に送ることは極力回避すると思います。  ある藩が米を売る際、他の藩と売買が成立できるものは、その藩へ直接米を輸送すると思います。(大阪の米商人が両藩の仲介をすることもあるでしょうが)  そして、直接の販売先が見つからない場合には、現物の米を、大阪の自藩の蔵や米商人へ送った、と思います。  大阪へは、どのくらいの割合で、現物の米が輸送されたのでしょうか?

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回答No.2

私も同じ疑問をもっています。 >ある藩が米を売る際、他の藩と売買が成立できるものは、その藩へ直接米を輸送すると思います。 当然です。 産米藩もあればそうでない藩もありました。 米は、商品として金銭取引されていました。全ての米をわざわざ大坂や江戸まで運んだわけではありません。 年貢皆済後の米は、近くの市場で自由に取引されていました。 幕府は、原則として藩の内政には不干渉・非介入の立場でした。 私が、テキトーに言っているのではありません。 學習院大學經濟論集2(1),5-26,1965-9「享保改革の米価政策(その1)」 http://www.gakushuin.ac.jp/univ/eco/gakkai/pdf_files/keizai_ronsyuu/contents/0201/0201-22oishi.pdf#search='%E7%B1%B3%E3%82%92%E4%BB%96%E8%97%A9%E3%81%AB%E5%A3%B2%E3%82%8B'  50年も前の論文ですが結論だけをピックアップします。 18P(ページ)左下:以上のように米は年貢納入以前は売買してはいけないが、それ以後は売買自由であるというのが幕府始め諸藩の場合の通例であったようである。 その根拠として幕府については17P右中、寛文6年(1666)11月に出た「定」他を挙げています。 藩については、18Pに加賀藩、松江藩、岡山藩、尾張藩を挙げています。 なかでも岡山藩の例は面白いです。 この論文の最後ページの注16は興味深いです。 >現物の米の輸送は、コストが掛るし、品質も劣化しますので、大阪に送ることは極力回避すると思います。 当然です。 10P右上:もしこの想定を正しいとすれば、江戸時代我国社会には、大坂を中心とする畿内・四国・九州・中国および裏日本を含む米穀市場と同時に、今ひとつ江戸を中心とする南部・仙台を始めとする太平洋側奥州・関東から駿・遠・三・尾など熊野以東の表日本側国ぐにを含む米穀市場が存在し、米国市場の大軸は江戸・大坂という2本立てとなるのである。 12P左下:しかし江戸時代の米国市場を問題にする限り、これだけでは充分でない。この2大中核市場に対する地方市場が存するわけである。 16P左上:「所相場」と称するその地方独自の米穀市場が存在していた。 17P左下:領主は貢租として収奪した大量の米穀を主として江戸・大坂といった中央の大市場に投下するのが一般的であったが、(以下略) 当然ですが、「貢租として収奪した大量の米穀」と断ってありますね。 確認のため大坂にあった藩の蔵屋敷の数を調べたのですが、いろんな数が出てきます。 そこで最も詳しいと思われる次のサイトによります。 住総研 研究年報No.28 2001年版「大坂蔵屋敷の住居史的研究」   http://www.jusoken.or.jp/pdf_paper/2001/0008-0.pdf#search='%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E8%94%B5%E5%B1%8B%E6%95%B7 2P左下: 蔵屋敷を設置した大名家は,表2-1に示すように,大坂より西国では九州が圧倒的に多く,これに中国・四国を加えると,天保6年(1835)に存在した104邸のうち60邸,つまり約58%が西国諸藩の蔵屋敷である。 これに近畿勢17家を加えると74%になります。 奥羽・関東・中部・東海はわずか27家です。 元禄15年(1702年)では、95家の内、奥羽・関東・中部・東海はわずか12家です。 それでも西回り航路整備以降は全国から毎年150万~200万石ものお米が大坂に集まったそうです。 「こんなに多いのか」あるいは「この程度か」は私には判断できません。 一般教養科目公開講座「江戸を支えた商人の町・大阪」 http://www.eonet.ne.jp/~osaikikj/sub130x22x08.htm 農民が年貢として納めた米を大名は一部は食料として消費しましたが、大半は大坂に送り売却して財政を維持しました。西回り航路整備以降は全国から毎年150万~200万石ものお米が大坂に集まりましたが、大坂で消費されるのは40万石くらいで、後は外に出て行くことになります。 飢饉時には、米沢藩や白河藩のように近隣の藩から五穀を買った例もあります。 天明の大飢饉 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%98%8E%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%A3%A2%E9%A5%89  さらに、松前藩は米作できないので弘前藩と契約していたそうです。 対馬藩も米は少なかったはずですからどうしたのでしょう?

park123
質問者

お礼

早急なご回答ありがとうございました。 引用分によれば、米の市場が、大阪以外にも、東日本を傘下にもつ江戸や、各地方にもあったようですね。幕府の目溢しではなさそうですね。各藩は、便利な市場や直取引を利用していたようですね。現物の米を、一市場に集中させることは、無理だったのでしょうね。

その他の回答 (1)

noname#224207
noname#224207
回答No.1

大阪での米の取引市場(堂島米会所)についていささか混乱されておられるようです。 堂島米会所が成立したのは、大阪が米の消費地としての販売市場が大きかったためにできたものではありませんので御注意願います。 歴史的な経緯で大阪で米の換金が行われた結果、地場の大阪商人が市場を形成した結果です。 堂島米会所は経済的な理由ではなく藩幕体制の維持のための必要性から生まれて発達したものです。 藩を運営していくためには米を可能な限り現金化する必要がありました。 全国のどこの藩でも米を船積みするために必要な港と領内を輸送するための水路が整備されていました。 大阪への定期的な輸送体制は充分に構築されていました。 戦国時代までは年貢米は領主の領内で処分されていました。 現物の下賜か相対取引が主体で市場というものはありませんでした。 関ヶ原の戦が終り、家康による江戸城の拡張や江戸の街づくりに総動員令が発せられました。(お手伝い普請) 費用も労力も資材も動員された大名の自家調達でした。 同時に自藩の江戸藩邸の建設が必要でした。 幕府は外様大名に対しては、地図の上で海面に屋敷地を割り当て、屋敷を建てるのなら自分で埋めろ!とやりました。 例えば、長州毛利家の江戸藩邸は現在の日比谷公園です。当時は海でした。 膨大な土木建設に必要な資材や労働力を自国から連れていくのでは莫大な労力がかかりますので、現地調達ということになります。 江戸周辺で資材を購入したり労働力を確保するためには多額の現金が必要でした。 石垣などの石材は伊豆半島で採取しました。 現在も砕石場跡に各藩の家紋を彫り込んだ石材が残っています。 戦国大名や戦国武士に金勘定は無理です。 室町時代から実績を積み上げて豊富な経験を持っていた大阪商人に一任しました。 江戸は未だ開拓地で大量の米を扱えるような商人はいませんでした。 結果として大阪に米の取引市場が出来上がりました。 江戸で米を扱っていた札差と呼ばれる人達はあくまでも幕臣の給与である米の現金化を請け負っていた人達です。 当初から幕臣以外は対象外でした。 中期以降は大名の江戸屋敷住いの江戸勤番の人達の便宜上取り扱うようにはなりました。 >ところで、現物の米の輸送は、コストが掛るし、品質も劣化しますので、大阪に送ることは極力回避すると思います。 避ける理由がありません。 と云いますか避けることは事実上できませんでした。 貨幣経済が発達した江戸時代は現金なしでは藩の運営はできませんでした。 もっとも費用が掛かった江戸藩邸の維持は全て現金で決済されていました。 大名の収入は年貢米という現物が主体でした。 大名すなわち武家が現金を入手できる場所が堂島米会所でした。 堂島米会所の役割は、現在の投機目的の株取引とは全く違いますので御注意願います。 正米取引すなわち現物取引が原則です。 現物取引をしてもらわなくては、全国の大名が干上がります。 全国の大名が蔵屋敷を設けていました。 帳簿上の取引は帳合取引と呼ばれ、あくまでも大名が運び込む年貢米をもとにした町人間での取引形態です。 取引の流れは以下の通りです (1)年貢米→(2)大坂蔵屋敷に入り蔵米→(3)蔵屋敷にて入札・落札、米仲買は敷銀・代銀を掛屋に納め、銀手形を受け取る→(4)蔵屋敷で米切手と引き替える→(5) 米仲買は米切手を堂島米会所で他の米仲買に売却するか→(6)直接、蔵米問屋に売却する→(7)米切手を購入した米仲買・蔵米問屋は蔵屋敷に米切手を持参し米の引渡を受ける(この受渡に蔵元がたずさわる。この段階で蔵米は現物として商人の手に渡る)→(8)蔵米問屋から米穀仲買・上問屋・上積問屋米などの仲介業者と駄売屋・搗米屋などの小売商をの手を経て→(9)消費者の手許へ 販売代銀の流れは以下の通りです、 (1)米仲買→ (2)掛屋 → (3)一部は蔵屋敷から藩の大坂での費用や国元への送金(残りは両替商を兼ねることが多い掛屋によって、為替取組みを利用して、江戸藩邸へ送金 出典:大江戸経済学 大坂堂島米会所 www.h6.dion.ne.jp/~tanaka42/doujima.html >ある藩が米を売る際、他の藩と売買が成立できるものは、その藩へ直接米を輸送すると思います。(大阪の米商人が両藩の仲介をすることもあるでしょうが) このような藩どうしの売買などいう取引は存在しませんでした。 やりたくても出来ませんでした。幕府の逆鱗に触れます。 このような形態がなかった結果、有名な米百俵の話が生まれたり、飢饉で一つの藩で餓死者がでても隣の藩は無傷という現象が起きました。 日本列島の飢饉の地理的な発生傾向は西国は旱魃、東国は冷害です。 西国が飢饉でも東国は安泰、東国が飢饉でも西国は安泰という現象が度々起きていました。 このようなことが起きたのも全国の藩を縦断した米の流通体制が無かったためです。

park123
質問者

お礼

骨太のご回答ありがとうございました。 <藩どうしの売買などいう取引は存在しませんでした。> <幕府の逆鱗に触れます。> 幕府は、現在以上に重要物質である米をとおして、諸藩が徒党を組む恐れのあることを、極度に警戒していたのですね。幕府にとって、旱魃・冷害は無関係なものなのですね。 そして、ichikawaseiji様にお叱りを受けることを覚悟して、荒っぽく単純に推論します。江戸の現金の動き即ち政治・経済活動を支えていたのは、堂島の米会所の出来高なのですね。

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