• 締切済み

これが さとりだ。

 みっつのことを挙げます。  まづ さとりのついての前提として 情報公開が大事だという点が来ます。  情報が不足していたり間違っていたりすれば さとりの知恵も出にくいというものです。  確かにさとりは 存在の全体としての――既知と未知とをあるいは無知をもふくめての――境地です。全体を隅々までひとつ残らず知っているということではないはずです。  けれども そのときそのつど知恵を発揮するには 関連することがらについての必要で十分なただしい資料や情報がなくてはならないと思われます。  生活日常でのこともフクシマなどの社会一般のこととしても 情報公開が前提になると考えます。  次には ひとりの人の主観内面にかかわったことがらとしての情報の獲得になると思います。  あのとき A さんはわたしにひどいことを言った なぜかを聞きそびれてしまって時も経った。と思っていたとき ふとヒラメキが得られる。ということがあると思います。--あぁ なるほどあれは しかじかかくかくの事情があってのことだったか。という心の問題としての情報の獲得です。  つまりは そういった過去のことがらだけではなく いま現在の人間関係におけるわだかまりや諍いなどなどについても あの人の心はこれこれこういうふうであるのかと知り得れば ずいぶんと互いのコミュニケーションは なめらかに行くのではないか。  日本ではよく《無私》ということを聞きます。それは こういう場合に当てはめるとよいのではないでしょうか? すなわち 劣等感や優越感 あるいは孤独とその不安といった《わたくしごと》よりも まづそのいまの情況に就きその内容を知る。そしていまの問題としては殊に 相手や当事者の心を知る。  これは さとりの問題だと思います。三人よれば文殊の知恵と言いますが 互いに自由な自己表現が出来るようにお互いが心を開きつつ臨む。  特に心の問題を互いに解決しておくこと。あの人この人などなど世間との和解を得ておくこと。なかんづくわたし自身との和解を得ること。心がやわらがしめられてあること。こころのまどが明けられていれば よいのではないでしょうか。  三つ目は 聖書から引きます。長いです。  ◆ 悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす ~~~~~~~  ――ルカによる福音書8:26-39 ――  26 一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。  27 イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。  28 イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。    ――「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。      頼むから苦しめないでほしい。」  29 イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。  30 イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。  31 そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。  32 ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。  33 悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。  34 この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。  35 そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。  36 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。  37 そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。  38 悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。  39 ――「自分の家に帰りなさい。      そして、神があなたになさったことを      ことごとく話して聞かせなさい。」  その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわちイエスなる男は このゲラサの人の心の中の状態が分かった。それは この人がイエスを見て 自分の心を――無言のうちに――開いたからである。イエスは その心のさまを無言のうちに知った。に過ぎない。  たとえばこのようにして 世間との・そしておのれみづからとの和解を得るということ。  それは 必ずしもほかの人に依存するのではなく 自分自身を自分自身のこととしてたもちつづける。おのれにとって固有のおのれみづからのとき(時)をまもる。そうすれば より高い境地の人に出会ったなら おのづとわが心が開かれる。窓は全開。すでに 日本晴れとなり わが心はやわらぎとやすらぎを得る。    これが 《さとり》――という動態――だと考えます。    この《さとり革命》をとおして おのおの内発的にわれらが社会の――ひいては世界の――衣替えが成るのではないでしょうか? ご見解をお寄せください。

みんなの回答

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.17

>ですからむしろ方法論に入りたいのですし あるいはもう一面としてはけっきょくいろんな主題があってその具体的な問題ごとに情報や意見を交換をすること そのこと自体が さとりの輪をひろげて行くいとなみになっているということのはずなんです。 それが様々な宗派に発展して来た訳です。 メリット・デメリット、双方ありますよ。 しかし其れを理解するのは、悟った後ですが。 基本は「守破離」です。 此れを無視しての理解などはあり得ません。 段階などは素っ飛ばす事が可能ですが、他に抜きん出る事が重要なのではなく、「他」「自」を越える事が重要なのです。 色分けを捨てる事が、己を捨てる事が(忘れるでも、離れるでも良いです)肝です。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  例の《教祖》氏は 《自己催眠》という問題であり そういうクセではないかというひとつの結論を得ました。《危機》には つねに自己催眠に入る。そこからは聞く耳を持たない。うんぬん。  ★ ~~~~~~~~~~~~~  基本は「守破離」です。  此れを無視しての理解などはあり得ません。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 以前にもやり取りの中でわたしは言われたことがありましたが すでに忘れていました。  ▲ (ヰキぺ:守破離) ~~~~~~~~~~  (しゅはり)は、日本での茶道、武道、芸術等における師弟関係のあり方の一つ。日本において左記の文化が発展、進化してきた創造的な過程のベースとなっている思想でもある。    まずは師匠に言われたこと、型を「守る」ところから修行が始まる。  その後、その型を自分と照らし合わせて研究することにより、自分に合った、より良いと思われる型をつくることにより既存の型を「破る」。  最終的には師匠の型、そして自分自身が造り出した型の上に立脚した個人は、自分自身と技についてよく理解しているため、型から自由になり、型から「離れ」て自在になることができる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そう言えば 《合って》ますね。  わたしは アウグスティヌスをとおして――何ものかナゾによって――さとりを得たわけです。  自分独自の《三位一体論》の応用を得ました。アウグスティヌスの《記憶‐知解‐意志》の三つから広げて《司法‐立法‐行政》の三権の――時差をともなった――三位一体なる社会過程だとしました。、  すでに いづれかのときに 《水による洗礼》は要らないという説へ来ていました。    神は ひとつ。有る神も無い神も同じ。有る神が 名が違っても みなまったく同じひとつの神。という地点にまで来ました。  ★ 色分けを捨てる事が、己を捨てる事が(忘れるでも、離れるでも良いです)肝です。  でも いまもアウグスティヌスからヒラメキを得ます。  あなたは 方程式を言う係りですか?  わたしは 方程式を知らなくても そのように実践していますよ。  つまりは ですから  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  それが様々な宗派に発展して来た訳です。  メリット・デメリット、双方ありますよ。  しかし其れを理解するのは、悟った後ですが。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 過去です。  親鸞は けっきょく自己の宗派は要らないにまでたどり着きました。《非行非善》。何ごとも すでに修行にはあらず。いちいち善行を為して修行のごとく往生のための善を積むにもあらずと。  そのときすでに神は 自己揚棄をした。一段高いところへ自己を揚げてそこで自己を棄てた。よって すべての神は ひとつ。    生活と社会とに就き 《わたし》を《わたしたち》のあいだに進み入るようにさせて互いに自由に批判しあいつつ協力しあって 日から日へこの社会を変えてゆく。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.16

>「それは 一理ありますね。  具体的には?  個別具体的なことが 大事ですよ。」 B様、いっすね。 個別具体的に。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.15

>「もういいよ。  おつかれさん。」 いやいや、そうもいかない、 こともあります?。

bragelonne
質問者

お礼

 それは 一理ありますね。  具体的には?  個別具体的なことが 大事ですよ。  ご回答をありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.14

>「わたしは あの人といっしょに同時にさとりを得ましたってのは ないでしょう。」

bragelonne
質問者

お礼

 もういいよ。  おつかれさん。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.13

B様、おはようございます。 「個別具体的」って、結構キーワードと思います。 法学でも、福祉でも、仏教でも

bragelonne
質問者

お礼

 K さま お早うございます。ご回答をありがとうございます。  そりゃあそうでしょう。  集団的なさとりって聞いたことがありませんから。  わたしは あの人といっしょに同時にさとりを得ましたってのは ないでしょう。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.12

>「ところで 何についての契約ですか?」 そりゃ、そうでしょうね。 それは個別具体的なこと、と(も)申せましょう。

bragelonne
質問者

お礼

 と いまのさとりと どういう関係になりましょう?  ご回答をありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.11

B様、こんばんは。 >「何の《契約》ですか?」 契約とは、「契約する能力が認められた主体同士が、締結する約束」ですか (稚拙な表現で、すみません) そんで、 1 能力を認められない主体は、法的に保護されます 2 公序良俗に反する契約は、無効とされる ・・・すなわち、「契約が有効」とは、裁判所による強制力を担保するものであり、 しかし、裁判所が契約の内容を吟味した際、「これは酷い」という契約は、 法の保護を受けられるか判らない、、、 「血を流さずに肉1ポンドを切り取ってヨシ」という、アレですね。 そんな判例が積み重なって、法が発展していく(法が社会に追い付いていく) というのが「判例法」という考え方ですが、

bragelonne
質問者

お礼

 ところで 何についての契約ですか?  ご回答をありがとうございます。こんばんは くりなるさん。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.10

>コミュニケーションに秀でた人たちが先に さとりの輪をつくりこれを広げて行ってもよいのではありませんか? 人に聞けない言葉を人の言葉で人に伝える事は不可能です。 人の言葉として聞いては駄目です。 そのものの言葉として聞かなければ、意味が変わってしまいます。 悟りの輪が在る物ならば、むしろ私は参加したいですね。 だからこそ、私は此処で話の出来る相手を探しているのです。 何故かいませんが。 意外と孤独ですよ?私は。 酒を酌み交わしたい物です。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~    >コミュニケーションに秀でた人たちが先に さとりの輪をつくりこれを広げて行ってもよいのではありませんか?  人に聞けない言葉を人の言葉で人に伝える事は不可能です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは あいまいな表現になってしまっていますが そうではなくすでに日常の仕事なり仲間の集まりなりとして生活全般における活動のことを言っています。  さとりについて 直接ににしろ間接ににしろ 互いにあたらしい知見を得てそれを伝え合う。そういうすでにおこなわれている実践を言います。  さとりについては 説明の言葉を広げ深め洗練していくことをもふくみます。どしどし補助線を引いて行く。うまい・まづいをふくめて 表現――仮りの代理表現でしかないもの――を推し進めて行く。・・・  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  人の言葉として聞いては駄目です。  そのものの言葉として聞かなければ、意味が変わってしまいます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この点については 例示がほしいところですね。というのは わたしの場合は 仮りの言葉で基本的に表現するというわけですから 《人の言葉として》とか《そのものの言葉として》という規定は 掴み取れるようで必ずしも容易ではないと感じてします。  一般に《表現し得ないもの》といったことを言っているのでしょうか?  だとしたら それの仮りの代理表現で理解しあって行く。という方針なのですが。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  悟りの輪が在る物ならば、むしろ私は参加したいですね。  だからこそ、私は此処で話の出来る相手を探しているのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 自分で相手を誘い込むくらいでないと。    この質疑応答の場では わたしは最初のころ 《井戸端会議》だと言っていました。引っ込めたわけではありません。あまり言わなくなっていますが。    誰もが孤独ですよ。  これを煮詰めて行くと ひとはたくさんいるわけですから その孤独というのは 孤独という関係なのだと気づきます。そして なぜなら 自由意志はひとりの《わたし》なる存在にしか対応していないからだと知ります。  孤独でなきゃ 互いに自由な・対等なマジハリを持つことはかなわない。となりますまいか。  酒は もともとなぜか定量で済む人間だったのですが そしてただしお相手するときご相伴はこれもなぜかかなりの程度まで出来たのですが 最近は 残念ながらよわいですね。歳ですからね。その機会もほとんどなくなっていますし。  今回の質問は  ☆☆ この《さとり革命》をとおして おのおの内発的にわれらが社会の――ひいては世界の――衣替えが成るのではないでしょうか? ご見解をお寄せください。  ☆ ここまで思い切って言い切っていますからね。  ですからむしろ方法論に入りたいのですし あるいはもう一面としてはけっきょくいろんな主題があってその具体的な問題ごとに情報や意見を交換をすること そのこと自体が さとりの輪をひろげて行くいとなみになっているということのはずなんです。  もちろんその一環なのですが いまかかげている質問・【Q:マ(間・間合い)の理論】は 一向に(と言っても貴重な二件の回答をもらっていますが)進展しないという側面もあります。自分の中でなかなか先へすすまない。そういう性質なのかとうたがうほど われながらへんな理論です。  いろいろあるのだと思います。そこは気長にすすめて行くということでしょう。  ま こんなところでしょうか。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.9

>どうもしません。――これで《枠を超える》ことは出来ませんか? そうです。 コミュニケーションでは「答え」は得られません。 簡単に言うと、「教えては貰えません」。 コミュニケーションは「ヒント」です。 ただし、相手は人には限りません。 水のせせらぎ、鉛筆の芯、雷鳴、電柱のポスター、スーパーのカゴ、酷暑、メモ帳、庭の花、懐中電灯の電池、土の匂い、時計の針、空腹、床のゴミ・・・ 全てが話しかけて来ています。 耳を傾けてみませんか。 耳を欹ててみませんか。

bragelonne
質問者

お礼

 《枠を超える》って そういうことなんですか。  ご回答をありがとうございます。  ★ 全てが話しかけて来ています。  ☆ とすると どうもしますか?    障害を持ったひとは 耳を傾けているということですか? 水のせせらぎなどに。  でも そういうときにも コミュニケーションに秀でた人たちが先に さとりの輪をつくりこれを広げて行ってもよいのではありませんか?

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.8

聾唖者、または文盲、更には白痴。 彼らは悟る事は不可能ですか? >よほどコミュニケーションはなめらかに行くと思います。 此れが可能なのは、その能力を保持しているという程度の人間です。 「欠け」たら悟れないのでしょうか? 「優秀」でないなら? コミュニケーションが取れなければいけないのでしょうか。 貴方が頭脳が明晰なのは、理解しています。 私よりも知識も見識も深いでしょう。 正直、私には貴方の言っている事を理解する時間が掛かりすぎるので、面倒だから余り回答しませんw 枠を超えましょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ん?  ご回答をありがとうございます。  ★ 枠を超えましょう。  ☆ そしてその一例として:  ★ コミュニケーションが取れなければいけないのでしょうか。  ☆ という問題。  すなわち  ★ 〔能力が〕「欠け」たら悟れないのでしょうか?  ★ 聾唖者、または文盲、更には白痴。 // 彼らは悟る事は不可能ですか?  ☆ うむ。よわったなぁ。  一定の程度でコミュニケーションが取れるという能力とその実践。これが できない場合は どうするのか? こういう疑問でしょうか?  どうもしません。――これで《枠を超える》ことは出来ませんか?

関連するQ&A

  •  アース役のごみ処理方法について

     アース役のごみ処理方法について  は 次の記事があらすじをしるしていると思うのです。それを解読してみてくださいませんか。  ◆ 悪霊に取りつかれたゲラサの人をいやす ~~~~~~~  ――ルカによる福音書8:26-39 ――  26 一行は、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。  27 イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。  28 イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で言った。    ――「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい。」  29 イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである。この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。  30 イエスが、「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と言った。たくさんの悪霊がこの男に入っていたからである。  31 そして悪霊どもは、底なしの淵へ行けという命令を自分たちに出さないようにと、イエスに願った。  32 ところで、その辺りの山で、たくさんの豚の群れがえさをあさっていた。悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。  33 悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。  34 この出来事を見た豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。  35 そこで、人々はその出来事を見ようとしてやって来た。彼らはイエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった。  36 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれていた人の救われた次第を人々に知らせた。  37 そこで、ゲラサ地方の人々は皆、自分たちのところから出て行ってもらいたいと、イエスに願った。彼らはすっかり恐れに取りつかれていたのである。そこで、イエスは舟に乗って帰ろうとされた。  38 悪霊どもを追い出してもらった人が、お供したいとしきりに願ったが、イエスはこう言ってお帰しになった。  39 ――「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」  その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとく町中に言い広めた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ガミガミ役からの意識の排泄としてのゴミを みづからの内的に棄てるということ。こうだと思っているのですが ご見解を寄せてください。

  • 夏目漱石の悟り

    『漱石先生ぞなもし・続』のなかで、ある者が『先生にとって悟りとは何ですか』と問うたところ、 漱石は『彼も人なり、われも人なり』と答えたとあります。 解釈は様々でしょうが、悟りの境地には至らないが、悟った先人達もまた、人なのであるから、 自分も又いつかその境地になることも可であると言ったのではないかと私は思うのです。 が、ある本で、悟りとは我がことのみにとらわれず、人の幸せを願うことであると 漱石が語ったのだと解釈されていたのがどうも腑に落ちません。 漱石の禅とのかかわりから考えて、明治38,9年頃の漱石が悟った人として自分を捉え、 弟子にかくかくと言うとは思えないのですが ご意見伺いたくお願い致します。

  • 悟りを開く境地について

    私は、あることで悩みとても辛い思いをしました。 自分ではどうすることもできない現実に嘆いていたのですが、ある日、半眼の状態でこの世のものとも思えない幸せな気分を味わったのです。空中に浮かんだような気がしました。時間的には一秒もなかったと思います。 悟りを開いた境地でした。それからというもの、その気持ちのことを人々に聞いてみましたが、誰も経験していないというのです。 自分では、脳内麻薬がそういう気分にしたのだと思っていますが、みなさんの中で同じような経験をされたという方、またこの体験にコメントできる方のご意見お待ちしております。

  • 無の悟りは、このくらいわかりやすく説明すればいい

    いつものやつの続きで、本気で出版を考えて整えたモノ。 まあ、このくらい説明すればわかりやすいだろう。 論理について何か思うところを書いてください。 参考にします。 > お釈迦さまが生きて駆け抜けた時代である、約2500年前、人が自らを自覚して歴史を刻もうとするさなかのインド社会では、荒々しい自然界の生存原理との折り合いをつけて、人と人が共生する文明の芽吹きがあった。 そのようなさなか、人と人の社会生活と、個人が動物のように利己的に生きたそれまでの自然本性から発展させて共生を目指す、人間同士としてのお互いに共通認識をもった、文明に根ざした新しい生き方を歩むにあたって、その理想を仲介する事は文明社会では神への信仰に集約され、人の理性的資質の所在をめぐり人々は様々な自説を述べ、神の案内する人間としての社会性の構築の理想像について、お互いに意見を交わした。 人と人を結ぶ神を道標に、人はお互いに解り合い自己の社会性を理解して人間になろうとした。 それは自らを知る行いが神を知る行いと一致した文明の発祥期の事柄だ。 神の案内する共存が人間同士の社会生活の発祥であろう。 宗教と言う社会活動はそのような意味がある。 神の発見が、人に自己であるという自覚をもたらし、社会性を備える人間としての存在に進化させたのだ。 そこにお互いに人としてどのように信じるかがあり、そんな当時の風潮のさなかに、お釈迦様は生きてそして自身の信仰に目覚めた。 いわゆる仏陀の悟りである。 2500年前のインドの風土でヒンズー教の源流を司る修行僧たちは、語る人によってさまざまであった神の姿を明白に定義しようと努めていた。 このような神を知る行いは、僧によって現在も続いている。 世界中見渡しても、同じことをしている。 その神を知る行為の実際は、自らの信仰を通して神の証明を試みる事であり、自己を完成させ、それを認知されることが、インドにおいては目覚めたものとして仏陀になる事であった。 お釈迦様はそれを成し遂げて自己完結し自らの信仰を打ち立てた。 彼が聖人であったからには、信仰により語る人によって様々であった神の姿の全てを受け入れたのだろう。 それは、神を語る言葉はないという、釈迦独自の無の信仰であった 無の信仰を持って神を受け入れ、他者の信仰心の不備も、無であると指摘した。 他者の信仰を無として許し、自らも無であるという共通項に、慈悲心の原点がある。 お釈迦様のように信仰心に目覚める事が出来ないで、信仰を語ることが権力闘争と化した当時の僧は、現代の生臭坊主と同じく、我が神はかくの如しという噂話が好きだ。 彼らには僧として、それが社会的に求められたからこそ神を語るのだが、そんな神はかくの如し、と言う噂話に、お釈迦様の無の悟りでは「正しい信仰心とはそうではない」とばかりに、神を理解するゆえに、過ちの多い当時の僧の言葉に批判した、神を損なわず僧の信仰のあり方のみを咎めたのだ。 それは、当時の修行僧の大半には、当時生殖やとして重要だった、仏陀の境地に行きついていなく、自らに信仰のこころざしが空疎であり、むしろ神を損なう負の信仰であるので、それは無であると否定する慈悲心であった。 そして、ならばと、目覚めぬ者が、神を信仰しつつも無と語る、お釈迦さま独自の神への志を改めて問いかけ、その信仰に土足で足を踏み入れようとする冒涜を犯し、その答えは「それは私の心そのものであり、他者に語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 お釈迦様の、無の悟りとはこのようである。 そして慈悲心とは、無の共通項によって、お釈迦さまに理解されていたからこその行いだ。 等しく無を信じるならば、他社の信仰心の不備は、批判するものではなく、慰め、釈迦の心理足る無の悟りを持って知らしめるものである。 すなわち、他者をとらえて、「その信仰は神を語っていない」(全く無い) 自らをとらえて、「神を語る言葉はない」(実はある) この二つの無を使い分けて、信仰とそれの報じる神について、無であり彼我の一切が無と言う説明で、自己の信仰を表現するお釈迦様独自の悟りと処世術である。 無の悟りと自覚は、語る言葉に関しては一切ないという話で、実は心には留められているという、我には信仰が有るということである。 それがお釈迦様の仏陀の悟りなのだ。 そもそも仏陀の語源の一つである「目覚めた者」とは、さらに言葉を膨らませると、自らの信仰に目覚めそれによって自らを自覚した者のことだ。 仏陀は当時も今もインド社会に数多く居た。 お釈迦様の場合には、自らの信仰を自覚したからには、私は無ではなく神と共に確かに存在する。 しかし、世界に向けてそれを語る言葉は無い。 そういう意味である。

  • 《われはブッダなり》と宣言する人は

     どのくらいいらっしゃるでしょうか。  人数が知りたいのではなく どのようにその状態を捉えておられるのかをおしえてください。たとえば 実際であるかどうかを措くのですが ブッダは次のように語ったとされています。この境地について そういう内容なら おれは すでに達した / わたしは たしかに すでにこれを経験しているなどなど 感ずるところ・思うところを述べて お聞かせください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《さとり》の境地を示し 人々を教え導くために 余は巧妙な手段を語る。 そしてそのとき余は 《さとり》の境地に入ることなく この世に教えを弘めるのだ。 その場合 余は霊妙は力によって みづからの姿を現わし そしてすべての人々に加護を垂れるのだ。 人々は理性が転倒して愚かであり 余がそこに立っているにもかかわらず 余を見ることはない。 (《正しい教えの白蓮 Saddharma-pundariika 》十五   〈如来の寿命の長さ〉 岩本裕訳 岩波文庫《法華経》・下) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  また わたし自身は 経験済みだと臆面もなく言うのですが それは 大馬鹿者になるでしょうか。つまりむしろ このように語る人間(ブッダ)がいたと言って伝えながら その人を崇めるとすれば そのほうが 間抜けであることを免れないのではないでしょうか。《人を崇める》のであればです。つまり ブッディスム批判としての質問にもなるのですが いかがお考えになるでしょう。

  • さとりとは 真理がすべてにおいてすべてであることだ

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第六章 さとりとは 何か  1. さとりとは 真理がすべてにおいてすべてであることである。  2. 真理とは 変わらざる真実である。  3. よって 世界のすべてにおいて真理が真理であることが わが主観において成っていることである。  4. たとえば あのときアイツは これこれのことを言った。けれども それは あれそれの事情とひろく情況とからひとつの判断をして自己表現をしたものだ。・・・というふうに すべての世界条件を知ることが出来て その場の相手やまわりの関係者のそれぞれについて 事情が分かるということ。  5. 真理を知ると 世界との・そしてなかんづく自己自身との 和解が成る。真理はきみたちを自由にする。  6. わたしは 真理であり 道であり いのちである。という命題をたずさえてわれわれは生きる。この動態が さとりなる実存である。  7. 未完成であり 人間にとっては 未完成なる実存の道が さとりの成就した状態である。  8. ただし すべては ひとりの人間における主観の問題である。そこにおさまるコトである。よって主観は すでにつねにひらかれていなければならぬ。未完成だと言っているのだし 言っているからには。  ☆ 思いっきり自由なご批判をどうぞ。賛成票をもどうぞ。  賛成だとしても 添削をもどうぞ。  9. このさとりなる動態主観は 相手とのあいだに言わば肝胆相照らす状態にあることが出来る。未熟なる状態をも互いに分かり合える。そこでは いくら批判をし合いまたけんかをしても 仲が傷つくことなく こわれることもない。――これが さとりだ。

  • みづからに立ち帰る・世間との和解

     《前史を終わらせる》問題を継ぎます。  1. 自己との和解そして世の中との和解 これが――さまざまなきっかけをとおして いかなるかたちにおいて起きるにせよ―― 個人にとっての《前史の終了 すなわち 後史への突入》だと考えられます。  2. では和解は どうすれば生まれるのか? いかにしてわが心におとづれるのか?  3. ひとつには どうもつらつら考えるに 《悪は存在しない》という命題に心から同意することと同時なのではないか?  4. 悪と呼ぶ行為ないし現象は実際に起きているが それは 善の損傷としてあるのであって 《悪》というイデアやモノが存在しているわけではないのだ。この認識と身における感性的な秩序のようなものが成り立つとき こころのわだかまりは解けて 《和解》が成る。こう考えました。  5. 人びとの中には 一生のあいだについぞこの和解を見ない場合もあるのだろうか?  6. 死を前にした心境において 和解の境地は得られるものだろうか? つまり人は遅くとも死の直前には 自己に立ち帰り世の中とも解け合い 結ぼれたしがらみは無くなっていると言えるだろうか?  7. 言いかえると人びとの中には 死んでも その無明のうちに過ごす前史が終わらないという場合もあるだろうか?  8. 死ぬまで 《悪》なる観念に悩まされつづける魂は 存在するだろうか?

  • 無の境地と言う心境は自らを楽しむことだ。

    勉強を続けなければいけないんでね。 猿回し再開だよ 前回はコレ↓ 無の境地について考察しました。添削してください。 http://okwave.jp/qa/q8286466_3.html#answer 解釈しやすいように修正したうえで抜粋してみるよ。 > そもそも無の悟りは、 君達の語る信仰は神を表していない。すなわち無だ。 私の信仰は神を語らない事にある。すなわちこれも無だ。 したがって一切が無である。 お釈迦様のこの悟りを理解することである。 しかしだ、無の悟りで最も大切なのは、語る言葉はないし、そもそもその必然がないという自覚である。 この自覚は、釈迦を理解することでは成しえず、自らを理解することにある。 私は、「わが信仰の大道を行け」と推奨しているし、そのように自らの信仰に対して、独自の悟りに至る事こそ仏陀の道だ。 現在の日本の仏教では、「語る言葉はない」コレが「語る言葉はないが私の心は信仰心で潤っている」こういう言い回しになって、それが空であるという事になっている。 この空の自覚は、自らは存在すると言う確信を伴い、滅却を伴う仏教の無の教えとは違う。 ただな、この空の方が本来の無の悟りに近いことは確かなんだ。 無の悟りに無ではなく私の心と言う有りを見いだした私は、それこそが分別だと言うが、一般には無分別の事だとされている。 私の分別は自らの基ずいて迷わない心を見いだすことにある。 自らの心が自らの自由となり、忙しく煩悩に焼けただれる事が無くなる。 無の境地と言う言葉のままに、思索の一切をやめて心も思考も静寂の中にたたずむ。 私はそんな感じに至っている。 快楽主義者の君達の関心事は、どうすればそうなれるかだろう。 答えは自らが仏陀になる事であり、そのためにはお釈迦様を追いかけるのはやめて、自らの心に向き合う事である。 仏陀に自覚とは、自らを自覚することであり、お釈迦様を理解することではない。 この点でどこか君達は倒錯していて、お釈迦様を理解すれば、お釈迦様を自覚できる。 それでこそ仏陀だと言う間違った解釈をしている。 神と一体になることは可能だが、人であるお釈迦様と一体になることは不可能だよ。 そう言う訳で、 「わが信仰の大道を行け」 こうなる。 何度か続けた問いかけで、君達は空に関しては理解した自信を持てるであろう。 その信仰の安らぎは、釈迦に報じて、倒錯ゆえに釈迦の心が判らない者にとっては正解だ。 無の境地とは違うが、空であると言う悟りであり、心は涅槃に入ることも可能だろう。 仏教が編み出した境地として肯定しよう。 しかし哲学者として、仏教を理解しきりたいと言うのならば、「無の悟り」に関する一連の研究から、果たして無の境地に至れるかどうか自問したまえ。 まあ今回はこのような論理を提案してみた。 研究途上の事柄で、自由に無駄な抵抗を投稿したまえ。

  • 無の悟りは信仰心を表し大乗はあやまりである

    一連の知的SMプレイの最新版です。 無の悟りはたやすい http://okwave.jp/qa/q7553127.html 無の悟りとは単純明快である http://okwave.jp/qa/q7612407.html 私は「わが信仰の大道を行け」と薦めているが、理屈が全く分からない人ばっかりだろうから、論理を整えてみたよ。 お釈迦さまが生きて駆け抜けた時代である、約2500年前、人が自らを自覚し歴史を刻もうとするさなかのインド社会では、荒々しい自然界の生存原理との折り合いをつけて、人間同士が共生する文明の芽吹きがあった。そのようなさなか人間同士の社会生活と個人の自然本性が共存する新しい生き方を歩むにあたって、その難問を仲介する神と表せる、人間の理性的資質の所在をめぐり、人々は様々な自説を述べ、神の案内する、人間の社会性の構築の理想像についてお互いに意見を戦わせた。 それは自らを知る行いが神をしる行いと一致した文明の発祥期の事柄だ。 神の案内する共存が人間の社会生活の発祥であろう。 そこにお互いに何を信じるかがあり、そんな当時の風潮のさなかに、お釈迦様は生きてそして自身の信仰に目覚めた。 いわゆる悟りである。 2500年前ヒンズー教の源流を司るバラモンの僧たちは、神の姿を明白に定義しようと苦心していた。 そしてそれを成し遂げたのがお釈迦様である。 お釈迦さまが信仰に生きることを可能にしたのは彼自身が神の全てを受け入れたからだ。 すなわちお釈迦様は太古のインド社会の源流に現れる神の姿を受け入れたのだ。 他者の信仰をも許す、慈悲心の原点だ。 お釈迦様のように信仰心に目覚める事も無いくせに、信仰を語ることが権力闘争と化した当時のバラモンの僧は現代の生臭坊主とかわらず、神はかくの如しという噂話が好きだ。 そんなうわさ話を、お釈迦様は「信仰心とはそうではない」と、神を尊ぶゆえに、過ちの多いバラモンの信仰にケチをつけた、神を損なわず人の信仰のあり方のみを咎めたのだ。 すなわち君達バラモン僧は自らに信仰のこころざしが無い虚空でありすなわち無だ。 この無は「そんなのありゃしねー」の無であり、何年か前に「そんなのかんけーねー」と裸踊りをしたお笑い芸人がいたが、ふっ飛ばし方は同様であり、かのお笑い芸人こそが現代で最もお釈迦様の言葉を正しく実践する、聖人だ。 そして、ならばと、お釈迦様自の神への志、すなわち信仰を問いかけ、その信仰に土足で足を踏み入れようとする他者からの冒涜に対しては、「それは私の心そのものであり、語る言葉は無い」すなわちこれもまた表すなら無である。 すなわちこれは、「てめーのしったことじゃねー」の無であり、お笑い芸人の「そんなのかんけーねー」と一致する ここで果てしなく、押し問答が繰り広げられる。 お前の神を明らかにして見せよと。 答えるにそれを表すなら無であると。 そこで無の論理を心得るならば、すなわち目指すのは、自らのみの信仰心のの探究であり「救ってください」「助けてください」これは無い事になる。 彼らはそれを恐れるのだ。 仏教の迷走はここにあり、禁を破った大乗はむしろ日本版ヒンズー教である。 自らの信仰のみに生きるなら、勧めるのは無の悟りではなくて「信仰の我が大道を行け」これである。 てめーのしったことじゃねー。 てめーでなんとかしろ。 これである。 ありがたいだろう。 さて今回も一種の作文であるが、改めて無の悟りを掘り下げてみた。 信じると言う行為や心の働きをいかにとらえるかご意見をお願いします。 そのほかに私こそが無を悟っている。 君(私の事)の無はまちがいだ。 そんなつわものの、モンキーダンスも歓迎いたします。

  • ゴータマ・ブッダは 世界一の詐欺師なり。

     1. 《空》を 神と見立てればよいものを あくまで人間の境地だと言い張った。  2. すなわち 《目覚めた(ブッダ)》状態としてであり 言ってみれば《神として》ではなく 《神の場に行き来できる存在》として にんげんなる《われ》にその境地があるのだと言い張った。  3. ブッダ状態としての《さとり》とは ここで あくまで《確率》として存在するというものである。言いかえると その存在についてもその状態についても ついぞ人が確定して認識しえず言葉によって表現しえない場なのだと。  4. 言いかえると ブッダよ あんたのさとりを 示せという疑いや要求に対しては あくまでシラを切る。《表現しえず》と。  さとったのなら 人びとに分かるように説明せよと言われても 沈黙をまもる。  人びとが それはこれこれの状態を言うのではないか? と尋ねた場合には いやいや さとりとは そんな生ぬるい境地などではないと答える。  では どうなのか? という問い返しには だんまりを決め込む。  5. したがって ブッダのさとりは 表現の問題におさまるかとさえ考えられる。  人びとに分かるように説明しえないならば そのさとりは インチキではないか? という問いに対しては いやいや われははるか昔からはるかこの先までブッダである。と言って聞かない。  説明が出来ていないではないか? という問いに対して いやいや われは その現場を取り押さえられても姦淫はしていないとどこまでも言い張るごとく ブッダなりと答える。ブッダはブッダなんだよおーんと。  ――このような《表現およびやり取りの問題》にすべてをおさめようというおそろしく決意の固い宗教家なのではないか?  6. 一方で 人びとの求道の心を引き出し ただし他方では さとりの証明にかんしては 量子を特定して示すことは出来ないというような論理で どこまでも逃げ しかもブッダ論をぶちつづける。      *  この質問は 下記の質問でのやり取りを承けています。   【Q:ブディズムの再生はあるか。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7563932.html  その趣旨説明から 次のくだりをふたたびかかげます。上の    1. 《空》を 神と見立てればよいものを・・・  について説明している箇所ですから。  ☆☆ (信仰の類型) ~~~~~  ( d ) 有神論および無神論それぞれとしての信仰を 類型的にまとめてみます。互いに同等であると見るというものです。  |非経験の場|経験世界の分身|信仰の形(非思考の庭)|  ○ 神道  |かみ|かみがみ|もののあはれを知る;きよらかなおそれ|  ○ ヒンドゥーイズム  |ブラフマン|神々|アートマンなるわれ|  ○ ブディズム  |空|神々|如来蔵(信じないと信じる)|  |マハーワイローチャナ|マンダラ|秘密なるわざ|  |アミターユス|無し|絶対他力;自然法爾|  ○ 聖書  |ヤフヱフ|無し|名を受け容れる|  |キリスト|無し|名を受け容れる|  |アッラーフ|無し|クルアーンに拠る|    ○ 西欧古典古代  |宇宙霊魂;世界霊魂|神々|《わたし》|  ~~~~~~~~~~  7. 有神論(たとえば 梵我一如)をしりぞけ それでも無神論〔という信仰〕の立ち場をも採らないならば その存在論・その人間の境地論は 《非思考の庭》としての信仰と 思考としての経験思想とのあいだで どっちつかずのままに終わる。というおそれが 大きいと思われる。  果たして どうか?