日本陸軍第11師団(第55師団)の軍備と編成地の変遷

このQ&Aのポイント
  • 日本陸軍第11師団(第55師団)の軍備と編成地は、歴史的な経緯から複数の資料によって異なる情報が存在しています。
  • 日清戦争時には歩兵第10旅団、歩兵第12連隊が丸亀を編成地としていた一方、日露戦争時には第11師団自体も丸亀や善通寺とする資料が混在しています。
  • 太平洋戦争開戦時には第55師団が丸亀と善通寺を衛戍地としていましたが、この四国師団の流れについては詳しい情報が見つかりませんでした。
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日本陸軍第11師団(第55師団)

四国の第11師団(第55師団)は、軍備更改計画では、師団司令部、特科部隊の衛戍地は善通寺です。 歩兵第12連隊も善通寺です。 日清戦争時の歩兵第10旅団、歩兵第12連隊は、丸亀が編成地、衛戍地です。 日露戦争時では、第11師団までも、丸亀、善通寺とする資料が混在し、歩兵第10旅団、歩兵第12連隊も混在します。 昭和になっても、丸亀には連隊区司令部、練兵場が所在した資料があります。 ちなみに、ウィキでは、歩兵第12連隊が、明治44年に丸亀に移駐となっています。 昭和7年の国防大辞典の常備団隊配備表によると、歩兵第12連隊が丸亀。 歩兵第10旅団、特科部隊が善通寺となっています。 太平洋戦争開戦時の第55師団では、第55歩兵団、歩兵第112連隊の衛戍地が、丸亀、善通寺とする資料が混在します。 この四国師団の流れの本当のところは、どうなのでしょうか? アジア太平洋~を見ても、イマイチ見つかりません。 戦史叢書にも見つかりません。 教えて下さい。 よろしくお願いします。 戦史資料室へ行けは、お断り。

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回答No.1

 『陸軍常備団隊配備表』『軍編合竝配置表』によって衛戍地の変遷をしめしますと、 1)明治29年3月16日 送乙第963号  第11師団 司令部:丸亀         歩兵第22旅団:丸亀  歩兵第12連隊:丸亀 歩兵第43連隊:丸亀        歩兵第10旅団:松山  歩兵第22連隊:松山 歩兵第44連隊:松山 2)明治40年9月18日 軍令陸第4号  第11師団 司令部:善通寺         歩兵第22旅団:善通寺 歩兵第43連隊:善通寺 歩兵第44連隊:高知        歩兵第10旅団:徳島 歩兵第12連隊:丸亀 歩兵第62連隊:徳島 3)大正11年9月23日 軍令陸第10号  第11師団 司令部:善通寺         歩兵第22旅団:善通寺 歩兵第43連隊:善通寺 歩兵第44連隊:高知        歩兵第10旅団:徳島 歩兵第12連隊:丸亀 歩兵第62連隊:徳島 4)大正14年3月27日 軍令陸第1号  第11師団 司令部:善通寺         歩兵第22旅団:徳島 歩兵第43連隊:徳島 歩兵第44連隊:高知        歩兵第10旅団:善通寺 歩兵第12連隊:善通寺 歩兵第22連隊:松山 5)昭和15年7月10日 軍令陸乙第19号「中部軍編合竝配置表」  第55師団 司令部:善通寺         第55歩兵団司令部:善通寺         歩兵第112連隊:善通寺         歩兵第143連隊:徳島        歩兵第144連隊:高知    付け加えますと、団隊の衛戍地が移転することは特異なことではありませんでした。   ついで、団隊の衛戍地移転に関して完了できない部隊は、表規定外の衛戍地に在ることを得とされました。丸亀の場合、支那事変中から部隊を編成補充していたため、太平洋戦争中も補充業務をしていました。 7)第55師団留守部隊 特臨編第8号 「陸軍部隊調査表其一」  留守第55師団 司令部:善通寺          歩兵第112連隊補充隊:丸亀          歩兵第143連隊補充隊:徳島          歩兵第144連隊補充隊:高知 8)善通寺師管区部隊 軍令陸甲第34号 のち四国軍管区部隊    善通寺師管区司令部:善通寺               善通寺師管区歩兵第1補充隊:丸亀         善通寺師管区歩兵第2補充隊:徳島         善通寺師管区歩兵第3補充隊:高知    また、丸亀連隊区司令部は、昭和16年4月に高松連隊区司令部と改称されましたが、これも引き続き同地区から徴集業務を継続しています。             

mm058114
質問者

お礼

どうもありがとうございました

mm058114
質問者

補足

ありがとうございます。 戦史叢書の陸軍軍戦備とかからの表ですね。 つまり、司令部機能は丸亀→善通寺に移駐した。 歩兵連隊の兵舎は、大正時代から、太平洋戦争中も善通寺と丸亀に分駐してたって事ですかね。

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