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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:name と名前 は同じ発想か?)

nameと名前は同じ発想か?

このQ&Aのポイント
  • 言語学者のソシュールの言語記号の恣意性説に対する議論
  • 音素/n/が同定相と否定相の意義を持つ可能性
  • 名前という言葉の意味に関する考察

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回答No.1

「どうぞ自由なご見解をお寄せください。」 と仰っていますので、そうさせていただきます。 1.「n」:日本語でのいくつもの子守唄が「ネンネンヨ」と 「n」で始まります。「ねんねしな」も「n」ですね。イタリア語でも「ninna nanna」 ニンナ・ナンナ。他フランス語、スペイン語、ポルトガル語などロマンス語形はほぼ似たり寄ったりで、「n」で始まります。共通の音素があります。 ゲルマン系、たとえばドイツ語は「アイヤポパイヤ」(eiapopeia) とまったく違う音になります。日本語と英語の比較だけでは、例が少ないような気がいたしますが、いかがでしょうか。 2.名前と nameは同じ発想か? 英語のnameはラテン語のnomenからですね。物に「命名」する時点でおっしゃるとおり、「他のものと区別する」行為です。他の印欧語でも同類の音素ですね。分類学のnomenclatur名前をつけて他者から切り取る行為。仰るとおりだと思います。 そこで、この「n」という音素は世界共通の発想ということですか、あるいは端に英語との比較でそうであるというこのとなのでしょうか。 3.「ね」はどうでしょうか。日本語の「ね」は「稲」を交換媒体としたところから発生したものだという考えもあるようです。交換価値としての「いね」の「ね」から。numberもラテン語のnumerusからですから、直接英語との比較ではどうでしょうか。そのようにすばやくくっつけてもいいのでしょうか。漢字の「値」とは本来は関係のない語ではないと考えますが。 4.「留守」は中国語からの転用ですから、直接「日本語」として比較の対象になるのでしょうか。確かに、用法の変化としてはわかりますが、日本語との比較では少し気になりますが。 5.「ぬ」は確かに否定、打消しの助動詞と命名されていますが、これはもともと「ず」の連体形からですね。そうなると、本来の語である「ず」の位置づけはどうなるのでしょうか。「n」だけに否定や打消しの要素があり、「ず」は無関係なのでしょうか。 PS.なお、「n」の発音に関しましては、印欧語の「n」は仰るとおりですが、日本語の「n」は、必ずしも歯の裏側付近に舌がくっついて粘着質的にはならないと思います。むしろ舌の位置は下の歯茎に近くあるのではないでしょうか。まるで逆の感じですが。 おついでによろしくご教示賜ればありがたく思います。

bragelonne
質問者

お礼

 かくれきりさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ PS.なお、「n」の発音に関しましては、印欧語の「n」は仰るとおりですが、日本語の「n」は、必ずしも歯の裏側付近に舌がくっついて粘着質的にはならないと思います。むしろ舌の位置は下の歯茎に近くあるのではないでしょうか。  ☆ ここが先に目に飛び込んでまいりました。  ▲ (Wiktionary:日本語の発音表記) ~~~~~     http://ja.wiktionary.org/wiki/Wiktionary:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E7%99%BA%E9%9F%B3%E8%A1%A8%E8%A8%98  § 1 音素一覧  § 1.1 子音   ・・・ 両唇音  歯音 (歯茎音)   ____________________   ・・・        t, d   鼻音  m     n   ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まとめますと:    / n / :/ t, d / と同じように        舌先を 上の歯の裏側につけて        / t, d / なる音素にくらべると        割り合い粘っこくくっつけたかたちで        調音する。  となりませんか? 歯茎としてもよいと思っておりますし 《下の歯茎》ではないと思うのですが どうでしょう?   / t, d / なる音は 割り合いあっさりとした《くっつき》だと思われます。むしろ突き放すように調音しますから くっつかないと言ったほうがよいかも知れません。よって ちなみに / t, d / =放出相・一回性相;不定相。 ta た(誰)。to と(引用格)。  ★ 1.「n」:日本語でのいくつもの子守唄が「ネンネンヨ」・・・イタリア語でも「ninna nanna」 ニンナ・ナンナ。・・・ロマンス語形はほぼ似たり寄ったり・・・  ☆ この問題は 次のご指摘とともに きちんと調べて行く必要があると思っています。とても手が回らないというのが いまの実情です。  ちなみに・ということは 印象批評としてですが:    / n / :同定相が 自然環界に同定するなら 次を得ます。     na な(地); ni に(丹); ne ね(根・嶺); no の(野)    そこから 《平ら》の意味で次を派生したか。       na-re なれ(慣れ); nara-su ならす(均す); nara-hu ならふ(倣ふ・習ふ〔凸凹を無くす))     ne-ru ねる(寝る=横になる:イ(眠)をぬ(寝))  ★ ゲルマン系、たとえばドイツ語は「アイヤポパイヤ」(eiapopeia) とまったく違う音になります。日本語と英語の比較だけでは、例が少ないような気がいたしますが、いかがでしょうか。  ☆ 《 eiapopeia 》が 子守唄なのですね。よく知りませんでした。語例を増やすのは これからです。  ★ 2.名前と name は同じ発想か? / 英語の name はラテン語の nomen からですね。・・・  ☆ 仮説の域を出ませんが 音素の / n / で そのものを同定している。ところから来るのではないか? という発想です。   一般対象への同定: na な(名);            na-su なす(成す); na-ru なる(成る)   聴覚対象への同定: na / ne な・ね(音);            na-ru なる(鳴る); na-ku なく(鳴く・泣く)   類似としての同定: na な(ま‐な(似)‐ぶ=学ぶ);           ne ね(ま‐ね(真似)); ni-ru にる(似る)  ★ そこで、この「n」という音素は世界共通の発想ということですか、あるいは端に英語との比較でそうであるというこのとなのでしょうか。  ☆ これも まだこれからであります。  ★ 3.「ね」はどうでしょうか。日本語の「ね」は「稲」を交換媒体としたところから発生したものだという考えもあるようです。交換価値としての「いね」の「ね」から。number もラテン語の numerus からですから、直接英語との比較ではどうでしょうか。・・・  ☆ おっしゃるようにラテン語からのようです。さらには 《分ける・配る》といった意味の語から来ているそうですね。  ▼ (OnlineEtymologyDictionary: number ) ~~~~~   http://www.etymonline.com/index.php?term=number&allowed_in_frame=0  from Latin numerus "a number, quantity,"  from PIE root *nem- "to divide, distribute, allot"   (related to Greek nemein "to deal out;" see nemesis).  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ としますと 日本語での ね(値)は 別のものとの比較評量として そのあたいを互いに同定させた。一般対象の な(名)を基礎として そこで特に数量・数値を問題にした場合の同定相ではないかと。  印欧語では むしろその同じひとつのものをいくつかに分けてその部分どうしを互いにそのあたいとして同定させた。とは考えられまいか。といったところです。  つまり 《分け与える》というのは 一般に《等分する》ということであり その部分どうしが互いに同定される。・・・    ★ 4.「留守」は中国語からの転用ですから・・・  ☆ ええ。そしてこれは 意味の変化だけのお話ですから。    ★ 5.「ぬ」は確かに否定、打消しの助動詞と命名されていますが、これはもともと「ず」の連体形からですね。  ☆ これは いいえです。つまり 大野晋によりますと:  ■ (大野晋・古語辞典:ず) ~~~~~~~   ・・・打消しの助動詞には 《に・ぬ・ね》という系列があって その方が古く 後に《ず》が発達したものと思われる。  万葉集に 《行方知らにす》という形があり 意味上《行方知らず》と同じなので 古い打ち消しの《に》に《す》が結合して nisu > nzu > zu という変化によって《ず》という形が成立したらしい。  (基本助動詞解説 p.1478 )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  いちおう全体について お応えしました。保留としていることが少なからずあります。  取りあえず こんなところでしょうか。

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その他の回答 (5)

noname#214841
noname#214841
回答No.6

こんばんは。「お礼」ありがたうございました。 >>吉原源三郎 >>聞いたことがありません。 私も聞いたことがありません。 >>言語学において、この問題は解決済みです。 >>あり得ないでしょう。 回答番号4で示しました書物の100ページには、かうあります。 「一時期あれほどまでに批判された『英語語源日本語説』をもって、私が文化功労賞の栄誉を身に受けたのもそのひとつである。二年前に、私が日本言語学会の会長におされたというのもそれに類する。」 >>論証あるいはちょっとした例証 >>最低としてこれがあって欲しいと考えます。 英語と日本語が共通起源であることに対し、以下のやうな例証が挙げられてゐました。 名前 namae 汁 juice 斬る kill だるい dull 坊や boy 負う owe たぐる tug 疾苦 sick 場取る battle 凍る cold 抛る fall 述べる novel これほどまでに完璧な証明があるでせうか。タミル語起源説などより、はるかに説得力があります。バートランド・ラッセルのタイプ理論のときには、私の推薦図書をお読みにならなかつたやうですが、今回はどうなさるのでせうか。たぶん、読まないほうが賢明です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  スペインに行くと 日本語のアホとバカとが通じますね。  そうですね。  たとえば あのネ あのナアといった場合にも 子音の / n / なる音素が用いられています。   na; naa な・なあ(念押し法)   ne; nee ね・ねえ(同上)   no; noo の・のお(同上)  念押しというムード( mood =法・判断)で言い出しています。これも  / n / =同定相ゆえだという仮説が当てはまります。疑問のかたちになりますが みづからは同定した(あるいは 同定したい)ものごとを尋ねています。  あるいは / n / =同定相 から 比定(擬似同定)相 つまりたとえば ni-ru 似ルが派生すると見ていますが ここからさらに語の生成(派生)が得られます。  比定または類似というのは 言わば或るもの A と別のもの B とを実際ににしろ・イメージとしてにしろ重ねてみるわけです。瓜二つだとか そっくりだとか言う場合に 似ていると言います。同一ではないのですが 広く言って同定しています。  この場合の・或るモノを他のモノに重ねるようなかたちから 次の語が派生したのではないか。      ni 荷; nö-ru 乗る・載る; nö-se 乗せ・載せ   / r / と / s / との対比つまり 自然生成相と人為相についてもすでに提出しました。

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  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15295/33014)
回答No.5

1。  数(音の単位と意味の単位)     日本語ですと、母音がアイウエオの五つ、それにカサタナハマヤラワと濁音半濁音のガザダバパなどで、14、足して19。26あるローマ字で使わない l、q、v、x などを捨てて22。音素数は22以下でしょう。     しかし一語の説明に1ページを割いても、日本語の意義素が、22ページの辞典では物足りません。意味の単位として目安になるのは漢字ですが、今のところ下記によると常用漢字は2000字を超えています。     http://dic.nicovideo.jp/a/%E5%B8%B8%E7%94%A8%E6%BC%A2%E5%AD%97     英語も、音素数はいくらなんでも50を超えることはないでしょうが、50語の単語表が役立つとは思えません。 2。  普遍性     n に、同定あるいは否定の意味が、内在するとすれば、言葉を話すヒトなら、地球上のどこに住んでいても、同じ音に同じ意味を付加することになれば、みんな同じ言葉を話しているはずです。 3。ご質問     name と名前 は同じ発想か?      僕は#3さんと同じ意見で単なる偶然だと思います。 4。  お考えが正しければ      日本語と英語の違いがなくなる > 英語のクラスは要らない > 英語の試験もない > 英語の入試もない > 第二外国語を選ぶ必要もない      また言葉を習うには音素の数の意義素を習得すればいいので、50も単語を覚えれば世界語がペラペラになる。     と言う訳で悪いことばかりではないと思います。          

bragelonne
質問者

お礼

 SPS700さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 1。  数(音の単位と意味の単位)  ☆ このご議論は よくつかめないでいます。  あらためて ここでの仮説を・そのあらましを述べます。  (あ) 言語というものを人類が持ったとき その個々の音素は すでに発声ないし調音におけるあり方が持つ自然的な意味合いにもとづき それとして論理的な対応としての意義素をも帯びた。  (い) この音素は 語義の単純な生成として意義素を兼ねるというとき それは子音について言うものです。   / n /:同定相かつ否定相   / t, d /: 一回性としての放出相;不定相   ・濁音(有声音)は 清音の子音の言わば継続相を帯びるという想定  (う) 母音は これも語の意義を決める要因になりますが すでに子音によって決まった意義の様相を確定するものと見ます。   ・ ta 手(た)(た‐もと:手元⇒袂)       (体言の不定法とも言うべき不定の様相)   ・ ta-i > tä > te 手(て) (概念法とも言うべき概念の様相)   ・ tö と(引用格)      ( 母音の ö には 保留の様相がある。       連体法(連体形)の語尾をも担った。       保留して次の語につなぐ相。       その場合は / ウ / なる母音として承け継いだ)。  (え) それぞれの言語における音素=意義素の生成については 仮説としてたとえば/ n /:同定相かつ否定相という見方を 普遍的なあり方として想定しています。ただし それの進展・変化については 各言語に自由度があった。  (お) 子音という子音 母音という母音を ひとつの言語がすべて使うことはないものと思われます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  2。  普遍性     n に、同定あるいは否定の意味が、内在するとすれば、言葉を話すヒトなら、地球上のどこに住んでいても、同じ音に同じ意味を付加することになれば、みんな同じ言葉を話しているはずです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 言語によってまちまちです。自由度があります。  (i)一般対象への同定: na な(名);            na-su なす(成す); na-ru なる(成る)            na-ri 也。  (ii)聴覚対象への同定: na / ne な・ね(音);            na-ru なる(鳴る); na-ku なく(鳴く・泣く)            na-ri なり(《と聞いている》)  (iii)類似としての同定: na な(ま‐な(似)‐ぶ=学ぶ);           ne ね(ま‐ね(真似)); ni-ru にる(似る)  (iv)自然環界への同定: na な(地); ni に(丹);           ne ね(根・嶺); no の(野)  このように日本語は 展開しました。自然環界と言いながら 動物や植物には同定しなかったのか? これはそれこそ《恣意性》の成せるわざでしょう。あるいはその他その他いくらでも 展開の仕方には自由度があるということだと捉えます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  3。ご質問     name と名前 は同じ発想か?      僕は#3さんと同じ意見で単なる偶然だと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 前項の問題にかんがみますと 英語やドイツ語あるいは印欧語で 日本語の na =名 という語の生成がその自由度において一致した。ということであり これは ほかの言語では一致しないとすれば 《偶然》のしわざであるという見方も出来る。こう考えます。  言いかえると / n /:同定相かつ否定相なる子音の――語の生成に当たっての――活用の仕方が 言語によってまちまちなのだと捉えます。  したがいまして:  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  4。  お考えが正しければ      日本語と英語の違いがなくなる > 英語のクラスは要らない > 英語の試験もない > 英語の入試もない > 第二外国語を選ぶ必要もない  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というたのしそうなことですが には ならないと考えます。  ★  また言葉を習うには音素の数の意義素を習得すればいいので、50も単語を覚えれば世界語がペラペラになる。  ☆ ええ。おおげさに言えば そのようなたのしみを持った仮説です。でも すでにその点につきやり取りをして来ていますが なにぶん手が回らないと言いますか まづは仮説の発端について捉えようとした。というのが 実情です。  仮説――すなわち 子音の音素=意義素なる音韻論からの語の生成全般にわたる言語理論〔へと発展させるべきもの〕――について いまひとつ事例を添えます。  ○ na 名 → na-su 名‐す⇒成す / na-ru 名‐る⇒成る  ○  / s / :指定相・肯定相 // 再言・起動・人為・使役相  ○  / r / :自然想定相・自然生成相(自発相)  / s / なる子音は 歯を閉じ舌先をその閉じたところに置いたかたちで わづかの隙間に息の音をとおす。この吐き出す息がいくらかは継続するそのぶん ものをしっかりと指し示す意味合いがあるのではないか。人為・作為の相にも成ると考えられます。  / r / ―― / l / もほぼ同様に見ていますが・そして世界にはいろんなこの流音があるようですが――なる子音は もし流動性を帯びるとすれば それは 何にでもその代理を成すという性格があるのではないか。他の子音のそれぞれに対して代理と成る。そのかぎりで 自然生成の相を持つと想定される。    そういう意味では 日本語ないしアルタイ語族と言われた諸言語では このラ行の子音は 語頭に立たない。代理としての音素が先に来ることはないから。  もちろん 言語ごとにまちまちだと考えます。  言いかえると 日本語は ほかの言語にくらべると ヒトが言葉を用いるようになったとき《子音の音素が意義素を帯びた》というその始原のすがたを いまにまでよく保っているのではないかと思われます。  音節を 一子音+一母音( CV )でつくることも 原初のすがたなのではないかと空想されます。  ・・・

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noname#214841
noname#214841
回答No.4

言語学において、この問題は解決済みです。下記の書物をお読みください。 清水義範『蕎麦ときしめん』講談社文庫 87ページ この書物で、吉原源三郎氏の『英語語源日本語説』が紹介されてゐます。まちがひなく、同一の言葉です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 吉原源三郎  ☆ 聞いたことがありません。むろん無知であったということがあり得ますが まづにわかには信用なりません。よほどあたらしい人であるとかでないと 聞いているはずですから。  ★ 言語学において、この問題は解決済みです。  ☆ あり得ないでしょう。  論証あるいはちょっとした例証 最低としてこれがあって欲しいと考えます。どうでしょう。

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回答No.3

単なる偶然です。。。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。ここは おしとやかに まだ保留したことがらがいくらでもありますと言ってつつましやかにお応えするところではないのでしょうね。  ご回答をありがとうございます。  そうですね。  / n /:舌先が上の歯茎の裏側に当たって ある程度ねちっこくくっつくかたちで調音する。ゆえに 音素がそのまま意義素の役目を帯びて ものを同定する相をになう。また ちょうどその対極の否定相をも同じくになう。  No.1でのやり取りですでに次の例証を提出しています。   一般対象への同定: na な(名);            na-su なす(成す); na-ru なる(成る)            na-ri 也。   聴覚対象への同定: na / ne な・ね(音);            na-ru なる(鳴る); na-ku なく(鳴く・泣く)            na-ri なり(《と聞いている》)   類似としての同定: na な(ま‐な(似)‐ぶ=学ぶ);           ne ね(ま‐ね(真似)); ni-ru にる(似る)   自然環界への同定: na な(地); ni に(丹);           ne ね(根・嶺); no の(野)       ・そこから 《平ら》の意味で次を派生したか。            na-re なれ(慣れ); nara-su ならす(均す);          nara-hu ならふ(倣ふ・習ふ〔凸凹を無くす))          ne-ru ねる(寝る=横になる:イ(眠)をぬ(寝))    ☆ ところで 英文との対照をかがけます。   / n /: 同定相と否定相の交じった意義素として 《完了相》を挙げる。   / t, d /: 放出の相から 不定相をみちびく。そのような意味合いでやはり《完了相》を派生すると見る。  両者のちがいは 日本語の補充用言(助動詞)の ヌとツとの違いにすでにあらかじめかんがみるかたちになりますが ヌなる完了相は いくぶんか完了したあとの状態への同定が入っているかも知れない。その意味では 必ずしも人為的・作為的な動作にはなじまない。自然史的な過程として捉える。  ・ 夏は来ヌ。  言いかえると ツの / t, d / なる音素が一回性の相を持ってのように放出の相としてそのあと不定相をみちびいたとすれば ぎゃくに人為的・作為的な動作に使われる。  ・ ~~~~~~~~~~~~~~~  http://kobun.weblio.jp/content/%E3%81%A4  竹取物語 かぐや姫の生ひ立ち    「秋田、なよ竹のかぐや姫とつけツ」  [訳] 秋田は、(かぐや姫に)なよ竹のかぐや姫と(いう名前を)付けた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  と見た上でですが 英文でもこの / n / と / t, d /のそれぞれ完了相を用いているとおぼしき語例があります。  ・ go --- went ---- gone  ・ do --- did ---- done  ・ see --- saw --- seen  ・ show---showed---showed / shown  ・ take--- took ---taken  ・ make ---made---made  取りあえず この種の例を提出します。どうでしょう?  完了(過去)分詞は 受け身の相を帯びるので 自然相の / n / のほうが似つかわしい。    

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回答No.2

否定、打消しの助動詞「ぬ」についての大野晋の考えのご紹介、有難うございます。私は逆だとばかり思っていました。 なお、「n」については、母音をつけない単独の「ん」のことなのかと、私が勘違いしておりました。な、に、ぬ、ね、のとなると、仰るとおり上の歯の裏側あたりに舌端がきて、粘着的になりますね。謝謝。

bragelonne
質問者

お礼

 ありがとうございます。  保留を別とすれば だいたい共通の理解に立てたでしょうか。  さらに何かありましたら いつでも言って来てください。展開を見守っていてください。

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     1. / n / という音素に注目します。しかもこれに《同定相》という意義素を想定してみます。  2. 《そのものを同定する》から 日本語《 n-a 》あるいは 英語《 n-ame 》は 《名》という語義を帯びる。  3. 《数量の同定》として 《 n-e =値》あるいは 《 n-umber =数》であると。  4. 同定相が 同時にみづからの対極の《否定相》の意義をも帯びるという見方を提出します。  或るもの( A )の同定は そのものでないもの(非A)を規定することにもなるとき 仮りにその非 A をまちがって同定してしまうことになった場合 そのかぎりで元の A については 《否定》の相を帯びさせます。  これは非合理的ですが 言語の変化としてありうることです。《留守》は 外へ出かける人( A )の代わりに家にいて守る人( B )を言ったものですが そうではなく非合理的に意味が変化を受け 《外へ出かけた状態のこと(つまり≒非 B つまり元に戻って≒ A )》を言うように変化しました。かくして A を否定する意義をも持ちます。  すなわち 音素 / n / は 同定相のほかに《否定相》をも帯びた。  《 na な》:否定命令=禁止法。《 nu ぬ》=否定(打ち消し)法。および 英語《 no ・ not 》といった否定辞に現われます。  どうぞ自由なご見解をお寄せください。

  • ソシュールの《言語記号の恣意性》説は成り立たない

     ソシュールの言語記号の恣意性という仮説について すでに何度も問い求めて来ていますが それは成り立たないことを例証します。それについて問うて さらなるよい問い求めが出来たらと思います。  (1) 音素が意義素でもある。というかたちで シニフィアン(しるし)とシニフィエ(意味)とのあいだに《自然で論理的な絆が ないのではなく ある》ということを例証し 恣意性が支配しているとは見られないことを明らかにします。  (2) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ  といった三つの語における特には子音としての音素(すなわち / n / および / g / )にそれとしての意義素があるという仮説を提出します。  (3) すなわち まづ語義としての類似性は こうです。:   《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。   《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。   《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。   そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・消滅する というシニフィエとなっている。  (4) と見て さっそく仮説を推し出します。    音素 / n / :《否定相》という意義素を帯びる    音素 / g / :《過程の相・移行の相》という意義素がある  すなわち  いま母音は措いておいて / nVgV /という形態素として考えて行きます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。  すなわち  / nV / なる形態素(ナならナ)は 《否定相》のもとに捉えられたモノを表わすと仮説され / gV /という形態素(グだとかギだとか)は その《ナというものが移行する》という意義を示そうとしていると仮説します。  (5) どうでしょう?  / na / が決してそのままでは 《草木や波風や胸騒ぎ》のことを指し示すという意味ではありません。そのナを用いて自己表現する話し手が 《否定し消滅して欲しいもの》として 具体的にそれら三つに絞って当てはめた。  / gi / では その否定を受けての移行や消滅の過程を 語義として指し示す恰好である。  (6) すなわちこれは 子音の / n / や / g / が同じというかたちでシニフィアン(≒音素)が同じ語であるなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。   / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意味を帯びて 共通であるという例です。  ちなみにこのとき ソシュール(もしくは丸山圭三郎)の仮説では ここで言えば子音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く ただナ行やガ行の子音として互いに差があることによってのみすなわち恣意的にその音韻が / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語として成ったに過ぎないと言っています。  言いかえると このささやかな例証では  / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》とのあいだに 自然でかつ論理的なきづなが見出されるという説です。  (7) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。  けれども ここでも  / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニフィエ(≒意味)が見られます。やはり 《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共通です。ソシュール≒丸山の説では そんなことはあり得ないというものです。   nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)   naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)   naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く)    naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)  (8) さらに語例を伸ばしましょう。  《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義素が潜んでいるという語例です。そして この場合は 《恣意性》を否定するというのではなく いわゆる《有縁性》として 音素と意義素とのあいだにつながりがある〔だけだ〕と見られても仕方がない語例ではあります。   nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)   nago-mu   和む     (障害が消滅していく)   nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)   negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)   nega-u   願う      (障害の消滅を希求)  つまり みんな / nagi / なぎ =和ぎ という語と縁のある意味をもった語です。ここでは 母音が交替していますね。であっても  / nVgV /という語の形態には変わりなく しかも語義には 類似性が見られます。  どうでしょう。言語記号の恣意性なる仮説によれば こんな現象はあり得ないことになります。    (9) ちなみにその仮説によれば 例外なる事態は 次のようだと言います。  (あ) オノマトペつまり擬音語や擬態語では 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのあいだにつながり(きづな)があると言います。   ・ 郭公は その / k / の音素をじっさいの鳴き声に合わせてどの言語でもというほどに同じ音素から成る語として持たれているようです。      ・ 日本語で 光がピカッとかがやくという様態に合わせて ひかり・光るという語が得られています。  (い) あるいは例外としては いわゆる派生語の場合が挙げられます。これは 同じひとつの語根から派生するのであるからには 当然だと考えられます。  つまりさきほどの:   nagi 和ぎ   nago-ya-ka 和やか      nago-mu   和む  これらは じつは派生語として / nVgV / なるシニフィアンに同じ共通のシニフィエがあっても 恣意性の説の反証にはなりません。有縁性の場合です。(ナグサメ=慰めも 派生語であるかも知れませんね)。  といった考察は すでに成されています。  (10) 派生語ではだめなので さらにさらに語例を増やします。ここで子音の清濁の違いにかかわらず 同じ意義素を帯びると仮説します。すなわち / g / = / k /:《過程相・移行相》です。  nuku / nuke-ru 抜く/抜ける      (障害・邪魔の除去・離脱)  noku / noke-ru 退く/除ける     (障害・邪魔の離脱。除去)  nugu / nuge-ru 脱ぐ/脱げる      (同上)  nugu-u / nogo-u 拭う         (同上)  nige-ru / niga-su 逃げる/逃がす   (同上)  noga-su / noga-reru 逃す/逃れる    (同上)    (ただし ここまで来ると 障害や邪魔は 離脱する者のほう    ではなく対立する相手の側に 設定されている。)  noko-ru / noko-su 残る/残す      (同上)    (ただし 上の補注と同じように 視点の移動が見られる。    消滅したもの・除去されたもの〔Aとする〕のほうではなく     以前の状態のままに留まったもの〔Aの否定=非A〕のほうに    焦点が移ってしまった。  (11) おぎなうべき議論の一端として:    音素・・・・=・・・・意義素    _______________   / n /  = 同定相・否定相   / g /  = 反出相;反定相・疑問相・変化相  といった仮説を前提としています。  いま   / n /=否定相 + / g / =変化相(変化ゆえ 過程相・移行相)  といった複合によって   / nVgV / なる音韻(シニフィアン)      =《障害の除去・邪魔の消滅》なる意義(シニフィエ)  といったじっさいの語例が作られているという見方を 例証(反証)として提出しました。  (12) ただしここで 否定相の子音 / n / が 薙ぎにおいてはなぜ《伐採すべき草や木》を内容とする《障害・邪魔》として認定したか? それは 分かりません。それは 恣意的に決められたとしか言いようがありません。  つまり 凪ぎや和ぎにおいてはそれぞれ《波風》や《心の不安》を 何故ほかにも数ある障害や邪魔の中からえらんだのか? それは 分かりません。  (13) うえの(11)における 音素=意義素 の仮説は その意義素がなぜ現われるのか。これについては 長くなるので割愛します。  次の書き込みなどを参照してください。  【Q:ソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である。】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8508948.html  その回答No.1のお礼欄などです。

  • ソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である。

     ソシュールの《言語記号の恣意性》説については まだ或る程度の《定説性》が残っています。これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。  まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。   / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じ語であるなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。  すなわち この / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意味を帯びて 共通であるという例です。  (1) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ   すなわち    《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。   《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。   《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。   そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・消滅する というシニフィエとなっている。   ちなみにここで例証の中身を示すならば ソシュール・といより丸山圭三郎の仮説では ここで言えば子音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く 恣意的に / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語として成ったと言っています。   / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》とのあいだに 何ら自然でかつ論理的なきづなは無いという説です。  (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。  けれども ここでも  / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニフィエ(≒意味)が見られます。《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共通です。ソシュール≒丸山の説では そんなことはあり得ないというものです。   nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)   naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)   naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く)    naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)  さらに語例を伸ばします。  (3) 《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義素が潜んでいるという語例です。   nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)   nago-mu   和む     (障害が消滅していく)   nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)   negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)   nega-u   願う      (障害の消滅を希求)    *  どうでしょう。言語記号の恣意性なる仮説によれば こんな現象はあり得ないことになります。    ちなみにその仮説によれば 例外なる事態は 次のようだと言います。  オノマトペつまり擬音語や擬態語では 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのあいだにつながり(きづな)があると言います。  郭公は その / k / の音素を鳴き声に合わせてどの言語でもというほどに同じ音素から成る語として持たれているようです。    日本語で 光がピカッとかがやくという様態に合わせて ひかり・光るという語が得られています。  あるいは例外としては いわゆる派生語の場合が挙げられます。これは 同じひとつの語根から派生するのであるからには 当然だと考えられます。  つまり   nagi 和ぎ   nago-ya-ka 和やか      nago-mu   和む  これらは じつは派生語として / nVgV / なるシニフィアンに同じ共通のシニフィエがあっても 恣意性の説の反証にはなりません。という考察は すでに成されています。  (ナグサメ=慰めも 派生語であるかも知れませんね)。  例外を別とすれば じんるいが言語を獲得したのは その語彙の全体を――その時点で―― 一気に得たのだと言います。個々の語は互いにその語としての差異によってのみ 関係しあいつつ 使い分けされているというものです。(語としてというのは 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》とが一体となったそれぞれの語としてです)。  あとで造語される語を別として 或る時点で語彙の全体を ひとつの体系として 得ることになったのだと説いています。  そうであるにせよ無いにせよ 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》として成る語には その関係性(つまり ∽ として示したそのつながり方)が 自然で論理的なきづなを持つと例証によれば考えられます。  さらにくわしい議論をおぎなわなければならないのですが こういった問題が ソシュール≒丸山圭三郎の理論にはあると言ってよいと考えます。  * おぎなうべき議論の一端として:    音素・・・・=・・・・意義素    _______________   / n /  = 同定相・否定相   / g /  = 反出相;反定相・疑問相・変化相  といった仮説を前提としています。  いま   / n /=否定相 + / g / =変化相(変化ゆえ 過程相・移行相)  といった複合によって   / nVgV /なる音韻(シニフィアン)     =《障害の除去・邪魔の消滅》なる意義(シニフィエ)  といったじっさいの語例が作られているという見方を 例証(反証)として提出しました。  ただしここで 否定相の子音 / n / が 薙ぎにおいてはなぜ《伐採すべき草や木》を内容とする《障害・邪魔》として認定したか? それは 分かりません。それは 恣意的に決められたとしか言いようがありません。  つまり 凪ぎや和ぎにおいてはそれぞれ《波風》や《心の不安》を 何故ほかにも数ある障害や邪魔の中からえらんだのか? それは 分かりません。  * すでに問うたことがあります。けれども ジョウシキが間違っているなら 何度でも問うべきかと考えます。

  • ソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である。

     ソシュールの《言語記号の恣意性》については まだ或る程度の《定説性》が残っていますが これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。  まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。   / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。  すなわり この / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意味を帯びて 共通であるという例です。  (1) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ   すなわち 《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。   《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。   《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。   そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・消滅する というシニフィエとなっている。   ちなみにここで例証の中身を示すならば ソシュール(ないし丸山圭三郎)の仮説では ここで言えば子音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く 恣意的に / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語として成ったと言っています。   / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》とのあいだに 何ら自然でかつ論理的なきづなは無いという説なのです。  (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。けれども ここでも  / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニフィエ(≒意味)が見られます。《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共通です。ソシュールの説では そんなことはあり得ないというものです。   nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)   naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)   naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く)    naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)  さらに語例を伸ばします。  (3) 《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義素が潜んでいるという語例です。   nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)   nago-mu   和む     (障害が消滅していく)   nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)   negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)   nega-u   願う      (障害の消滅を希求)    *  どうでしょう。言語記号の恣意性なる仮説によれば こんな現象はあり得ないことになります。    ちなみにその仮説によれば 例外なる事態は 次のようだと言います。  オノマトペつまり擬音語や擬態語では 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのあいだにつながり(きづな)があると言います。  郭公は その / k / の音素を鳴き声に合わせてどの言語でもというほどに同じ音素から成る語として持たれているようです。    日本語で 光がピカッとかがやくという様態に合わせて ひかり・光るという語が得られています。  あるいは例外としては いわゆる派生語の場合が挙げられます。これは 同じひとつの語根から派生するのであるからには 当然だと考えられます。  つまり   nagi 和ぎ   nago-ya-ka 和やか      nago-mu   和む  これらは じつは派生語として / nVgV / なるシニフィアンに同じ共通のシニフィエがあっても 恣意性の説の反証にはなりません。という考察は すでに成されています。  (ナグサメ=慰めも 派生語であるかも知れませんね)。  例外を別とすれば じんるいが言語を獲得したのは その語彙の全体を――その時点で―― 一気に得たのだと言います。個々の語は互いにその語としての差異によってのみ 関係しあいつつ 使い分けされているというものです。(語としてというのは 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》とが一体となったそれぞれの語としてです)。  あとで造語される語を別として 或る時点で語彙の全体を ひとつの体系として 得ることになったのだと説いています。  そうであるにせよ無いにせよ 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》として成る語には その関係性(つまり ∽ として示したそのつながり方)が 自然で論理的なきづなを持つと例証によれば考えられます。  さらにくわしい議論をおぎなわなければならないのですが こういった問題が ソシュール≒丸山圭三郎の理論にはあると言ってよいと考えます。  * おぎなうべき議論の一端として:    音素・・・・=・・・・意義素    _______________   / n /  = 同定相・否定相   / g /  = 反出相;反定相・疑問相・変化相  といった仮説を前提としています。  いま   / n /=否定相 + / g / =変化相(変化ゆえ 過程相・移行相)  といった複合によって   / nVgV /なる音韻(シニフィアン)     =《障害の除去・邪魔の消滅》なる意義(シニフィエ)  といったじっさいの語例が作られているという見方を 例証(反証)として提出しました。  ただしここで 否定相の子音 / n / が 薙ぎにおいてはなぜ《伐採すべき草や木》を内容とする《障害・邪魔》として認定したか? それは 分かりません。恣意的に決められたとしか言いようがありません。  つまり 凪ぎや和ぎにおいてはそれぞれ《波風》や《心の不安》を 何故ほかにも数ある障害や邪魔の中からえらんだのか? それは 分かりません。    * すでに問うたことがあります。けれども ジョウシキが間違っているなら 何度でも問うべきかと考えます。  【Q:《言語記号の恣意性》は 神話である。】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5664705.html

  • 音素と単音について

    音素と単音についてわかりやすく具体例を入れながら教えてください。 音素とは 音韻論で、任意の個別言語において意味の区別(弁別)に用いられる最小の音の単位を指す。音声学の最小の音声単位である単音とは異なり、実際的な音ではなく、言語話者の心理的な印象で決められる。 単音とは 音声学上の概念で、発音の仕方や音響的な特徴から同定される音声の単位である と書かれていますが、おバカな私は意味がわかりません。

  • 漸化式(階差数列使用)

    a_1=3 、a_n+1=3a_n -4で定義される一般項a_nを求めよで、 辺辺引いたりしてa_n+1-a_n=3(a_n -a_n-1) (n≧2) a_n+1 -a_n=b_nでb_n=3b_n-1 (n≧2)また、b_1=2よって {b_n}は初項2 公比3の等比数列であるからb_n=2・3^n-1(n≧1)ここまではわかるのですが、ここ以降何をしてるのかよくわかりません。 先を見ると ゆえに、n≧2のとき a_n=a_1+Σ(k=1~n-1)2・3^k-1=3^n-1 +2 となっています・・・・ここの詳しい解説をしてもらえないでしょうか

  • 方程式

    ○自然数Nの十位、一位をそれぞれa,bとする。このとき(N^2)の十位,一位とNの十位、一の位が一致するものを求める。 (Nは2けたとします) NとN^2の下2桁が一致することが条件はわかるのですが。 Nをどのように定めるのかわかりません。 しかし、はっきりいうと全然わかりません。 基礎がまったくわからないです。 いろいろと解き方を調べたのですが参考にするのが少ないため。 初心者に教える方法で教えてもらたら嬉しいです。 お願いします

  • 平面のベクトル方程式でわからないことが。。。。

    平面のベクトル方程式でわからないことが。。。。 3点A(1,-1,0)B(3,1,2)C(3,3,0)を通る平面の方程式を求めよ という問題で、求める法線ベクトルをnベクトル=(a,b,c)とすると、 nベクトルとABベクトルは垂直だからnベクトル×ABベクトル=0 ゆえに2a+2b+2c=0(1) nベクトルとACベクトルも垂直であるから nベクトル×ACベクトル=0ゆえに 2a+4b=0・・・(2) (1)と(2)よりnベクトル=b(-2,1,1) nベクトルは0ベクトルではない。ゆえにb=0ではない ゆえに求める平面は点A(1.-1,0)を通りnベクトル(-2,1,1)に垂直は平面であるので 2x-y-z-3=0である。 という解説があったのですが、 [(1)と(2)よりnベクトル=b(-2,1,1) nベクトルは0ベクトルではない。ゆえにb=0ではない ゆえに求める平面は点A(1.-1,0)を通りnベクトル(-2,1,1)に垂直は平面である。] の部分がわかりません。 まず、 「(1)と(2)よりnベクトル=b(-2,1,1)」という式は理解できます。 「nベクトルは0ベクトルではない。ゆえにb=0ではない」・・・これもわかります。 「ゆえに求める平面は点A(1.-1,0)を通りnベクトル(-2,1,1)に垂直は平面である。]・・・ これが理解できません。nベクトル=b(-2,1,1)なのに、なんでbが消えているんでようか? それと「ゆえに」とありますが、前文の「nベクトルは0ベクトルではない。ゆえにb=0ではない」 とこのことは関係があるのでしょうか? もしかして、「3点A,B,Cが一直線上にあるときACベクトル=KABベクトルとなる実数Kがある」 という基本事項がありますが、nベクトル=b(-2,1,1)もその形なので、(-2,1,1)と垂直といえるってことですか?そのために、bが0だとこの式が成り立たないので、b=0ではないってことを いっているんでしょうか?

  • ハノイの塔

    次のc言語で書かれたハノイの塔のプログラムをZ80で動作させたいのですが、アセンブルするとどうなるのでしょうか??教えてください。 void move(char n,char a,char b){ if(n>1)move(n-1,a,6-a-b); if(n>1)move(n-1,6-a-b,b); } int main(){ char n=5; move(n,1,2); }

  • 2次方程式で根号内が完全平方

    2次方程式の解の公式で、根号内が完全平方でn>0としてn^2とおける理由がわからないので質問します。 4けたの整数で、その下2けたの数と上2けたの数との和の平方と等しくなるものを求めよ。という問題があって、 4けたの整数の上2けたの整数をA,下2けたの整数をBとすると、4けたの整数は 100A+Bとかけるから、題意によって次の方程式が得られる。100A+B=(A+B)^2 展開してAについて整理すると A^2-2(50-B)A+(B^2-B)=0 Aについて解けば、 A=50-B±√{(50-B)^2-(B^2-B)}=50-B±√(50^2-99B)・・・(1) Aは整数だから根号内は完全平方で、ここからがわからないところです。これをn^2(n>0)と置けば、・・・自分はn^2=±nだから(n>0)となる理由がわからないのです。B≧0,√n^2=|n|,Aについての2次方程式に対して、解と係数の関係など試してみたのですが、(n>0)とする理由、n≦0を除ける理由がわかりません。どなたかn>0とできる理由を教えてください。 解答のつづきは、n^2=50^2-99Bより 99B=50^2-n^2・・・(2) ∴ 3^2*11*B=(50+n)(50-n)ゆえに右辺は11の倍数となり 50+n,50-nの一方は11の倍数になる。50+nが11の倍数で、55,66,・・・,99のときのnの値をあげ、50-nが11の倍数で、44,33,22,11のときのnの値をあげ、(2)や(1)に代入し適当な整数になるものを選びます。答えは2025,3025,9801です。

このQ&Aのポイント
  • ThinkCentre M73 -Type1080のディスプレイにEIZO CS2410を接続する方法について教えてください。
  • EIZO FlexScanL567から画面が波打ち、上下が白くなってきたため、買い替えを検討しています。同じEIZOのCS2410を購入したいと考えていますが、推奨解像度が異なるため、問題なく使用できるかどうか知りたいです。
  • ThinkCentre M73 -Type1080にはDisplayPortが付いているため、CS2410を接続することは可能です。ただし、L567とCS2410の解像度に差があるため、何か設定変更が必要かもしれません。具体的な設定方法について教えてください。
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