• 締切済み

葬式仏壇の意味とは?

宗派はあやふやですが、浄土真宗だった気がします。最近葬式に出る機会がありまして、お坊さんの話を聞いてると疑問が出てきて、調べてみたのですが、頭が悪いせいかよくわかりませんでした。そこで質問させていただきます。 質問1 浄土真宗でのお葬式の意味とは、できるだけ来世は地獄や、地球でなく、極楽浄土へ行かせるように努力しますよ。ということでしょうか?場合によっては、地獄や地球に生まれることもある? そしてもし極楽浄土へ行ったら仏になるんですよね? 仏になるということは解脱したということだと思ってたので、つまり極楽浄土へ行くことと解脱することは同じ意味なのか。と思って調べると、いや違う。と書かれていました。 質問2 つまり浄土真宗では、仏(ブッタ)になるということは、解脱せずともなれるということでしょうか? 質問3 あと、仏壇の意味は、極楽浄土へ行った故人である仏様が見守ってくれるよ!という意味であって、故人が楽になれるように、幸せになれるように。という意味は入ってないのでしょうか?(もし仏壇にいるのなら、仏なので極楽浄土にいるため幸せ) 質問4 仏教では幽霊のことをどう捉えていますか?輪廻転生も解脱もできずさまよっている故人という感じでしょうか? 付刃かつ浅学で、申し訳ないです。構っていただけるととても嬉しいです。よろしくおねがいします。

みんなの回答

  • 2014japan
  • ベストアンサー率22% (35/159)
回答No.8

>回答4の者です。 お返事ありがとうございます。 そもそも仏教は釈迦の教えに誰か知らない人がアレンジしたものです。 純粋な釈迦の教えは残っていませんが、過去の天才、狂人たちが作り上げた仏典ですから、それなりの理論は有ると思います。 仏教の教えに 欲が苦しみの原因と言いながら、自分は、ぼったくり、外車乗り回し、金の亡者ですよ、その亡者が袈裟を着て説法しているのです。 聴いちゃだめですよね? 仏教がなくても、キリスト教があればいいですし、キリスト教がなくても、イスラム教があればいいし、イスラムがなくても、現地宗教があればいいし、現地宗教がなくても、まじない師がいればいいじゃないですか。 宗教なんてこんなものです。 悟った僧、住職いるの?多分いません。

  • hannya-gl
  • ベストアンサー率17% (6/35)
回答No.7

浄土真宗のお葬式の意味は、僧が常に口にする、「ご縁に会う」 死者を縁として、僧との縁が起こり、僧の説法を縁として、解脱(知る=脱する)が起こるなら。 死者が、導くもの=仏 となる。それが成仏でしょう。 仏教の法印は 諸行無常 諸法に常はない、すべては変わりゆく過程として、今、あるのみ。 諸相無我 諸相に我はない、我がなくとも世界はある、諸相の我、としての、神、創造主、はいない。 一切階苦 人間の一切は苦である、と知恵によりて見る者は、自らの苦悩を癒す。 涅槃寂静 悟り=知恵 には寂静が伴う。 諸行無常と諸相無我に一切階苦か涅槃寂静のどちらかを加えた3っを、教義に掲げているなら、釈迦の思想すなはち、仏教、と認める。という枠組み、網掛け、が法印とされるものです。 ご質問の内容は、法印に外れており、仏教、とは言えません。 質問の内容は仏教とは言えないものであり、僧が言っていたなら、それは仏教僧ではありません。 お経を暗記むしただけの、葬儀家に雇われた、アルバイト、ではないでしょうか。 法印を掲げると、日本に仏教は存在しない、大乗は既にヒンズ-教であり、禅宗は道教である、と言うようなことになります。 枠を広げると、仏教からは除外されていますが、密教の最大宗派、空海が広めた、真言宗が 、ご質問に答えられそうな事を言っているようですが、哲学、からは外れるでしょう。 死者を仏と呼ぶ、もう一つ語源では、と考えられるのは。 人間には4つの性格がある      1 人を苦しめ 自分も苦しむ者      2 人は苦しめず自分が苦しむもの       3 人は苦しめても 自分は苦しまないもの 4 人を苦しめず 自分も苦しまないもの      人を苦しめ、自分も苦しむものは地獄であり。人を苦しめず 自分も苦しまないものは仏      である。 という言葉かも知れません。死ねば、人を苦しめる事も、自分が苦しむ事もない。 ともなりそうですが。

  • fujic-1990
  • ベストアンサー率55% (4505/8062)
回答No.6

 越後の浄土真宗門徒です。  以下、ざっくりと、分かり易さを優先して説明します。 (1) 浄土真宗は、阿弥陀如来の本願を頼みとする信者の集団です。  阿弥陀如来は、48の目標を立てて修行して如来になったのですが、その1つが「自分の名前を呼んで助けを求める人すべてを、自分が作った西方浄土に転生(往生)させよう」というものでした。  つまり、浄土真宗を信仰するとは、人間として亡くなった者は、生前に「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えていた限りは、亡くなった瞬間に阿弥陀如来が迎えに来て西方浄土に生まれ変われる、生まれ変わったと「信じる」ことです。  純粋な浄土真宗門徒であるかぎり、地獄や地球に生まれることは考えないはずです。それは阿弥陀如来の能力、意志を疑うことですので、そう考える人は真宗門徒ではありません。  西方浄土へ行くことは輪廻から解脱するわけでも、仏になるわけでもないので、行った後「やっぱりあっちへ行きたい」ということで、人間に生まれてくる人もいるかもしれませんが、本人が日々念仏を唱えていたなら、とりあえず西方浄土(極楽浄土)へ行ける。  つまり、「阿弥陀如来が、来世は地獄や、地球でなく、極楽浄土へ行かせてくれる」というのは、「日々唱えた念仏」の効果であって、葬式は関係ありません。  ですから、遺族が葬式を営んでくれなくても、死んだのを誰も知らなくても、本人が日々念仏を唱えていたなら、西方浄土(極楽浄土)へ行けます。  では葬式とは何か。  真宗門徒にとって、葬式とは、阿弥陀如来を祀ることであって、坊さんには叱られるかもしれませんが、葬式とは、「阿弥陀如来様、そちらに行った釈○○・釈尼○○をどうぞよろしくお願いします」と、阿弥陀如来に「お願い」する儀式だと思っています。  故人の「冥福(死後の幸せ)」を直接に祈る儀式ではありません。浄土真宗では「冥福を祈る」という表現そのものを否定しています。代わりに「故人を偲んで念仏する」と言います。故人は、阿弥陀如来の意志で、幸せになっているものと信じるのが、門徒です。  ちなみに、生きている人が亡くなった人と分かれを告げるのは「告別式」であって、葬式そのものではありません。まあ、一緒にやるのが通例ですが。 (2) 前述の通り、浄土真宗は、「阿弥陀如来の力によって西方浄土へ行ける」と考えるだけです。行った者が阿弥陀如来と同格の「仏」になれると考えるわけではありません。解脱できるとも考えません。 (3) 浄土真宗の仏壇は、先祖を祀るためのものではありません。ひたすら、阿弥陀如来を祀る、拝む、ためのものです。浄土真宗本山の須弥壇?の形状を真似して作りました。  言うならば、「西方浄土にいる先祖をよろしく」「私が死んだ時はよろしく」と阿弥陀如来にお願いする場所ですので、仏壇に位牌や先祖の写真など置くのは(浄土真宗としては)間違いです。但し、私は母の遺影の小さいのを仏壇内に置いていますが。  仏壇に先祖はいません。したがって、故人は「仏壇から」質問者さんを見守ってはくれません。但し、私は仏壇→阿弥陀如来→母、という阿弥陀如来経由で、母に語りかけることはできると思っています。 (4)仏教では幽霊のことを  仏教一般となると、よく知らないのですが、恨みや不満が強くて現世に執着している存在、くらいの認識なのではないでしょうか。  繰り返しになりますが、浄土真宗的には、阿弥陀如来がその力によって自動的に救ってくれますので、幽霊というのはありません・・・ と信じるのが浄土真宗の信者でなければなりませんね。   

  • michael-m
  • ベストアンサー率50% (2725/5435)
回答No.5

私は浄土真宗ではありませんが、浄土真宗と関わる者として理解しようと色々伺ってきた者です。お坊さんによって表現の違いはありますが自分で納得できた範囲で理解しています。 質問1 浄土真宗でのお葬式の意味:故人の死を通して生命の尊厳に目覚め、残された私達が阿弥陀如来の確かな導きと仏縁を再認識する。いわば故人が仏となって生きている者を導く最初のお勤めということです。 私達はその御縁とお導きに感謝する。これが葬儀の本来の意味です。とはいえ今生の別れはやはり寂しく悲しいものです。今のように世界が狭くなっても遠くに旅立つ別れは寂しく悲しいものです。その心を無理に抑えて悲しむべきではないとは言えないでしょう。 浄土真宗では地獄とか生まれ変わりという認識は薄いようです。 質問2 解脱は二つの事象の表現に使います。これは浄土真宗とは直接関係ない話だと思います。私達が普通に使う場合は、人間世界への生まれ変わりが終わり仏の世界に転生するという意味の解脱です。人間世界へのわだかまりがなくなったと解釈するわけです。浄土真宗では阿弥陀如来の導きによって解脱し仏になるわけです。 しかし修行は仏になっても続くと説く宗派もあります。菩薩行を繰り返し完全なる涅槃に至るという考えです。これを解脱だと考えるわけです。中には菩薩の寿命を説く者も居て、その長さは千年とか億年という長さになるそうです。釈迦は人間世界にありながら涅槃に至り仏陀となったという途方も無い偉業をなした方というわけです。 仏陀という表現も難しいですね。本来仏陀は「目覚めたもの」という意味ですが、釈迦の偉業が大きすぎて仏陀を釈迦にしか使用しないと言う考えもあるようです。この場合釈迦以外は「阿羅漢」などといいます。 仏という言葉は仏陀をさす場合もあるし、仏の世界全体を表わす場合もあるということです。 質問3 仏壇の意味:仏壇は極楽浄土を表現しています。同時に光り輝く阿弥陀如来の御威徳を表わしています。仏壇を前にする事で、私達は自分達の目標を見詰めると共に、故人をココに導いていただいた事への感謝、阿弥陀如来の教えの素晴らしさを自覚するという意味があります。 質問4 幽霊:多くの宗派では修行により仏の世界に入るとか、地獄などに転生すると説いています。なので当然浮かばれない霊も居るわけで、幽霊も存在の可能性があるという事になります。浄土真宗では一度でも阿弥陀如来を念ずれば仏になるので幽霊という概念はない事になります。しかし実際には肯定も否定もしないという立場のようです。(もちろん否定する人も多いです) 元々幽霊というものがなんであるかも不明なのです。残留思念と定義してしまえば本体は成仏しても思いは残ると解釈できますから浄土真宗の考えでも幽霊の存在を否定する必要も無いと言う事になります。 私は浄土真宗の考えをまだまだ学んでいる途中、というより漸く入り口に立ったばかりです。これからも理解を深めるためには多くの方に繰り返し学ばねばなりません。そのなかで自分の理解を作っていくのです。 質問者様も繰り返し学ぶ事で様々な理解を積み重ねていかれることを期待しております。

  • 2014japan
  • ベストアンサー率22% (35/159)
回答No.4

葬式僧侶は職業です、生活の糧であり、営利目的です。 信仰とか真理とかとは関係ありません、説法は企業の誇大広告のようなものでしょう。 人を惑わしてなんぼの世界です、でなかったら出鱈目戒名とか法外な読経量とか受け取るわけがない。

tappy123
質問者

お礼

私も神様などを信じていないのですが、長年続いてきてる宗教なので、がっちりとした理屈を持っているのではないのでしょうか?そうでもない?

回答No.3

質問1について。 浄土真宗に限らずたいていの宗教は、キリスト教も含めて、葬儀をします。 では、葬儀はなんのためにするのか? 仏教が渡来する前の古代日本では人が死ぬと町はずれや村はずれの野辺に死体を捨てに行き、葬儀はしませんでした。 京都でいえば、東山の鳥辺野や西山のあだしのという死体を捨てる場所があり、人が死ぬとそこに捨てに行きました。 だけど、やはり葬儀をしないと死者の魂が祟るような気がして落ち着かず、生者に復讐するように思えて、そのために仏教が入ってきて、僧侶が怪しげな呪文を唱えて、しかも立派な袈裟の衣を着てお経を唱えたりすると死者の魂が鎮められ、あの世に魂を送って、祟りを払ってくれるような気持になるので、仏教を「魂鎮めの呪法」として歓迎したのです。 それが日本で葬儀をするようになった始まりです。 来世や極楽浄土とは直接には関係ありません。 浄土宗や浄土真宗は来世に往生することを望みますが、他の宗教はそれを必ずしも望んではいません。 葬儀というのは生者と死者のきずなを断ちきり、死者をしてあの世に送りとどけること、そして生者に祟ることを防止することです。 極楽往生することが約束されているわけでもないし、また死んだからと言って仏になることが約束されているわけでもありません。 親鸞の教えでは、人は死ぬと「正定聚(しょうじょうじゅ)」という天国と地獄の中間の煉獄のようなところに行き、ある人は天国に、ある人は地獄へと行くことが決められます。 審判を受けるのです。 だからすべての人が極楽往生するわけではありません。 中には地獄に行く人もいます。 そしてまた、死んだからと言って仏になるわけでもありません。 仏になるためには厳しい修行が必要であり、修行して悟る必要があり、誰でもが悟るわけでもありません。 質問の2について。 浄土新宗について私は詳しくはありませんが、前述のように修行せずして解脱もなく、解脱なくしてブッダになることもないと思います。 そもそもブッダという言葉の意味は「悟りを啓いた人」という意味です。 質問の3について。 仏壇はもともと仏教とは関係なくして、儒教の「廟」に由来します。 中国に行くと過去の英雄を祭った「廟」が存在します。 横浜に行くと「関帝廟」という、三国志の英雄・関羽を祭った廟があります。 その儒教が江戸時代に盛んになり、仏壇というものが生まれたのです。 その仏壇の中に「位牌」というものがあります。 中国に行くと墓に「碑」というのを建てます。 その儒教の「碑」が仏壇の「位牌」の由来です。 本場インドには仏壇というものはありません。 位牌もありません。 みんな中国の儒教を真似したものですから。 そして日本神道の考えでは、死者の魂は生者の身近に存在し、生者を見守っていると考えられました。 だから極楽浄土へ行った故人である仏様が見守っているよ、というのは仏教の考えではなく、日本神道の考えです。 仏教では人が死んで輪廻を解脱すれば、二度とこの世に現われることはなく、死んだきりで、生者を見守るなんてことはありません。 そしてもし、死んだ人が極楽往生したら、楽に幸せに暮らしているのですから、私たちがそれを楽に、幸せに暮らすように祈る必要はありません。 質問の4について。 仏教では人が死ぬと7×7の49日間、魂が中有にさ迷って、天国に生まれ変わるか、畜生に生まれ変わるか、あるいは地獄に落ちるか、輪廻転生する先が決まるまで魂が浮遊していると言われます。 たいていの人は49日すれば転生先が決まって現世から離れて行くのですが、現世に対する執着が強かったり、現世で恨みを残したりした人は転生先が見当たらず、行き場を無くしてさ迷うことがあります。 それが幽霊です。 だけど僧侶が死者の魂を鎮める儀式を行なえば、幽霊も転生先が見つかって、消えるものと思われています。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.2

tappy123様、こんばんは。 「信教の自由」で、いいんじゃないですかね。

回答No.1

ご質問を読ませて頂きましたが、浄土真宗ではないような気がします。 下手に私が説明するより下記サイトをご覧ください。 浄土真宗仏事相談・「門徒ひろば」 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Himawari/4022/ 暮らしにじぃーん なるほど仏事作法 http://www.ji-n.net/butsuji/index.html

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