《虚数》という想像力の世界に現実はあるか

このQ&Aのポイント
  • 「虚数」とは、想像力の世界のことであり、現実とは異なる存在です。
  • 実数の意志決定は明確な選択肢がありますが、虚数の場合は未確定であることが特徴です。
  • 人間自己表現の文体は、自己同一性の自乗として限りなく続く過程であり、虚数のような想像力を含んでいます。
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《虚数》という想像力の世界に現実はあるか

 1. まづ タトエと推測とによって成り立たせようとするお話です。というのが 前提です。  趣旨説明を述べます。  2. まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。  3. たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。  4. ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?    5. たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況はすでに相手から答えを求められ決断を迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。  6. つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( b i )とで構成される複素数( a + b i )としての実態である。ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか?  7. いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう?    8. いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけている。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心が敵対心にまで広がっているかも分かりません。  9. もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると見ます。  10. 言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。   11. 《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として一である。と同時に ときには多少とも道草を食いつつまたそこから脱線をもしつつ 元の一に立ち戻って生きる。  12. ところが 現実は 複素数である。かも知れない。  13. 虚数の動きが 外から心に忍び込んで来るゆえなのか自分から何を思ったか紡ぎ始めるゆえなのかどうなのか 起きて来る。  14. おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。  15. 自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明も できない。できなくなる。  16. 代わりに ひょっとするとその虚数なる想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭をつむぎその時空間の中にあそぶというかのような虚構を生きるということかも知れない。    17. もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数が消えてゼロになり 虚数のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?    18. 《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一( -1 )となる。  19. これでは 社会における交通(マジハリ)が成らない。成し得ない。    20. という憶測としての発見を得ました。  いづれの論点についてでもよいですから ご教授ください。  21. おまけもしくは余分: 悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか?    22. 余計でした。つまり《さとり》についての満ち溢れるゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるからのように。  余分と思っていないからなのですが 述べました。ご教示ください。

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  • Tefu_Tefu
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回答No.5

こんばんは ブラジェロンヌさんの豊富な知識による丁寧なご回答に感謝します。 私は子供の頃から小動物が好きで飼ったことがあるのですが 可愛がりすぎると亡くなった時のショックが大きすぎるので 今は飼っていません。 昆虫や爬虫類はあまり良い気持ちがしないので 飼いません。 植物は人間の手のかけ方で立派になるので 好きですね。 私は第六感を信じているのかもしれません。 何故なら もう一歩踏み出していれば水難や 事故で死んでいたかもしれないと云うことが 多々あります。自己愛の決断で助かったと考えています。 死にそうな病気や 後遺症が残りそうな病気になった時も 廻りの人間からは仮病だと言われたのですが。自己愛の決断で助かりました。 ヤバそうな新興宗教の勧誘の時も 何日か前の日に聖霊が現われて予告したので 私だけは逃れることができました。これも 自己愛の決断です。 植物は 私が健康な時はよく繁り 体調がすぐれない時はどんなに世話をしても 枯れるのですよ。不思議です。 私は日々の全ての世界や生き物に対する慈愛のおかげだと信じています。世界や生命は繋がっているのかもしれません。 ただし 他人は決して助けることができないのです。 珠に 健康でも影のある人間を感じるのですが 若いにも関わらず10年ぐらいで 病気や災害等でどうしても亡くなるようなのです。 本人に話しても救えないので 誰にも話さないで気にしないことにしています。 死後の極楽浄土は夢があるお話なので 好きなだけです。(笑) 人間はトラウマにならないようにして 気にしないで気楽に生きて行く方がいいですよね。 哲学はよい勉強になります。 余分ですが ムラカミハルキさんは精神に疾患がある人達をどうしたいのですか?

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 余分ですが ムラカミハルキさんは精神に疾患がある人達をどうしたいのですか?  ☆ 疾患があるとまでわたしは言いませんが たとえばウツ気味であったりする人たちに対して けっきょくそれでいいんだよと言っている・そのようにどこまでも言って行くという方針なのだと思います。  てふ_てふさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  モヤモヤ・ワールドでいいんだよと声をかけつづけている。のだと思います。  たしかにわたし自身も ウツ気味になったりする内向性の人びとは 一般に良心的な人間なのだと思います。けっきょくは ひとりの人間という存在〔だけ〕に 問題や原因をもとめるのは マチガイだとも考えています。  ヒキコモリもニートも 社会の情況に原因するお休み状態であり むしろ未来社会を問い求めようとする息吹きであり ただわづかに今は ネガ(陰画)のかたちに成りがちなのだ。こう考えます。やがて ポジになるはずだと思っています。  けれども 虚数にも似た想像の理念を神としてよしとすることには 賛成できません。  または 現実と想像世界とをひっくり返したように(あるいは リバーシブルの服を確かに裏返したように)単純に虚構の世界にこそ現実があるのだと思ってしまうのは――お休みとしてしばらくはあり得ても―― やはりすこやかではないと考えます。  現実が現実であるとはっきりきちんと認識することは 大事だと思っています。  つまりムラカミハルキは 自分がその足踏みしているようでいてむしろ現実を確かにあゆんでいるのだと主張できると思っている小説なる虚構世界を さらになおも編んで行く・つむいで行くから そのたとえモヤモヤワールドであっても いつもの良心的な生き方を忘れないように。と言っているのでしょう。  ですから わたしなら 資本主義なる生き方を余儀なくされる資本主義社会にあっては 満員電車で急停止したかのように・そしてそれが この場合にはむしろ発進しているかのようにお隣りから別のお隣へと申し合わせるように同じようなスタイルで行動せざるを得なくなっている。そのようにしてどこまでもどこまでも突っ走りつづけるかのように 誰もが生活せざるを得ないのだ。とまでは言って行くし そのような認識をさらに皆で確かめ深めまた軌道修正して行こうと言います。  いいタトエではありませんが 皆がツナミをかぶっているのだ・そこで歴史を過去から未来へと見通して おのれを日から日へ推してのようにあるきつづけるのだと。ツナミを避けて離れて行く想像世界に神を見てはダメだと。現実をにらみつづけるところに あたらしい社会のあり方が見出されて行くであろうと。  この毎日のあゆみを共有することさえ出来ると思いますが だからと言って確かにきづなが どこまでも頼れるかと言えば むつかしいところがある。  ★ ただし 他人は決して助けることができないのです。  ☆ という見方も成り立つようであります。お休みの必要な場合もあるようです。  すべては   ★ 自己愛〔とそ〕の決断  ☆ が現実であると言いうるとわたしも思います。神はえこひいきをするとさえ思われます。  ★ 人間はトラウマにならないようにして 気にしないで気楽に生きて行く方がいいですよね。  ☆ トラウマという用語を死語にしたいと思います。精神分析というのは むしろ勝手に病気をつくっているとさえ考えられます。

bragelonne
質問者

補足

 《回答を評価する》の人気で BA にえらぶことにしました。  

その他の回答 (6)

  • Tefu_Tefu
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回答No.7

こんばんは ブラジュロンヌさん 丁寧なご説明に賛同できたのですが。 私は 複素数 ねむ猫さん説明してくださると思っていました。当たりましたよ。 しかも 鏡の説明も予想していました。でも 主観から観察すると 全ては自分の認識の投影という説明はなかっったです。 複素数は難解だけれども この世界は (有ると無い)の二進数で成り立っていると考えると (1,0)だけが現実で 後は虚像とも言えますね。(笑) だから 虚数の方が現実に近いのかもしれない。 もう一つ  >すべては   ★ 自己愛〔とそ〕の決断  ☆ が現実であると言いうるとわたしも思います。神はえこひいきをするとさえ思われます。 これは 私の神の説明でして ブラジュロンヌさんの「非思考の庭」にえこひいきは無いはずですし 他の人々の信仰にもえこひいきは無いでしょう。 だから 神を比べて俺の神が偉いとは いただけません。神ではなく 人間の主観による えこひいきだと思います。 色々役にたちました。ありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 てふ_てふさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 私は 複素数 ねむ猫さん説明してくださると思っていました。当たりましたよ。  ☆ ごらんのとおりに相いなりました。  ★ しかも 鏡の説明も予想していました。でも 主観から観察すると 全ては自分の認識の投影という説明はなかっったです。  ☆ なるほど。《自分の認識の投影》が どこかに(あたまの中ででしょうか)鏡としてのように映る。そして しばしばこの鏡は誰か相手の心である場合もあるようですね。その相手は ミラー・ニューロン現象として鏡となっている。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  複素数は難解だけれども この世界は (有ると無い)の二進数で成り立っていると考えると (1,0)だけが現実で 後は虚像とも言えますね。(笑)  だから 虚数の方が現実に近いのかもしれない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ううーん。これも わたしにはわかりかねます。ねこさんに解説してもらわねば。  この前身の質問では 次のようにも――タトエとしてですが――捉えていましたよ じつは。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~  虚数単位iは《へそ曲がり》なんです。  この《へそ曲がりの愛(i)》は、反時計回りに90°回転させる作用を持っています。  一度の《へそ曲がり》は潜在化の過程、さらに《へそを曲げる》と顕在化する。   1×i = i : (へそ曲がりの)潜在化の過程   i×i = -1 : (へそ曲がりの)顕在化の過程  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このあたりの解説にちなんでですが:  ☆☆ あらためて 虚数のイメージとしてですが ・・・《90°の回転》は 謂わば X 軸上の一点から想像のつばさを広げたかのように上空を飛んでいるというイメージなのです。   ☆☆ イメージが湧かないと捉えどころがなくて 進めないのですから 苦肉の策です。類推だけです。90°から180°への移行が 自乗のかたちになるのかなと。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~   >すべては    ★ 自己愛〔とそ〕の決断   ☆ が現実であると言いうるとわたしも思います。神はえこひいきをするとさえ思われます。  これは 私の神の説明でして ブラジュロンヌさんの「非思考の庭」にえこひいきは無いはずですし 他の人々の信仰にもえこひいきは無いでしょう。  だから 神を比べて俺の神が偉いとは いただけません。神ではなく 人間の主観による えこひいきだと思います。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですか。これは これは 一本取られたようです。  ただ ほんの少しただ 《風は気ままに吹く》という見方もあるにはある。こうは思いますがどうでしょう。  この質問は タトエのあり方の問題も ありそうでしたね。もう少しひらいていましょう。

回答No.6

数学を知る理系人としましては、数学的な知識が邪魔をして、空想の羽を自由に伸ばせない・・・。 困った、困った。 それでも、無理やり、空想の翼を自由に広げることにしますか。 実数 real number 虚数 imaginary number それで、imaginary numberの語源となったnombre imaginaireという言葉を作ったのが、 「Cogito ergo sum」という言葉で有名なデカルト。 いやいや、何処にでも姿を現わすなぁ~、デカルト先生は。 虚数はimaginary numberという語が示すとおり、数学者の空想の数。自然界には存在しない数です。 ―――「自然数は神がつくった。他の数は人間が作った」by クロネッカー なんて言葉もありますが・・・――― ですが、この虚数、複素数というのは、非常に便利な数。 実数を一次元のベクトル・空間と考えると、複素数は二次元のベクトル・空間になるんですよ。 このように考えると、実数は複素数の《影》と考えることもできる。そして、虚数は、こちらの世界からでは見ることができない、もう一つの影。 哲学的には《実数・現象界》であり《複素数・イデア界》、 精神分析的には《実数・表層意識》であり《複素数・深層意識》 みたいなイメージ。 数学、とくに複素解析(複素数の関数の微分・積分)の世界ですと、イデアの世界の如く、非常に調和のある美しい世界が現出するんですよ。実数の微分・積分の世界では見えなかった関数の関係性が見えてくる。 ただ、虚数単位iは《へそ曲がり》なんです。 この《へそ曲がりの愛(i)》は、反時計回りに90°回転させる作用を持っています。 時計の針ですと、3時を12時に、12時を9時に、9時を6時に、そして、6時を3時にする作用を持つ。。 3時は1、12時はi、9時は-1、6時は-iですね。  一度《へそ》を曲げる → 善性のへそ曲がり、善性の損傷  さらに《へそ》を曲げる → ウソ 一度の《へそ曲がり》は潜在化の過程、さらに《へそを曲げる》と顕在化する。  1×i = i : (へそ曲がりの)潜在化の過程  i×i = -1 : (へそ曲がりの)顕在化の過程 な~んてね。 数学ネタのファンタジーは、う~、書けない、わたし(涙)。 これが精一杯。 ルイス・キャロルが生きていたならば、もっと面白い話を書けるのでしょうが・・・。 たぶん、虚数の世界は、虚像なんですよ。 鏡に映る虚像なんじゃないでしょうかね。

bragelonne
質問者

お礼

 そうなんですか。何にも知らずに《想像の数》という言葉だけで走って行った事例でした。  こんばんは。ご回答をありがとうございます。    複素数は あると便利だということは聞いたことがありますが あとは さっぱり。  タトエとしての結論めいたこととしては:  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~   たぶん、虚数の世界は、虚像なんですよ。  鏡に映る虚像なんじゃないでしょうかね。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~  一度の《へそ曲がり》は潜在化の過程、さらに《へそを曲げる》と顕在化する。  1×i = i : (へそ曲がりの)潜在化の過程  i×i = -1 : (へそ曲がりの)顕在化の過程  な~んてね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このあたりでしょうか。    つまりこの限りでは 《虚像》であるだけではなく《へそ曲がりでそれが 顕在化する》ということになるようですね。  ここから   ☆☆ (趣旨説明欄) 18. 《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一( -1 )となる。  ☆ よって マジハリや対話が成り立たなくなる。こういったことを思ったのでした。  ま こんなところでしょうか この質問としては。  ありがとうございました。  てふ_てふさんも そろそろ閉めましょうか。

  • Tefu_Tefu
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回答No.4

こんばんは ブラジェロンヌさん お礼ありがとうございます。 >基本は このような《虚数とそして 実数の分離》に問題がある。 何故 想像と現実が大きくかけ離れたものになってしまう人達が多いかということですね。 成功者の人達は ほぼ想像と現実は同じなのだと思います。 それだけ 行動とコミニュケーション能力が子供の頃からの生きるための習慣として身についているのだと思います。 私は理想が低すぎるために 迷いが多いのが原因だと自分では理解しています。 お人好しなのかもしれません。それは それで 問題はないのですが。(笑) やはり 失敗に失敗を重ねなければ 本当の自分の生き方は分からないのではないかと思えます。 経験なんでしょうね。 私は神を信じています。常に 神は私に寄り添っています。 それ故に 他人の教えは私にはかけ離れたものに思えてしまいます。 ただ 虚構の神に翻弄され 自分の神を忘れて争う人達が存在する現実は悲しいことですが どうすることもできないと思います。 世界中の人達が自分の神(慈愛)を信じることができればいいですね。

bragelonne
質問者

お礼

 てふ_てふさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  私は神を信じています。常に 神は私に寄り添っています。  それ故に 他人の教えは私にはかけ離れたものに思えてしまいます。  ただ 虚構の神に翻弄され 自分の神を忘れて争う人達が存在する現実は悲しいことですが どうすることもできないと思います。  世界中の人達が自分の神(慈愛)を信じることができればいいですね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 初めてお聞きしました。そうですか。でも 信仰は かたちのあるものを信じて(つまり 心に受け容れて)いるのではないですよ。  わたしの見解ですが 概念・理念あるいは観念 これも《かたち》ですよ。つまり 抽象的なものですが それは具象から必要とする一定の象(かたち)を抽出してこれをそれとしての意味のあるものとしています。  母親の子に対する愛情としての具象から 《慈愛》なる概念・理念が抽き出されます。  そして しばしば理念や概念は もはや初めの具体的なモノゴトから離れて 単なる観念になりがちです。  意味はそれとしてあるが その意味があるということのみをもって ・つまりそのような観念を持って こんどは逆に具象としての世界に向かい合い 自分の考えや振る舞いをかたちづくろうとする。  つまり これが 一般に《想像》です。  《神》は 非経験の場であり これをわれわれがそれぞれ心に受け容れたときには わが心に《非思考の庭》が成ります。これが 信仰です。想像をそして思考をも むろん 超えています。  仮りに 神は愛なり。と言ったとします。それは ふつうマチガイだとは考えられていません。そしてその意味は 神を 何とか思考や想像をとおして理解することが出来るようにと 仮りの説明をしている。ということにあります。    神は 無限である。神は 絶対である。神は 創造主である。神は 慈愛である。・・・これらは みなおのが非思考の庭にてその神を 代理表現によって理解しようとした結果の命題です。仮りに神を説明しようとすれば そのように表現されるのではないかということです。  つまり 《かみ》という言葉 これも ほんとうの神の仮りの表現であり 代理物あるいは補助線です。  神は愛なり。というのは 神について分かろうとして 補助線を引いたということです。  えらそうに述べていますが このとき《実数と虚数の分離 つまり 現実と想像世界との分離》が 説明できます。   一般に ひとが想像するということに 特に問題はありません。想像力がゆたかであることに越したことはありません。一たん現実から離れて想像したことによって 現実をよりよくする考えやものが発明されえます。  問題は 想像が現実から離れてしまって もう帰って来ないとすれば そのことにあります。  一般に おのれが想像したものごとを これはよいと思い いや最高の理念であると受け留めたとき それを 人間の思考や想像の産物であるに過ぎないと心得ているか それとも すでにこの理念を絶対なる神であると思い込んでしまうか。ここに問題が現われるのではないでしょうか。  問題となる想像物〔としての・つまり虚数としての神〕について 三つの例を挙げます。  この現実世界から たとえば《世間虚仮 唯仏是真》と宣言して つまりは現実を娑婆世界であり穢土であると言って 勝手に離れて行く場合。  言いかえると ブッダの常寂光土なる国を この現実とはかけ離れたところに――人間の思考や想像によって――求める阿呆の考え方のことです。  神でないものを神としています。  あるいは 無意識なる領域が 独自に言わば独立してあるとする見解。ただ意識していないものごとというのではなく ムイシキがあたかもおのれの意志に対して絶大なるチカラを振るうと見る《科学》的想像世界です。  そんなことを言ったら もし自分が誰かの物を盗んだとしても それは じつはわたしの意志ではなく あのエスなるムイシキの野郎がわたしの頭の中で暴れまわって ついに窃盗を犯すまでになったのです。どうか ゆるしてください。というより その行為は ムイシキが犯人なのだから わたしに罪はないはずですよね?・・・と言ったら 通って行ってしまうことになります。  もうひとつは 虚構の世界で 現実にせまるという《現実への対処の仕方》があります。つまり芸術です。ムラカミハルキを例に出していますから その小説がそうです。おもしろいのですが・ほとんど全部おもしろいのですが 中でかなり肝心なところで 超常現象が出て来ます。壁抜けなどです。これが使えると便利ですが そこからはあたかも《神のチカラが 現実世界にはたらいた》と思ってしまう。そういう現実処理の仕方が 横行してしまう。  《虚数の世界》が すでに《実数の現実》を犯そうとさえしている情況になっているのではないでしょうか?  これは 健全な生き方であるとは思えないでいます。

  • Tefu_Tefu
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回答No.3

こんばんは ブラジェロンヌさん >人間の世界に不条理を見たときに 人間不信が起こるのではないでしょうか? 人間の世界に不条理があるとしたら 自殺や自己犠牲しか 私は思いつきません。 全ての人間が生きるというために事を為しているのであるから 人間不信は一時的な感情だと思います。 韓国の恨の文化にしても 彼らが生きるために行っている活動ですが 認識不足が原因な過ちだと思います。 大事なのは 自己不信が神の不信となる問題です。 これが 人類の滅亡に繋がるかもしれません。 たとえば 人間の進化に必要な人物が世界中の人達から嫌われ者であった場合 人間の歴史は終わると思います。 >ただし――この質問が問うのは―― もしその想像力を仮りに《虚数》だとすると その広げた翼の飛びゆく世界は もし実数をみな打ち捨ててしまっているとすれば あまりにも現実離れしてしまう。まったくのモヤモヤ・ワールドに成ってしまう。 人間の想像が現実から かけ離れてしまうことはないと思います。ただ 過ちは常にあります。 >16. 代わりに ひょっとするとその虚数なる想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭をつむぎその時空間の中にあそぶというかのような虚構を生きるということかも知れない。 私は一神教の神は よく分かりません。信仰とは生きることだと思いますので 繭をつむげば太い生きる力になると思います。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。わたしから見れば やっぱりモヤモヤワールドだった。こう思います。  てふ_てふさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 信仰とは生きることだと思いますので 繭をつむげば太い生きる力になると思います。  ☆ わたしの感覚では:    信仰とは生きることだと思いますので 繭をつむげばその生きることにモヤがかかり その繭の中にもぐり込んで行くならば――つまり精神が窓を閉め切って 閉じこもるならば―― それは もはや蛸壺人生になると思います。  想像力なる虚数の世界にあって それとしては・その世界に内にあっては 《太い生き方》が思い描かれているのだと思います。けれども この生き方は あたまの中に大事にしまわれているのであって 現実の生き方とは 別である。こうではないかとうたぐります。    これが 言ってみれば 議論のすべてだと思います。細かいことがほかにもあるようですが 基本は このような《虚数とそして 実数の分離》に問題がある。こう考えます。どうでしょう。  ★ 人間不信  ☆ とは そういう《現実と想像世界との分離》を持って生きている状態ではないか。  ★ 不条理  ☆ とは そういう人間不信を起こさせた何らかの出来事でしょう。それは 道理がとおらなかった場合に起こります。上司や相手の会社の態度が 理不尽であったり よほどの詐欺や騙しに遭ったりした場合です。

  • Tefu_Tefu
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回答No.2

こんばんは ブラジェロンヌさん。 >《虚数》という想像力の世界に現実はあるか。 虚数は3次関数の解の一つでして 自然界の波動をグラフに表すとそうなるということです。 人間が地球という球面に立っているとすると、 人間の認識では 東西 南北は 直線のようにしか認識できなく, 上下は 宇宙空間への拡がり位にしか認識できないという前提にあると思います。 実際は 人間は球体に立っていて しかも その球体は自転運動と公転運動をしています。 だから 虚数は人間には認識できない現実だと思います。 虚数は 電磁気学や量子力学といった物理学分野や、信号処理や制御理論といった工学分野に当てはまるそうです。 >8.実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心が敵対心にまで広がっているかも分かりません。 虚数は人間には認識できないから 想像といえるのかもしれませんが 客観視すれば 現実として それは あります。 人間は地球を2次元の地図に表すと北と南が大きく観える 歪な形になります さらに 上下を認識するのは困難なのです。 人間の認識は3次元+時間です 実際は 台風の渦の方がより自然であり そこに 認識のずれが生じるのだと思います。 人間はこの世界を完全には認識できないのです。 人間は人間不信等はどうでもよくて むしろ 自分の想像の過ちによる神への畏れ 神への不信が起こるのだと思います。 しかし 人間が一切の出来事が自分の主観による認識不足だと気が付いた時 自分と云う神を生かすも殺すも 自分次第になります。 自分が認識できるお話は聞いた方がいいのでしょうね。  複素数は面白そうだけれども 十分に理解するには至っていません。

bragelonne
質問者

お礼

 てふ_てふさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。    ★ 虚数は3次関数の解の一つでして 自然界の波動をグラフに表すとそうなるということです。  ☆ そうですか。きちんとまづ数学として――つまり タトエではなく―― 捉えようというわけですね。  ★ 虚数は人間には認識できないから 想像といえるのかもしれませんが 客観視すれば 現実として それは あります。  ☆ なのですか。だから これを 人間がおこなう《想像力の世界》だと譬えるのは ふさわしくありませんか?  そうなのかも知れません。  ですから あとは あくまで《想像力の世界》なのだと 仮定して議論は進められています。そのようなかたちとしてながら 成り立たせようとしています。  あと 《神》の理解について 見解を異にします。よ。  ★ しかし 人間が一切の出来事が自分の主観による認識不足だと気が付いた時 自分と云う神を生かすも殺すも 自分次第になります。  ☆ 《神を生かすも殺すも》というふうには 神を捉えがたい。  そして  ★ 自分と云う神を生かすも殺すも  ☆ というときの《神》とは 何であるか?  ★ 自分と云う神を生かすも殺すも 自分次第になります。  ☆ だとしたら それは 《自分〔の能力全般〕》のことのように思われます。神は 人間を超えたものですから。  ★ 人間はこの世界を完全には認識できないのです。  ☆ そうでしょうね。  ★ 人間は人間不信等はどうでもよくて むしろ 自分の想像の過ちによる神への畏れ 神への不信が起こるのだと思います。  ☆ まづ 《神への畏れ》は 自分のあやまちに気づく場合でなくても 自然に目をやっていたり あるいは人間の身体という自然についてその内臓等のはたらきや神経組織のすぐれ具合いを思ったりすれば 芽生えるのではないかと思います。  神への不信――あるいは つまり人間不信――が現われるのは 確かに《自分の想像〔また 認識や意志行為〕のあやまちによる》ものと思います。  ただし どうして  ★ 人間は人間不信等はどうでもよくて  ☆ となるのですか? けっきょく 神として捉えているような・良心や良識が踏みにじられ 人間の世界に不条理を見たときに 人間不信が起こるのではないでしょうか? つまり あぁ この世に神も仏もないのか! という感慨とともに現われるのではないでしょうか?  ですから 神へのうたがいと 人間不信とは かさなっているように思います。  そういうときにです。そういうときに ここでの仮定としての《虚数なる想像力の世界》にのがれようとする。そこに――つまり 神にではなく そうではなく―― 人間の想像力なる世界に避けどころを見出そうとする。    わるくはないのでしょうけれど 避けどころとしては まだ確かなものなのか・確かな世界なのかは 分かりません。  ★ 人間はこの世界を完全には認識できないのです。  ☆ と知ったところで それではと言うので 現実から或る種の仕方で離れて《想像力》のつばさを広げようとする。じっさいに じんるいは広げて来ました。文学・芸術の世界でもあります。  ただし――この質問が問うのは―― もしその想像力を仮りに《虚数》だとすると その広げた翼の飛びゆく世界は もし実数をみな打ち捨ててしまっているとすれば あまりにも現実離れしてしまう。まったくのモヤモヤ・ワールドに成ってしまう。  のではないかと問うています。こんな感じです。  ★ 虚数は 電磁気学や量子力学といった物理学分野や、信号処理や制御理論といった工学分野に当てはまるそうです。  ☆ 実用されているというわけでしょうか。タトエが まづかったかなぁ。

回答No.1

iは虚で、たぶん愛とかわたしとかは実なんだけどなあ。 こんばんは、ぶらじゅろんぬさん。 先日は、わたしの質問にご投稿をいただきありがとうございました。 まだ自分のスレも読み切れていないのですが、のんびりしています。 あまりおもしろい回答が書けないので、 ふと聴きたくなった歌を置いて退場します。 かえろうか1. https://www.youtube.com/watch?v=r5X9RYja-XI かえろうか2. https://www.youtube.com/watch?v=o2xk4rt7lHY                                                                                             

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  回答がつかないのは それはそれでいいかなと思ったりしていますが どうもこの質問は トリッキーな感じがします われながら。  ★ i は虚で、たぶん愛とかわたしとかは実なんだけどなあ。  ☆ タトエだとは はっきりとことわっていますが 何となくそのタトエをいじくって行くと どうもその数というものの議論の罠にひっかかりはしないかと思っています。  この質問は かなりむかしのものですが・そして そのときよいやり取りが出来たと思っていて それでもいま・この今 ふたたび省みておきたいと思ったのですが こう趣旨説明欄を見ていると 何か幾何学の図式の中に心の思いを閉じ込めたり その線をたどって人間論をおしすすめたりに成りはしないか。こう思ってもいます。  そういうたぐいの質問もよいかも知れません。ダイナミックなやり取りが展開されるかも知れませんし。  まだ どうなるか 分かりません。開店しています。  ありがとう。

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     まづ 推測がゆるされるとしたらのお話です。    ( あ ) 虚数は 現実とどうかかわっているのか?  この問いから出た考え(推測)ですが その名のとおりに    ( い ) 虚数とは 《想像をめぐらしたその観念の世界》である。  と言えるものであるのか? これが質問です。おしえてください。         *  さらに推測を交えた世界に入りますが 趣旨説明を述べます。  まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。  たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。  ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?  たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況は相手からその答えを求められ決断をも迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。  つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( bi )とで構成される複素数( a+bi )としての実態である。ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか?  いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう?   いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけている。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心が敵対心にまで広がっているかも分かりません。  もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると見ます。  言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。   《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として・つまりやはり一でありつつ また多少そこから脱線しても元の一に戻りつつ 生きる。  ところが 現実は 複素数である。かも知れない。虚数の動きが 心に忍び込んで来るのかどうなのか 起きる。おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。  自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明も できない。できなくなる。代わりに ひょっとするとその想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭の中にあそぶかのような時空間をすごすということかも知れない。    もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数が消えてゼロになり 虚数のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?  《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一(いち)( -1 )となる。  これでは 社会における交通(まじわり)が成らない。成し得ない。  という憶測としての発見をきょう得ました。  ご教示ください。  * おまけもしくは余分:   悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか?  余計でした。つまり《さとり》についてのゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるのですよ。  ご教示を願います。

  • 《虚数》という想像力の世界に現実はあるか(つづき)

     1. まづ タトエと推測とによって話を運ぼうとするお話です。というのが 前提です。  趣旨説明を述べます。  2. まづ ことは ひとの意志行為です。これに注目します。  3. たとえば実数であれば 意志のあり方は――その表明にまで到ればなおさらですが―― イエスかノーかあるいはその中間でまだ決められないか この二つないし三つに分かれると思われます。まづほかにはないでしょう。  4. ところが 虚数の概念を仮りに導入したら どうなるか?    5. たとえば イエスもノーもまだまだ決める段階にはない。いえ その情況はすでに相手から答えを求められ決断を迫られている段階ではあるのですが どういうわけか(つまり これが 虚数の世界であるかも知れないのですが) 実数としての意志決定をしぶっている。  6. つまりは言いかえると これは 大きく見れば いまの段階としては〔その人にとっては〕不確かな実数の世界( a )とそして同じくいま考えあぐねているその想像の雲に乗った小世界( b i )とで構成される複素数( a + b i )としての実態である。ということになりましょうか? いえ どうなのでしょうか?  7. いまもし ひとがたとえば人間不信に落ち入っていて世の中に反感しか持ち得ず もはや実数としての意志決定を成し得なくなっているとしたら どうなるでしょう?    8. いまの仮説のかぎりで その人は 虚数の世界にのみあることになります。すべては 想像をめぐらしつづけているだけとなる。と言えばまだ恰好がついているかも知れませんが 実際は その想像というのは うたがいに満ちさらにはその猜疑心があるいは敵対心にまで広がっているかも分かりません。  8-1. ということは 現代韓国人の――特には日本人に対する――心的現象を分析しようとしているわけです。  9. もし人の生きることが 自己表現であり 自己表現は それとしておのれの文体を成すとしたら おそらくそれは《わたしがわたしであるそのわたしが わたしする》動態であると見ます。  10. 言いかえると わが自己表現の文体は 《わたしがわたしである》その自己同一性のさらに自乗として限りなくつづく過程である。   11. 《わたし》が 数として一であるならば 一の限りなき自乗として一である。と同時に ときには多少とも道草を食いつつまたそこから脱線をもしつつ 元の一に立ち戻って生きる( 1^n = 1 )。  12. ところが 現実は 複素数である。かも知れない。  13. 虚数の動きが 外から心に忍び込んで来るゆえなのか自分から何を思ったかおのれ自身をめぐるあらぬ物語を紡ぎ始めるゆえなのかどうなのか 起きて来る。  14. おまけに《一》から脱線したときには 元の動態とその軌道が分からなくなる。もはやそこでは あたかもあの悪名高きムラカミハルキ・ワールドつまりモヤモヤ・ワールドのごとく 虚数なる想像一色の世界となる。  15. 自己表現の動態としてありつつも 実数としての意志決定が・したがって意志表明もが できない。できなくなる。  15-1. ただ敵対すると思い込んでいる相手つまり仮想敵に対してあらん限りの罵りをのみ叫び続ける。  16. 代わりに ひょっとするとその虚数なる想像力をたくましくしてあたかも巨大な繭をつむぎその時空間の中にあそぶというかのような虚構世界を生きるということかも知れない。《ウリナラ・ファンタジー》。    17. もしこの現実としての複素数なるわが文体が その中で実数( a )が消えてゼロになり 虚数( bi )のみによって成るかたちを取ったとしたら どうなるか?    18. 《わたし》の自乗の動態は あたかも マイナス一( -1 )となる。  18-1.ひとつの解説をすでに得ています。  ◇ ~~~~~~~~~~~~  一度の《へそ曲がり》は潜在化の過程、さらに《へそを曲げる》と顕在化する。   1×i = i : (へそ曲がりの)潜在化の過程   i×i = -1 : (へそ曲がりの)顕在化の過程  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  19. これでは 社会における交通(マジハリ)が成らない。成し得ない。    20. というふうに推し測った仮説です。  いづれの論点についてでもよいですから ご教授ください。  21. おまけもしくは余分: 悪名高きモヤモヤ・ワールドは 精神分析ワールドでもありますが 日本人のあいだでは やはりむしろブディズム――その悪しき部分――に放射能源はあるのではないか?    22. つまり《さとり》についての満ち溢れるゴミ解釈が社会の処理能力を超えて無限に造り出されていはしまいか? 虚数としてかんたんに誰でも言えるからのように。  23. これは 人間にとって不幸である。千年一日のごとき生活幻想がつづく。そういう部分がどこかで根を張っている。言いかえると ゴータマ・ブッダの《大芝居:大化城》なる桃源郷に避けどころを見出そうとする心の動きである。  24. つまり――減らず口をたたき続けますが―― わが日本人にあっては 外に仮想敵をつくり敵対心を発散させることによって 日頃のうっぷんの捌(は)け口とするシワザは おこなわないようではある。  25. ひとはすべからく現実に向き合わざるべからず。過去は捨てよう。  26. なおこの設問は 《存在とは何か?》なる問いに答えようとする問い求めです。《現実存在 つまり 要らぬ過去(脱線)を捨て余計な想像世界(本質論)を脱ぎ捨てて現実に向き合う存在⇒つまり 実存》 これが 《わたし》であり《存在》だという仮説です。

  • 虚数から見ると実数は虚になるのでしょうか

    虚数と実数では虚数のほうが初めにあったのではないかと根拠もなく、想像(空想)しています。生物学ではRNAとDNAのような感じです。それとも虚数と実数は同時に存在を始めたのでしょうか。歴史からは実数のほうが先に認知されたとのことですが、虚数の世界から見れば実数の世界は虚の世界というようなことはないのでしょうか。実数がなくても虚数だけでi^2で負数、i^4で正数を表せるのに反し、少なくとも正数では虚数を表現できないとすればやはり虚数のほうが先かとも思うのですが・・・

  • 2乗して-1になる数以外の虚数はあるか

    虚数は英語だとimaginary number(想像上の数)だそうですが、 「2乗して-1になる数をiとして、a+bi(a,bは実数)で表される複素数」 以外の想像上の数として数学界で認識されているものはあるのでしょうか? 例えば、N ÷ 0 = 1 を満たすNとか、N!(階乗) = 3 を満たすNとか、現実にはありえない数はあるのではないかと思いますが(数学的に意味があるかはさておき)、虚数が√-1をもとにした数だけなのか気になりました。

  • 偶数と奇数の関係と実数と虚数の関係とどこか似ていますか

    偶数に1を足すと奇数になるというような日常的な経験で両者の間の関係を理解していますが、数学的にはもっと深遠なことがあるのではないかと想像します。実数と虚数はたすと複素数になりますが掛け算ではお互いが一つになるようです。群というものと関係があることかと想像しますが、数学的センスの香りだけでもかがせていただければ幸いと思います。

  • 《息をするようにウソをつく》人間の起こり

     ――または 《虚数人間》の成り立ちについて――  ――または ねむりねこ=ぶらじゅろんぬの定理――  現代韓国人がいかに気がちがっているか。これを明らかにする理論的な試みです。ご検討・ご検証をよろしくどうぞ。  1. 次の道筋をとおって 虚像人間ができあがる。  (α) ひとは自然本性にもとづき 意志を中軸として生きている。  (β) 意志としての心がひねくれると へそが曲がる。  (γ) へそ曲がりでよいと確認しひねくれ続けると 心が裏返される。  (δ) ひとの心はリバーシブルとは言えないはずだが 裏返った心でおこなった意志行為も あたかもふつうの意志行為と変わりないように見える。  (ε) すなわち 《虚数人間》の誕生である。  2. 以上をタトエにおいて 座標で捉えてみる。   前提として:    x 軸: 意志のありか(意志としての思い)    y 軸: 意志の行為(思いの自己表現)    z 軸: 虚数軸。たくましき想像の世界。   (α‐1) はじめに x = 1,y = 0, z = 0 なる地点にわが意志はある。   (β‐1) ヘソを曲げると x = 0, y = 0, z = i なる地点に舞い上がる。       意志を失くしてしまい( x = 0 ) 想像力のみの世界に入る( z = i )。   (γ‐1) これが確定すると 意志のありかとして x 軸に降りて来る。       すなわち x = -1, y = 0, z = 0 なる地点に移った。       想像の世界を去ったが 意志のありかは 想像世界をよしとしているから マイナス( x = -1 )となっている。   (δ‐1) この( -1, 0, 0 )なる意志のありかから自己表現として意志行為をおこなう( y = 1 )と たとえば ( -1, 1, 0 )なる地点で発動されることになる。      すなわち 意志行為( y 軸)のみを取れば ふつうの意志のありか( 1, 0, 0 )からの発動・つまり( 1, 1, 0 )と較べても y 軸が プラスの 1 であることに変わりない。   (ε‐1) ゆえに 虚数人間が 見た目ではほとんどふつうの現実を生きていることとなる。《ほとんど》に力点を置く。      違いは いわゆる動機の問題となる。それは 内面における良心の問題であるゆえ 外から他人がとやかく言うことはかなわない。  3. さらに細かい説明として。まづ 人間の・特に意志のあり方としてこれを 広く捉えて複素数( a + bi )で表わすこととする。  (α)から(ε)までの四つないし五つの段階に応じて 次のごとくである。   (α‐1)の《 x = 1,y = 0, z = 0 なる地点》というのは      a = 1, b = 0 でまだ意志を発動していない段階を言っている。     意志の思いのみがある( a = 1 ⇒ x = 1 )。へそを曲げてもいない( b = 0 )。   (β‐1)の《ヘソを曲げると x = 0, y = 0, z = i なる地点に舞い上がる》というのは 意志のありかが定まらなくなった状態である( a = 0 ⇒ x = 0 )。その代わりに 想像力としてのあたかも代理意志なる b が 1 として登場する。    すなわち:      a = 0 〔⇒ x = 0 〕,  b = 1   (γ‐1)の《 x = -1, y = 0, z = 0 なる地点に移った》というのは (β‐1)の z = i にさらに 同じくへその曲がりとしての i が掛け合わされることによって 虚数部分の b i が 1 x i x i = -1 となることを表わす。     この -1 は とにもかくにも 実数となったわけである。よって ほんとうは x 軸上の地点ではないはずであろうが 結果として x = -1 なる地点にあると捉えられることになる。     これは 人間の心はひろく 現実は 寛容であることを物語るか。    《結果として》というのは (δ‐1)で見たように 意志の思いが発動されて意志行為となったときには その y 軸としては プラスになり ふつうの意志行為と変わりないかたちになることを言っている。   (ε‐1)としてわれわれは 虚数人間をひろく深い心においてつまり自然本性の共生するチカラに限りない伸び代(潜在性)を遠く見据えてまた恃んで 市民権を互いにあたえ 迎え入れている。   (嫌ったりからかったりするのは 表現の自由にもとづく。また負の向きのヱクトルも ひろく愛である)。

  • 虚数時間とか虚数質量という言葉をよく聞きますが

    啓蒙書などで相対性理論を勉強している者なので、とんでもない馬鹿な質問かもしれませんが。 よく、「虚数質量等を認めれば、タキオンは相対性理論で理論的にはあり得る。ただし、存在は確認されておらず、因果律を破るので、通常、タキオンは認められていない」と書かれていることが多いですね。しかし、それは本当なのでしょうか?(存在したとしても不安定、などとかも聞いたことがありますが、もっと初等的な問題として。) ローレンツ変換の式というのは、あくまでも、物理量が実数であって、平方根の中が負でない実数であることを前提としてますよね。従って、超光速が出てきて平方根の中が負の数の場合に、この式が形式的にそのまま当てはめられる理論的保障はあるのでしょうか? 光速度不変の原理は、慣性系で原点から光の球面波が発せられたとき、この球面波がc^2t^2=x^2+y^2+z^2 を満たす(原点を共有する慣性系で同じ形)と言うところから出発していますね。これはピタゴラスの定理から来てます。しかし、虚数質量とか虚数時間などを考えるとなると、「もしかしたら物理量は複素数かもしれない」という「仮の相対論」(物理量が実数のときは通常の相対論に一致する)を考える必要はないでしょうか?(光速度は実数だとしても) ピタゴラスの定理の複素数版は基本的にエルミート内積を使うので、「~」を共役複素数を表すとして、光速度不変の式は(t,x,y,zが実数とは限らないとして) c^2tt~=xx~+yy~+zz~ にならない保証はあるのでしょうか? 特殊相対論では(面倒なのでc=1の単位系を使うとして)、ds^2=dt^2-dx^2-dy^2-dz^2 が不変量とされてますが、もしかしたら、複素数まで認める場合は不変量はエルミート積の考え方で ds(ds)~=dt(dt)~-dx(dx)~-dy(dy)~-dz(dz)~ (別の書き方をすれば、|ds|^2=|dt|^2-|x|^2-|y|^2ー|z|^2)かもしれないという不安があるので、本当に単なる2乗で大丈夫なのか?がお聞きしたいのです。 というのは、量子力学では本質的に複素数を使うと聞いたからです(私は「『ブラベクトル』『ケットベクトル』って何???」というレベルなjのですが、とにかく、内積にはエルミート積を使ってますよね?)。状況によっては、量子力学と相対論を両方使わなければいけないことがあるはずですが、もしここで、虚数時間や虚数質量を使おうとした場合の虚数単位iの意味が相対論と量子論で別かもしれない不安がありまして・・・ええと、よく分からないが、量子論では、実数のかわりに自己共役作用素になるらしい、ということは、純虚数は反共役作用素になるのか? もっとも、自分でこのやり方で相対性理論を見ると、不変量が |ds|^2=|dt|^2-|x|^2-|y|^2ー|z|^2 に変わってしまうことになるので、若干意味が変わってしまうのがやばいとは気づいてます。 時間軸を虚数時間を使って cti 軸とするテクニックも使えなくなるわ、アインシュタインの略記法の意味も変わってしまうわ(↑を上付き添え字、↓を下付き添え字として、v↑μが反変ベクトル、w↓μが共変ベクトルのとき、v↑μw↓μ=∑[μ=0・・・4](v↑μ)~(w↓μ)となりそう)、などなど意味がどんどん変わってしまいます。計量ってのもよくわからないけれど(そもそもテンソルも分かってない)、意味が変わりそうです。 (ds)^2<0 となるdsは虚数を使えば存在し得ますが、|ds|^2<0 となるdsは複素数内でも存在しない。 従って、タキオンは因果律を持ち出さなくとも存在しない、めでたしめでたし・・・にはならないですね。 理論を変更するには多大な労力が必要ですが、苦労しても「今までできてたことができなくなった」というデメリットばかりなので、自分でも「これは駄目だわ」とは思うのですが。 それでも、理論的に、虚数時間などを使う場合に、ローレンツ変換のあの式がそのまま形式的に使えるかどうかの理論的根拠はあるのかどうか?が気になるので、あえて質問させていただきました。

  • 虚数を含む物理学の公式を数学で理解すると

    偶々ながめていた物理学の参考書のなかに「この公式で実際測定できるのは実数の部分で虚数の部分は測定されない・・・」と書いてありましたがこれは数学的にはどういうことを意味しているのでしょうか。虚数を含む公式は量子力学などにも沢山出てきますが、等号で結ばれている両項のなかで実際認識できるのは一部であるということと、認識できない部分を理解してしまう数学的な力との関係がとても魅惑的な感じがするのですが・・・この現象は数学を使わないと表現しにくいというようなことが専門家によってよく書かれていることとも関係があるのだろうと想像しています。

  • 複素平面 と 実数X-Y軸が混乱して困っています

    複素数にお詳しい方、どうぞ宜しくお願いします。数学の知識は高校生レベルです。 複素平面が、いわゆる実数のX-Y軸と区別できるのはなぜですか? 実数X軸と「直交」する形で虚数軸が存在していて、複素数の値は「複素平面上」に点として表現される・・・と習いました。だけど、この複素数の仕組みを理解しようとすると、X軸-Y軸が直交する普通の実数座標平面と複素平面が、同じものであるという理解になってしまう気がします。つまり、実数Y軸=虚数軸という論理になってしまうのではないでしょうか?間違いなく誤解していることは”自信”があるのですが、イメージで捉えると、どのように解釈になるのでしょうか?

  • 『数』 ~概念の拡張~

    複素数を扱う際に、複素平面という2次元のフィールドがありますよね。人類が実数しか知らなかった時代は、『数』は、数直線上の1次元にしかなかった。虚数と実数の織り成す2次元の『数』の世界、これは人類に多大な恩恵を与えた。ここで思ったんですが、『数』の概念をさらに拡張して、3次元の複素空間(?)とでもいうべき新たなフィールドって現代数学で研究されてないのでしょうか?四元数とかベクトルとは、ちょっと違う概念なんですけど・・・ x軸(実数)、y軸(虚数)、ここまでは複素平面、z軸(新しい『数』の拡張概念)この3つでできる数空間みたいなものです